高野と丹生を訪ねて

平成7年12月19日 日本海新聞 散歩道に寄稿

弘法大師が開かれ時の上皇がお参りされたという古道を師と仰ぎ兄事する森川礼次郎先輩と訪ねた。真田幸村の九度山でスタートして延々25キロの登りである。どおしてこのように迂回するのかと思う程の長い道のりであった。途中、天野の里に下ると丹生都比売(にうつひめ)神社は寒村ながら驚くばかりのもので、かっては別格官幣大社らしい。敷地は一面が丹(に)のたたきであり珍しい。先輩によると丹生という地名は全国至る所にあり古代の丹は鉄鉱石に勝るとも劣らぬもので経済力の源泉と云う。ここで昼弁当にした。二人の地元婦人が食事をしながら日本画の写生をしている。やがてお宮参りらしい二人の男の子と赤ん坊を連れた近くの人らしい夫婦がお祖父さんとやって来た。静かでのどかな風景で古き良き日本の絵を見るようである。日本はこのようでなくてはと沁々と思う。この神社は高野山の地主神だが、それにまつわる歌を先輩が想起して口ずさむ。

 夕されば狩場明神あらわれぬ 山深うして犬の声する

吉井勇の歌の由。大師がこの地で山人に会い高野を開かれたと云う。この山人は丹生の明神と云い狩場明神とも云うらしい。犬を連れて丹の鉱脈を尋ねた伝承もあるらしい。道教における丹の魔力は現代人の想像に絶するものがあるようだ。この道は現在は高野石道と云う歴史的遺蹟であるが誰一人として会わない。六本杉の分岐点で静寂を楽しむ。往時の人の行き交う様を偲ぶ。今は近くまで大和柿の果樹園となっている。
丹は金とか銀と一緒に産出する事が多く、その丹を焼きだして水銀と金を分離するのが古代の錬金術であり金丹を飲むと永遠の生命が得られると考えたとも云う。弘法大師も丹に対して異状な執心があったやに聞く。谷坂にかかれば日は既に落ちたかの如く夕闇が迫る。まだ八丁もあるらしく遺蹟の石塔が示している。あえぎあえぎ暗い谷坂を登り詰める。途端に道があり一気に視界が開けた。そこには高野山の大門が、丹すなわち朱の大門が圧倒していた。

 弘法の道を尋ねて夕闇の坂をつめれば朱(あか)の大門

と下手な歌を一首つくる。宿坊の天徳院は非公開の名勝にして小堀遠州作という。入浴して思いっきりビールで喝をいやす。奥の院への道は弘法大師の信仰の深さと広さと歴史を思いださせて余りあるものだ。いつきても心の安らぎを覚えるのは不思議である。翌朝は朝六時からの勤行に参加して先祖の供養をする。朝餉の後は更に奥山の三山回峰に挑む。摩尼山、揚柳山、転軸山である。通算延べ四十キロの登山は極めて精神的であり健康的であった。何よりも見知らぬ人との人間的ぬくもりある触合いは素晴らしいものであった。