徳永圀典の「近現代史」 その八 7月

鉄道王

アメリカの鉄道王と言われたハリマンによる満州鉄道の日米共同計画は時の桂総理の内約を得ていたが、小村外相の強い反対で中止となった。これにより米国は日本を国際競争相手として強く意識した。日本を仮装敵国とした戦争計画であるオレンジ計画がこの頃密かにできている。その筋書き通りの対米敗戦が1945年であり、この間実に40年、迂闊な対米認識と言える。明治39-1906年にサンフランシスコで日本人学童排斥事件が発生したのは当時の米国の意識を示している。そして日本人移民を制限し排斥運動が顕著となって行く。黄色人種日本人をターゲットにした明白な人種差別である。当時の中国人はまともな人間扱いをされていない。対米感覚は、当時の日本としてやむを得ないものがあったが、英国の力を重視し傾斜しすぎて、巨視的に世界の未来を洞察し米国の満州経営参加を認めたほうがその後の推移から見ても正解であったといえる。それは対ロ、対中国戦略としても有効であったろう。白人の世界支配体制は牢固たるものがある。

国内情勢

日露戦争で小国日本が大国ロシアを破り意気あがる民衆は講和条約を不満として桂内閣は倒れた。明治49-1907年恐慌により再び桂内閣となり戊申詔書により国民に節約と勤勉を説き国力増進を目指した。然し夏目漱石が当時を悉く暗黒だと嘆いている。経済が目覚しく繁栄する一方で弱者救済の社会政策が遅れ労働運動が盛んとなる。

日韓併合

明治初年の征韓論から実に40有余年、隠忍持久してきた日本であったが明治43-1910年遂に日本政府は韓国を併合した。欧米流の植民地扱いではないく日本国民とした。清国そしてロシアとの確執に勝利した日本は、極東の安定の為に韓国を併合せざるを得ない国際的流れとなっていたのである。当時の世界の趨勢から見てこれは自然の流れと言えた。

日露戦争開戦直後の明治37-19042月、韓国領内の日本軍の自由行動を内容とする日韓議定書、8月には韓国政府の財政・外交顧問に日本政府推薦者を入れた。1905年には第二次日韓協約により韓国の外交権を接収して保護国とした。ソウルに統監府をおいて初代統監に伊藤博文を任命。1907年韓国はハーグの第二回万国平和会議に密使を送り実情を訴えたが列強には受け入れられなかった。

第三次日韓協約を結ばせ内政権を統監の手に収めた。明治42-1909伊藤博文は韓国独立運動の安重根に射殺されたこれを見て明治43-1910年遂に日本政府は韓国の併合を決断した。朝鮮総督府を置いてい凡ての政務を統括する事とした。

日韓関係一覧

年代

事項

明治6-1873

征韓論起きる-中止

  8-1875

江華島事件

  9-1876

日鮮修好条規-江華条約

 15-1882

壬生の変-斉物浦条約

 17-1884

甲申の変

 18-1885

日鮮漢城(京城)条約・日清天津条約

 27-1894

東学党の乱・日清戦争

 28-1895

下関条約

 37-1904

日韓議定書・第一次日韓協約

 38-1905

第二次日韓協約―統監府設置

 40-1907

ハーグ密使事件・第三次日韓協約

 42-1909

伊藤博文、ハルピンで暗殺

 明治43-1910

日韓併合条約―総督府の設置

弱肉強食の修羅場
列強が世界最後に残された極東で隣国を蚕食する時、日本は見て見ぬふりとか放置すれば間違いなく日本自体も侵略の矛先が向かってくるのは理の当然である。その時に戦後の左翼のように、平和・平和とお題目を唱えておれば安全か、それはナンセンスである。それは北朝鮮問題で明白である。主権国家が国民の安全を守るために対抗措置を取るのは他国に非難される筋合いではない。日本の生存権である。
日露戦争に勝つと明治40-1907年、日露協約を締結した。両国は東アジアの現状維持を確認した。秘密協定では、南満州における日本の、北満州ではロシアの利益範囲を協定し、韓国における日本の、外蒙古のロシアの特殊権益を認め合った。これは現在のイラク戦争後の利権協議にフランス・ドイツが排除され東欧のポーランドやスペインが参入した如くである。当時の敗者は弱者であり悲惨であった。日本は白人に勝ったのである。明治43-1910年にはアメリカによる満州鉄道中立化案を阻止する為に満州の現状維持を確認し鉄道権益の確保を日ロ両国が協力を約した。大正元年-1912年には内蒙古の日露両国の利益協定を結んだ。これから40年後に対米敗戦するのだが、日本に奢りがあったの否めない。
当時の中国情勢
1911年、清国の支配に抵抗して革命軍が中国各地に蜂起し武漢・南京を占領した。これが辛亥革命である。1912年三民主義の孫文を臨時大総統とする中華民国が成立。しかし、北京で実権を握った軍閥の袁世凱が清国12代の宣統帝を退位させて中華民国大総統となり政敵の孫文は日本に亡命した。
武士道
新渡戸稲造は明治17-1884年、22才で渡米した。米国人に日本の宗教教育に関して質問をうけた事が契機となり新渡戸は日本人の道徳観念のルーツを思索した。アメリカ人の妻が日本人の物の考え方行動様式の質問を受けていた。それをもとに「武士道」を出版したのが明治33-1900年である。新渡戸によると、武士道とは、日本の長い歴史の中で神道を基盤として、仏教や儒教を受け入れつつ形成された道徳であり、日本人の倫理の源泉である。この書物にはバイブルやギリシャ・ローマの古典などが豊富に引用されており日本が日清戦争、日露戦争に勝利した精神力の源泉であるとされ世界中から注目され各国語に翻訳された。新渡戸は後に国際連合事務次長として活躍、昭和天皇の思し召しもあり日米関係の修復に尽力している。その高潔な人格は「心に真理を秘めた古武士」として世界中から人々の尊敬を集めた。

教育制度
明治5-1872年、文部省はフランスの学区制にならった学区制を発布した。学問は智を開き身を立てて産を作る為とする実学主義を説き各地に小学校を設置した。専門教育では明治10年開成学校と東京医学校を統合して東京大学を設立、さらに師範教育や女子教育の普及を図った。民間では福沢諭吉の慶応義塾、新島襄の同志社英学校の私学、大隈重信は東京専門学校を創設した。海外留学も奨励し明治7年には5百名以上がイギリス・アメリカ・フランスに留学している。国民あげて西洋文化へと怒涛のような盛り上がりが感じられる。白人に真に負けていた近代技術と近代法以上に西洋カブレし行き過ぎたものを残したことは否めない。
思想の潮流

福沢諭吉が英米流の功利主義・自由主義を紹介し人間の自由・平等・独立の精神と実学を説いた。フランスの天賦人権論や社会契約論、ドイツの国権論も紹介された。徳富蘇峰は政府の欧化主義を貴族趣味と批判し平民主義を唱えた。三宅雪嶺、杉浦重剛らは西洋一辺倒の風潮を批判し日本には本来優れた思想・文化があり、これの保存は発展こそ肝要と説いた。陸羯南は政府の安易な欧化政策や妥協的な条約改正交渉を非難し日本の独立、国内的には国民的自由を主張。高山樗牛は日本主義を唱え古来の伝統重視と国民精神発揚につとめた。これらが明治中期の主流であったのは怒涛のような欧米文化に日本のアイデンティティ喪失の危機感が背景にある。対米敗戦後と酷似しているのは矢張り欧米への劣等感に根ざしており真の日本文化に自信のない日本人の愚かさ、嘆かわしさが見て取れる。

宗教の動向

明治初期の廃仏毀釈に仏教界は大きい衝撃を受けたままであった。徳川家康は一向一揆により宗教の恐ろしさを身にしみていたので浄土教を特に庇護して民衆対策をした。神道は、垂迹説の挫折により独自の教化を試みた。キリスト教は来日した外国人により熱心に伝道した。内村鑑三などのキリスト教思想家が現れた。近代思想や個人主義に大きい影響を与えた。キリスト教はサビエル時代から今日まで5百年経過しても韓国と異なり人口対比約1パーセントしか普及していない。教養としてのバイブルは魅力があるが自然崇拝で、縄文からの神道は日本人の心の中に確りと植え込まれているようである。西欧神ゴッドと日本の神さまとの相違は歴然として違うものである事の認識は正しくしておかなくては欧米思想に巻き込まれるだけである。

国歌・国旗の由来
日の丸は「日の本」の国にふさわしいデザインとして古くから扇や旗に使われてきた。江戸幕府が開国にふみきると、日本と外国と区別する印が必要で旗印と定めた。安政元年-1854年に日本総船印と決め、国の内外に布告した。それにより諸外国も日の丸が日本の国旗と認識されたので明治3-1870年に新政府も布告した。地図上でも地球で最初に太陽を受けるのは日本である。限りない白の空間と太陽のシンプルなデザインは品位が高い。君が代は「わが君は」で始まる原歌が十世紀初め「古今和歌集」賀歌の冒頭に掲げられ長寿の歌として愛唱されてきた。そこで明治3年、国歌の歌詞として古来の「君が代」を選び、来日中のイギリス人が曲をつけた。しかし、その旋律が歌詞に合わず明治13年宮内省の林広守らが雅楽の譜を作りそれに海軍省の音楽教師エッケルトが洋楽式に編曲した。欧米諸国の国歌の歌詞は戦闘を叫び血とか武器とかで報復を叫ぶ軍歌調ばかりである。日本の国歌の素晴らしい格調ある曲と歌詞は世界一と断定できるものである事を国民は知らなくてはならぬ。
ラフカデイオ・ハーン
小泉八雲は明治23-1890年ギリシャ生まれの英国人。帰化して小泉八雲、中学時代に八雲の英語で大いに学んだ。幼くして母を失いその慕情が東洋文化を暖かい目でとらえる大きい要因と言われる。19世紀は西洋文明優越時代で、近代化即西洋化、文明化即キリスト教化、の観念が世界を、特に日本を支配していた。その時代に八雲は、日本の庶民の間に流れる伝説や固有信仰に深い共感を持った。日本の風土とそこに生業を営む人々の心に魅せられた。そしてそれを英文で海外に紹介し日本の伝統文化の良さを伝播した人である。
国際情勢の変化と日本 対米敗戦の序曲
1.陸軍横暴の端緒
大正天皇が即位され明治最後の内閣は西園寺であった。不況の中軍備拡張を図りつつも財政緊縮化につとめていた。朝鮮駐屯の二個師団増設が閣議で否決、不服とした陸軍大臣上原勇作が単独で天皇に辞表提出。陸軍が後任の陸軍大臣を推薦しなかった。為に内閣は総辞職した。この時、陸軍参謀総長・軍令部長や陸軍大臣が内閣とは別に天皇に進言する、帷幄上奏権が問題となる。この時に大東亜戦争への助走が始まったと言える。陸軍の横暴こそ先の大戦・中国への戦争の真の原因と思うからだ。
2.尾崎行雄の議会演説
大正2-19132月桂内閣不信任案上程時の弾劾演説である。「彼等は常に口を開けば直ちに忠愛を唱え、恰も忠君愛国は自分の一手専売の如く唱えておりますが、その為す所を見れば、常に玉座の蔭に隠れて政敵を狙撃するが如き挙動を執っているのである。(拍手)彼等は玉座を以って胸壁となし、詔勅を以って弾丸に代えて政敵を倒さんとするものではないか。・・・又、内閣総理大臣の地位に立って、然る後政党の組織に着手するというが如きも彼の一輩が如何に我が憲法を軽く視、その精神のある所を理解゛ないかの一斑が分かる。」(帝国議会衆議院議事速記禄)桂総理は天皇の詔勅の威力を乱用し政府への攻撃を抑えようとした、これは非立憲的であると非難された。ここらに天皇を悪用する卑しい臣下が戦争独走への道を開いて行く。
明治の精神
明治天皇の御製「ゆくすえはいかになるかと暁のねざめねざめに世をおもふかな」に見られるように、国民と国民生活に深い関心を抱いておられた。国民も天皇に全幅の信頼を置いた。乃木希典陸軍大将が自刃の辞世「うつし世を神去りまし大君のみあと慕ひて我はゆくなり」。森鴎外は乃木大将の殉死の持つ意義を歴史小説「興津弥五右衛門の遺書」を書いた。夏目漱石は乃木の殉死を内面化した小説「こころ」の中で「・・すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終わったような気がしました」これ等が明治の精神を現している。