古代史「一瞥」

 

古代史に興味を持って久しい。色々なご意見を拝受してきた。中でも、邪馬台国は結論の出ない状況である。

 

大阪湾でも、纏向でも、生駒山でも、古代の地形は現在と大きく異なる。

中でも古代は道路がなく、恐らく海岸沿いの移動が主であったのは歴然としている。

 

さて、

鳥取県を俯瞰すれば、

1.   大山寺創設は1300年前であり法隆寺より百年遅いだけ。

2.   大山山麓の妻木晩田遺跡は全国的規模である。

3.   青谷廃寺でも、法隆寺並みの瓦が出土されている。

 

更に、鳥取県沿岸の東方を俯瞰すれば更に興味深々の歴史が現存している。

1.   丹後半島の籠神社である。饒速日神の子孫とされる系図は国宝である。

 丹後半島の湾は穏やかで潮流に流されてきた大陸 

 人の恰好の居留地であったろう。

2.   丹後半島の西海岸に、現在の京丹後市に「函石浜」があるが、ここに出土していた遺構は、他に例が見られぬという。

シナ大陸は、前漢と後漢の間に15年間だけ存在した王朝がある、「新朝」であるが、その王莽の貨幣、刀銭、勾玉、更に出土例の少ない大陸系の硬玉、こうぎょく」など東アジアとの広い交易の証拠が残存している。

 

話題を転換します。

1.   対馬に天照大神を祭った神社がありました。対馬の中央部の「小船越」に「日の神」即ち天照大神です。

2.   さらに天照大神の弟である「月の神」は、壱岐の中央部の「月読神社」にいる神です。

3.   対馬には、神武天皇に結び付く、高皇産霊神、たかみむすびのみこと、豊玉姫、海神、わだつみ、天忍穂耳尊、あめのほしほみみのみこと、み対馬にいたのです、

 

古代の瀬戸内

1.古代は現在より海面が数メートル、場所により10メートルは高い。

大阪、岡山、広島、福岡などの沖積平野は全て海の底であった。

3.   三世紀ごろまで、手漕ぎの小舟で活動していた。大陸からきた外国人には無理な通路であったと思われる。2-3日以上の航海は不能であったと思われる。

4.   瀬戸内海でも急流がある。

 向島、因島、生口島、大三島、伯方島、大島などて難所である。

 

古代の博多湾

1.   九州北部の平野は、海中にあった。

2.   九州北部の海も、呼子、唐津、博多湾から宗像、遠賀川付近まで内海であった。

3.   その外海は玄界灘で恐ろしい海である。

 

以上、縷々ポイントを展開しましたが、

要するに、大陸の船は、瀬戸内海は航海不能である。

 

南して邪馬台国に至る。女王の都する所なり。()()国、より水行すること十日、陸行すること一月なり。   倭国伝より

 

ここで魏志倭人伝を素直にやれば邪馬台国は太平洋のど真ん中になる。

当時の海の航路の実際的航海から追うと

近畿説は実現不能、九州説は鉄の経済圏の商圏が大きく無理。

山陽道は海岸線は海の中、

陸行にこだわると日本海沿岸の山陰道しかない。

 

ここで、再び日本海沿岸の戻ります。

 

著者の陳寿が話をきいた場所は壱岐対馬あたり、

壱岐対馬から下関まで10日、

ここから山陰地方の沿岸を歩いて一ケ月、

地図上にヤマトと発音する場所に到着する。

ヤマトの国は丹後。

邪馬台国は倭国、

大和ではない倭である。丹後であつる

日本書記も丹後との結びつきを語っている。

京丹後市の函石浜から出土する遺構は、他に例を見ないのだ。

 

前述の新朝の遺品の数々、丹後は隠された秘密が多い。

今回はここまで。

丹後半島です。

丹後こそ、卑弥呼の拠点ではないかとの説があります、九州南部、瀬戸内、勿論、大和ではない。

古代の自然の流れから言えば日本海沿岸しかない。

それは丹後だとすると、いろいろ納得が行くではありませんか。

卑弥呼は丹後に賛成!!!

 

             令和3年6月23

 

    徳永日本学研究所 代表 徳永圀典