鳥取木鶏研究会 7月例会 平成2077 

国家と社会

人間の思想、イデオロギーといったようなものも、このような事が沢山あります。特に大正から昭和の初めにかけて国家論というものが大変盛んになりました。国家とか社会というものが哲学者や大学の法学部等でやかましくなり、それまでは国家万能であったのですが、学者が国家のほかに社会という概念を発見した。

これはコロンブスの新大陸発見より重大であるというようなことを言い出しまして従来は国家しか知らなかった国民に教えだしました。

国家とは、土地と人民と主権者の三つの要素から成り立っておるが、社会というものは土地と人民の組織体であり、国家と社会の相違はつまり主権者の有無ということだ、これからは国家主義よりも社会主義でなければならないと教えました。これが大流行していまだにその影響が残っております。 

イデオロギーの遊戯

社会主義思想を進歩的だとして国家というものを罪悪視する思想、考え方がいまだに抜けません。この、そもそもの原因は、先ほど話したあの考え方であります。我が父は、我が子にして、我が娘は我が母なり、我が妻は我が祖母にして我は、我が孫なりという論理の遊戯と同じであります。

このように根源に返ってみますと何だということになって分かるものですが、それが国家学だという風になってくると分からなくなってしまいます。イデオロギーの遊戯というものであります。 

不易学

理知に走りすぎると分からなくなる、これは易学でなく、不易学であります。易学というものは、こういう概念や論理の束縛から解放しなければなりません。またそれは大いに役立ちます。現在の思想、学問の一部には頑固な不易、即ち固定、擬帯した概念と論理のまことに困った傾向があります。そういう意味でもこの易学というものは大いに活用しなければならぬと思います。

次回は、易の(たい)(きょく)、陰陽、()(こう)を説明し、易の六十四卦というものが人生、思想、国家等をいかに巧妙に且つ用意周到に観察、解説しておるかということを申し上げたいと思います。(昭和52年10月6日講) 

(つちのえ)(うま)の新年

今年は、皆さんもご存知のように、去年の干支、丁巳(ていし)―「ひのと・み」の後を受けまして、(つちのえ)(うま)という年(昭和53年)であります。

干支―えと、というものが余りにも普及し、通俗化致しまして、まことにたわいない伝説、俗解が多いのてでありますが、学問的には、もっと正しい意味がございます。そこで私は、毎年新年の初会合にはなるべく干支の本当の意味のお話をすることに致しております。 

干支の弊害

処が、本年は非常に世情が不安と見えまして、この干支の話が方々で話題になっておるようであります。そうなりますと、矢張りとんでもない誤解、曲解、俗解が流行致しまして、よく思いがけない人から「本当の意味はどういうことですか」などと聞かれます。そこで本日は、年頭の講義でもあり、最初に今年の干支の正しい意味をご参考までにお話し致します。 

(ひのえ)(うま)の話  

この俗解というものは、通俗だけならいいのですが、どうかすると非常に弊害がありまして、その極端な一例が、(ひのえ)(うま)―「ひのえ・うま」であります。これには、どれくらい女たちが迷惑しておるかわかりません。

これは決して年の干支の問題ではなく、強いて言えば、日の問題であります。

つまり丙午の日に生まれた人は、男女を問わず統計的に、配偶関係に悩み、支障が多い傾向があります。これは統計ですから、悉くというわけではありません。そして男女ともでありまして、女に限るのではない。処が結婚というようなことになりますと、どうしても男より女が関係するところが深刻ですから、いつの間にか、男のほうの問題でなくなり、女の特別のことのようになってしまいました。これは女にとつて大変迷惑なことであります。

(うま)の意味は

今年午年でありますが、丙午ではなく、戌午ですけれども、ついこの間も、友人から「戌午の女は、問題ありませんか」という質問を受けて、「何故そんなことを言うのか」と聞きましたら「実は、自分の親戚の娘に縁談があるのだが、午年だというので首をひねつておる、これは重大問題なのでお尋ねする」ということです。「いや、そんな心配はすにないから安心しなさい」と答えておきましたが。そういうことは少なくないのであります。 

誤解の通俗化

然し、そういう誤解が通俗化する多少の原因と理由というものが(うま)の字にあります。それは(うま)という字には「さからう」という意味がある為です。?―りっしんべんをつけた午の()も、しんにゅうをつけた午の?()も、さからうという字であります。 

(きのえ)(きのと)の字

また干の(つちのえ)の字は、くさかんむりをつけた()、しげる、と同じ字であのます。十干というものはご承知の通り、(きのえ)(きのと)(ひのえ)(ひのと)(つちのえ)(つちのと)(かのえ)(かのと)(みずのえ)(みずのと)、の十種類でありますから、(つちのえ)はちょうどその真ん中に当たります。

甲―きのえ、は初春、木の芽が殻を破って出たという象形文字で、従って芽が出たが、まだ寒いので、伸び切らずに曲がりくねっておるという象形文字が、乙―きのと、でありまして、春寒料峭(しゅんかんりょうしょう)の季節をあらわしております。 

(ひのえ)(ひのと)

それからずっと陽気が進展致しましてあきらかになったのが丙―ひのえ、であります。そこで火―ひへんをつけますと、((あきらか))あきらか、季節でいうと陽春にあたります。

その陽気の末期が(てい)―ひのと、でありまして、ちょうど昨年がこの年にあたります。丁の字の横の一は、陽気の進展をあらわし、同時に陽気が下降する、これを縦の亅があらわしております。 

(ひのと)壮丁(そうてい)

そうすると、いままで地中に伏在しておったものが地上に出てくる。そこで(てい)の字には、さかんという意味があります。壮丁(そうてい)と申しますと、十分成熟した男性を言います。また陽気が盛んになると、従来地中に伏在しておったものが地上に出る。そして在来のものと突き当たる。そこで丁にはあたるという第二の意味もあります。去年の干支、丁巳(ていし)は従来支配的であった陽気の末期的状況で、盛んであると同時に、いままで伏在しておったものが出現するという意味もある。 

丁巳(ていし)の政界状況
政界などを見ますと、まさに丁巳(ていし)の通りであったと思います。あきらかに既成支配勢力であった自民党はかなり老成、老熟し、それに対して少し前には、石原慎太郎氏等を始め若手の連中が集まって既成勢力に抗して青嵐会などを作りましたが、脱党するまでには至りませんでした。

それだけまだ党に統制力がありました。処がその後、河野洋平君達が脱党して新自由クラブをつくりました。自民党ばかりではありません社会党も同様です。然しまだこれは大事にいたりません。それは巳の字が示すように伏在しておった勢力の動きの程度でありますから、大きな勢力になりませんでしたが、本年の(つちのえ)(うま)になりますと、戌は陽気で枝葉が茂る。 

枝葉の剪定(せんてい)

茂ると日当たり、風通しが悪くなり虫がついたりしますから、植木屋がやるように思い切って枝葉を刈って手入れをしなければなりません。

そこで()のほうは(うま)で、これが組み合わされておることは、新興勢力が思うように伸びず、在来勢力と紛糾衝突をすることをあらわす。先ほど、述べましたように午には、そむく、さからうという意味があります。 

矛盾・衝突

そこで本年は去年よりも問題が紛糾して、色々と矛盾、撞着(どうちゃく)、争いが起こりやすいので、政治家も、事業家も見識と手腕を必要とする年であります。それをやり損ないますと、非常に混乱、紛糾することを覚悟しなければならないことを、この干支は教えております。又、歴史に徴しましても過去の事実がこれを証しております。その矛盾、衝突をうまく処理していくことが結論になるわけですが、それを手際よくやりませんと、来年は捨てておけないような思い切った整理、調整を必要とする年になります。 

指導者の見識次第

これが更にまずいと三年後には革新・革命の干支と言われる辛酉(しんゆう)―かのと・とり、の年を迎えます。時局も人事も変革を要するような異常事態に入っていきましよう。この事態をスムースに処理できるか如何かが本年と来年の働きによります。全ての指導者は明確な見識と実力を持ち、筋を通して出来るだけ矛盾、衝突を避け、あたかも名人が(かん)()(ぎょ)していくようにやっていかなければならぬということであります。

面白いと言っては語弊(ごへい)がありますが、大変意義の深い、切実な、それだけに興味のある年回りでありますが、やり損なうと厄介なことになつていくという分岐点でもあります。こういう事を心得ておりますと、何かにつけて非常に為になる切実な問題だと思います。以上をもって本年の干支―(ぼう)()の話を終わります。

陰陽(両儀(りょうぎ))

易というものは、大にしては宇宙の進行、生成。小にしては、自然と人間の推移を明らかにしたものであります。その易に(ろく)()があるということを前回も解説致しましたが、その第一は、変わるということであります。

然し、変わるというのは、変わらぬものがあって始めて変わるので、不変ということがなければ変わるということもないわけであります。 

不易(ふえき)

従って易には不易という意味があり、これが第二の意味であります。

然もそれが非常に純粋であり、(やす)むことなく駸々乎(しんしんこ)として移っていく。疑を入れない明々白々、これが第三の意味であります。 

()()・神秘

それは人間が考えると極めて神秘的なものであります。そこで第四番目に神秘的という意味があります。()()という言葉がありますが、希は聞けども聞こえず単なる聴覚だけでは分からない。それから夷という字は、たいらか、という文字であり、

又見れども見えずというような視覚では容易にとらえられない、神秘という意味であります。よく易を好む人が希夷という雅号をつけるのはその為で、聞けども聞こえず、見れども見えず、然しそこには厳として微妙なものがあるという神秘な存在を希夷と言います。これが第四の意味であります。 

(えき)(せい)

また易は、どこまでも終わることのない無限の進行でありまして、これが第五の意味で、最後に色々と足らざるを補い、誤れるを正す、即ち、おさめるという意味があります。これが第六の意味であります。

(えき)(せい)という熟語がありますが、これは世を治めると読むのが正しい読み方でありまして、易という一字の中には、このように大きくわけて六つの意味があります。 

陰陽の意味

この易の真髄をなすものは陰陽相対(相待)性原理だということも申しておきました。その陰陽も余りに普及しまして、色々と浅解や誤解が多くなりました。陰と言えば曇る、陰気などと云って余り快くない。陽というのは、太陽を想像して明るい、晴れ晴れとして気持ちが好い。

そこで陰気はいやだ、陽気でなければいかんというような事がよく言われますが、これは俗説でありまして、陰なき陽はなく、陽なき陰も又ありません。陰陽というものは相対立すると共に、相待つ意味の相対()でありまして、陰あって始めて陽があり、陽あって始めて陰が生きるのであります。これで人生、自然というものが営まれていくのであります。この陰陽相対()性原理を教えておるのが易経であります。 

易経は一生もの

昔から東洋哲学をやる人が結局どこへ行くかと申しますと殆ど易経に到達致します。従って易経に首を突っ込むと一生ものだというぐらい学問の中では面白い、面白いと言っては語弊がありますが、小にしては我々の人生から、大にしては国家、人類の運命まで考えることができる大変な学問であります。 

嘗て触れたと思いますが、トインビーが A Study 0f History「歴史の研究」という名著を世に公にしました。之に当たって、彼が非常に煩悶しましたのは、第一次世界大戦のとき、一世を風靡したシュペングラーの Der Untergrng des Abendlandes 「沈みゆくたそがれの国」、或いは「西洋の没落」という本を書くました。 

易学で救われたトインビー

これが大変な反響がありまして、結論的に申しますと、トインビーもそれを一歩も出ることが出来ない、これがトインビーの非常な悩みでありました。過去の歴史の法則に徴すれば、今日栄光あるヨーロッパ文 明もやがて暗黒期を迎え滅亡するだろうと言うことになるのですから大変なことであります。

何とか活路を拓くことが出来ないものかと非常に煩悶して勉強しております時に、彼トインビーに示唆を与え、救いの道を開いてくれたのが東洋の易学でありました。易学の陰陽相対()性理論、(ちゅう)の哲学、これによって彼は始めて救われました。  

限りない興味
それ程にこの陰陽相対()性原理というものは微妙なもので、これが本当に腹に入りますと、思想で窮するということはありません。又、どのような生活、どのような職業に従事する人でもこれを学べば、限りない所得と、安心立命のできる、これくらい魅力ある学問はありません。

その代わり、あっさりやろうと思えば、世の中に沢山通俗易がありますが、あれも割に面白いです、然し本格的にやれば実に微妙と言いますか、限りない興味のある思想学問であります。 

易は無限の創造変化

易は無限の創造変化であります。人間の存在、生活というものは、絶対的なものでありますから、その意味において「(めい)」と言います。またこれは動いてやまないものでありますから「運命」と言います。 

草木は春がきて芽を吹き、夏には花を開き、秋には実をつけ、そして冬には枯枝となって毎年それを繰り返していくように、この「命」というものは動いてやまない絶対的なものであります。その運命の中には「立命(りつめい)」と「宿命」とがありまして、よく学ばなければ宿命に陥ってしまいます。つまりきまりきった機械的な、決定的な存在と活動の人生になってしまいます。  

                      徳永圀典記