現成公案 平成18年7月 坐禅

坐禅の心理のようになってしまったが、閑話休題でいいのではなかろうか。

平成18年7月

 1日 坐禅の姿勢2 顎を引き首筋は十分に伸ばす。
耳と肩は垂角になるようにし、肩の力を抜いて落とす。

口は軽く閉じて、舌は上顎に軽くつける。

目は普通に開き、前方三尺ばかりの所に視線を落とす。(自然に半眼となる)。

 2日 坐禅の姿勢3. 特に注意すべきは、どこにも力を入れてはならないことが肝要。下腹部に力の入れすぎは不可。 古人曰く、「常に心気をして臍輪気海丹田、腰、脚の間に充しめと・・」心気を満たすこと肝要。
 3日 坐禅の調息 先ず最初に大きく息をして、胸の中に在る古い気を吐き出す。口を開いてだす。2−3回やり胸のわだかまり、邪念を一気に吐きだす。道元は「欠気(かんき)一息(いっそく)し」というが2-3回でよい。 次に、上身を左右7−8回振って姿勢に無理な所をのびのびとさせる。最初は大きく次第に小さく振る。それからデンと坐りこんで、何があっても動じない態度になる。それから静かに数息観に入り、150くらい数えて、身心が全く坐禅になじんだら隋息観に入る。
 4日 数息観と隋息観 数息観とは、一呼吸ごとに一つ、二つと数える。150も数えると大体30分となる。この間の心構えは、不思量を思量するのである。 隋息観とは、もはや、息を数えず、ただ静かに、出る息、入る息を追うだけである。息の出入りだけに心がついていく。この段階は不思量の段階と異なり、湧く雑念も少ないか全く無くなる、絶対の安息、大安楽になれる。
 5日 呼吸の数 呼吸の数を数えるとは、雑念を思量にまで発展せいめず、雑念が起きた瞬間、消滅せしめる為の手段だという。数を数えているのでそれを思量(思考)にまで発展させえないのである。 身心脱落とは、「無」のことだと、臨済宗派の禅者(白隠が代表)は言う。坐禅は人をして無の境地にならしめるトレーニングなのである。
 6日 禅について1. 禅は難しい、これは禅を「相対的な立場」で理解を求めるからだという。「絶対的な立場」から禅を見れば、いささかも難しいことはない。 禅寺の玄関、「脚下照脚」とある。これは足元に注意して履物を乱すなの意である。禅は些細な点にも注意を配るものだ。
 7日 禅について2. 現成公案に「このみち、このところ、大にあらず、自にあらず他にあらず、さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるがゆえに、かくのごとくあるなり」がある。 大と小、自と他、過去と現在、というように物事を「相対的」に考える一般人にとっては、これらの考え方は矛盾して理解の苦しむ。
これら「相対的」に考えた上の矛盾は「絶対的」な立場から見ると、なんら矛盾しない。絶対的立場とは一如の立場なのである。
 8日 禅について3.(一如)

「一如」とは行動する者が対象と一体になること。対象に密着することである。対象と異身であっても「同体」となり一つの行動の中に溶け込むことである。
一如の本質は「愛」であり「慈悲」で対象に心を込めること。

対象とは物だけではない、人も人の行動もすべて含む。対象と異身であっても本当に同体となると自他の差別は消える、これは絶対的立場に立つことである。人が自分の仕事を誉めようが誉めまいが仕事に打ち込む本人にとり生きがいを感じる絶対的価値であり「大にあらず小にあらず」なのである。自分が一如になりさえすれば禅は分かるのである。
 9日 禅について4.

現成公案の文節、「生も一時の位なり、死も一時の位なり。たとへば冬と春とのごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり」禅の立場では、「春となると思わず、夏となるといはぬなり」である。「おもわず」「いはぬ」の語感に注意するといい。道元は決して無常を否定し「冬は春にならない」と言うのではない。

「一方を証すれば、一方はくらし」である。
春なる一時の位に一体となり、一如を行ずる時には、夏なる一方はくらいのは当然。それで「春をおもはず、夏をいはぬなり」という。
一如の真の意味は身心を挙して「一如」にぶつからねばならない。

10日 悟り(叡智)の生まれる二つの型

「一如型」
身心を挙して一つこちに打ち込むことにより悟りが生まれる。公案に重点。

「身心脱落型」
身心脱落して「無」の状態になり生まれる。坐禅に重点。

11日 一如型と脱落型

この二つは別のようで本当は一つである。身心脱落しなくては一如になれない、一如になれば当然身心脱落しているからである。一如の本質は「愛」であるが結局、叡智は愛により生まれる。

愛は愛欲ではない。愛欲には自我が含まれている。愛は純粋無我でなくてはならぬ。愛するとは愛する者と愛される者とがあるのを前提とするが、純粋無我の愛は、かかる相対の愛ではない。「絶対愛」である。
12日 相対的について

料理の名人、秋山徳蔵氏の話。私は商売柄すぐ批判的に食べる。味に対して全神経を働かせ(相対智)ながら、しかも味を味わえない。味を考える(相対智)のに夢中で、味に酔う(絶対智)ことができないのである。そして料理屋の門を出てから、ああうまかったなあと思う」

「対して全神経を働かせる」「味を考える」のに「対して」とか「を考える」とかは、物に対する態度、すなわち相対的態度であり、物との「一如」ではない。「味に酔う」これが一如なのである。一如のところに純粋直感が沸き、味に酔えるのである。
13日 秋山徳蔵氏の話

何も考えないで食べる(身心脱落→一如)ことが、ものをおいしく食べる上の最大の要素だろうと考えている。いくらおいしいものを食べていても、丁度食事の最中に、旅行中の子供が大怪我をしたという急報が入ったとする。食べかけていた食物の科学的、物理的な性質は少しも変化しな

いのに、その知らせを聞いた瞬間を境にして、全く砂を食べるような、蝋を噛むような味に変わってしまうであろう。とにかく厳密に言って無念無想(身心脱落)になれるものでないから、つまり食べることと一心(一如)になればいいのだ(一如→身心脱落)。
14日 秋山徳蔵氏の話2.

ものを食べるとき、いかにもうまそうに食べる人がある。傍から見ていても、実に気持ちがよい。つい、こちらも誘われて、(他己の身心脱落せしむ)食欲がすすんでくる。そういう人は、きっと食べるときは、食べることに心を傾

倒(一如)している人だろうと思う。またそんな人は、きまって健康のようだ。だから何も考えないで食べよ(身心脱落)と言ったのは煎じ詰めれば、食べる時は、食べることだけ考えて食べよ(一如、三昧)ということになる。(秋山徳蔵著「舌」)
15日 自己をならう(自己啓発)

禅とは身心脱落と一如に尽きる。自己啓発も全く同様である。

自己啓発とは、いかにしたならば、自己が一如となり、その結果として、大智(絶対智なる才能)、大悲(絶対愛なる人格)による行動をなしうるかということがその目標である。簡単に言えば、一如による才能と人格の啓発に他ならない。
16日 不落(ふらく)因果(いんが)不昧(ふまい)因果(いんが) 中国の禅書「無門関」から引用、昔、百丈和尚が説教終えたが、一老人のみ残る。百丈不審に思い「そこに居るのは、何びとか」、「いや、人ではありません。私は昔カショウ仏のころ、この寺に住職としておりました。ある日弟子の一人が私に、立派に修行した人は、因果に落ちることはないか、と尋ねました。そこで私は、因果に落ちないと教えました。そのとたん私は今日まで500代にわたり、狐にされました。どうかお救い下さい」と百丈和尚に頭をさげる。 さらに「百丈様、立派に修行した人は、因果に落ちましょうか」、それに対して百丈和尚はハッキリと「因果に(くらま)さない」と答えた。

そこでこの老人は、この一言で悟り百丈の目前から姿を消した。
不落(ふらく)因果(いんが)」の一言で野狐に落ち、「不昧(ふまい)因果(いんが)」の一言で野狐から脱したという禅では有名な話である。
17日

不落(ふらく)因果(いんが)不昧(ふまい)因果(いんが)2.

原因があれば必ず結果がある。これは当然すぎるほどの当然の自然法則。これを否定するのが「不落因果」の一言であり、肯定するのが「不昧因果」の一言である。 「不落因果」にはいかにも不自然な力みがある。この力みが野狐なのである。本当の禅には力みは更々ない。
18日

不落(ふらく)因果(いんが)不昧(ふまい)因果(いんが)3.

禅においては「因果」を知る者のみが「仏性」を知り、「さとり」をつかむことができる。 「不落因果」は因果を知らない思い上がった者の言葉であり、「不昧因果」は因果を真に知る者のみが、はじめて言える言葉である。
19日

我々の心構え

因果(仏性)を(くら)まさず、万法は一体なりと認識し(仏法)、一法に一如になつて行動(仏道)すべきであるという。 禅に於いては「因果」を知る者のみが「仏性」を知り、「さとり」をつかむことができる。「不落因果」は因果を知らない。思いあがった者の言葉であり、「不昧因果」は因果を知る者のみが初めて言える言葉であるという。
20日 生きる・仏法の究尽(ぐじん) 生きるということは、「いま・ここ」なる一点に於いて生きるのであって、それ以外の時間・空間に於いて生きるという事は、現実には有り得ない。そして生きるという事の内容は「認識すること」と「行動すること」との二つである。 これを前提として道元は「認識は一体、行動は一如なるべし」と教える。
こうする事のみにより「今・ここ」の一点にしか生きられぬ我々が「永遠のいま無限のここ」なる広がりに生きうることになる。
21日 禅問答(公案の一例) @死んでどこへ往く。
A川向こうの喧嘩を止めてみよ。
B千里の灯火を消してみよ。C分福茶釜から天王寺の塔を出してみよ。
D四十九曲りの細山道を真直に通らにゃ一分も立たぬとあるが、どう通る。
E糞壺の光明とはいかに、速かに言え。
Fこの墨を済度せよ。
G庭前の花は生か死か。
H豆腐の上で四股を踏め。
I石の唐戸に入れられて外から錠を掛けられたらどうして出る。
J風は何色だ。
K雨はどこから来る。
L両掌相拍って声あり、隻手に何の声かある。
M趙州因僧問狗子還有仏性也無、州云無。(此意如何)
22日 奈良仏教 紀元前五世紀頃インドで起こった仏教は西域諸国を経て中国に入り、紀元四世紀ごろ朝鮮に伝わった。日本に入ったのは凡そ六世紀前半。聖徳太子や蘇我氏の保護の下に次第に信者を上流階級に増やした。太子が没し(622年)更に蘇我氏滅亡(645年)後も、依然栄え国家仏教にまで発展した。国家仏教としての奈良仏教は、皇室や貴族の狂信的尊敬 により、多額の国費は寺院仏像の建立に費やされた。また僧侶の社会的地位も大いに高まり、政界に於いてもその勢力は、貴族に追いつき更に追い越して、遂に皇位さえ狙う弓削道鏡さえ現れるに至った。このように僧侶は国家の厚い保護を仏の名をかりて遺憾なく利用し、時の権勢と結び腐敗堕落し、寺院は罪悪の巣と化した。
23日 奈良仏教2. 然し、この間ごく少数であったが、名僧行基(668−749)のような反体制の僧侶もいた。彼は民間にあって、時の政府の弾圧を受けたにもかかわらず、弟子たちを引き連れ諸国を遍歴し、民衆を教化し、道場を建て、病人を救い、池堤を造り、橋をかけるなど社 会事業を行った。政府は彼の社会に対する影響力を無視できず、東大寺大仏造営にあたり彼を大僧正に抜擢した。このことは、彼にとって惜しむべきことであろう。行基こそ少数の反体制派の僧の一人として生涯、野にいたほうが似つかわしい。
24日 平安仏教 桓武天皇は即位されてから、政治を仏教から解放し人心を一新する為、京都に大規模の都城を設置し、都を奈良から京都に遷した。また二人の宗教家に腐敗の極に達した奈良仏教の改革に当らせた。そ一人は伝教大師最澄(766-822)、今一人は弘法大師空海(773-835)であった。二人は天皇の命により中国に留学し、仏道を修行した。 二人は日本の生んだ偉大な思想家で、彼らの思索は日本仏教に清新の気風を注入し仏教教理の研究を高めた。即ち僧侶の理想は政治に近づき高位を獲得すべきものでなく、仏教教理を深からしめることを彼らに自覚せしめたのである。最澄はその一生を南都仏教(奈良仏教)との闘争に終止したが、空海は巧みに南都仏教と妥協しつつその目的を果たした。
25日 仏教の歴史 奈良・平安の仏教の歴史を通じて、我々が知り得ることは、奈良仏教も平安仏教も常に上流階級と繋がっていたことである。このことは、仏教が政治の手段として利用され、僧侶はその奉仕に専念していたことを意味する。奈良仏教も平安仏教もいずれもその思想の主流は、鎮護国家であった。即ち、五穀豊穣、皇位安泰、国家隆盛を加持祈祷により得んとするにあった。その為に寺院は宏壮荘厳、仏像は金色麗美、仏教教理は煩瑣晦 渋を極め、僧侶はこれを背景に仏恩と仏罰を交互に使い分け、その経済的基盤として寺領、荘園を広げ、軍事力として多くの僧兵を擁し一小国家を形成した。その例を南都北嶺に見るのである。一般庶民は彼らの搾取の対象にされていたことは想像に難くない。爾来六百年の日本仏教、それは仏教伝来の在り方から全く外れた姿で発展してきている。そして漸く、平安末期に至り、法然、親鸞、道元、日蓮の宗教改革を見るようになった。
26日 鎌倉仏教1. 12世紀から13世紀にかけて鎌倉仏教が生まれたことは、旧仏教たる天台、真言、奈良諸宗の腐敗、堕落に対する挑戦であり宗教改革であった。それは宗教を外面的儀式の束縛より解放した。旧仏教において最も重視されたのは外面的儀式であった。人々は仏のご利益(ごりやく)を受けるには、まず種々の財物を献納しなくてはならなかった。 本堂及び付属建物、什器、備品、仏像、仏具などから僧侶の衣食までも、各自の経済的能力に応じてさせられる。音吐朗々と誦経できることは、僧侶が人々の人気を博する資格の一つであった。更に甚だしいのは、加持祈祷の方式の複雑化であった。時と場合に応じて、夫々の方式は別にあって、各別に儀式が行われるのであった。
27日 鎌倉仏教2. その結果、僧侶はいかにして多くの人々を済度すべきかに心を注がず、ただ資材を集め寺院を荘厳化し、その中に金色の仏像仏具を配置し、鳴り物入りで読経し、神秘的ムードをかもし出すことらのみ専念する、儀式坊主に堕落したのである。 これに反して新仏教は、このように無内容の儀式を無視した。法然、親鸞は、たた゜「弥陀の本願」を信じ、ひたすら「南無阿弥陀仏」を唱える外に、何らの儀式も修行も無用とした。
28日 鎌倉仏教3. 禅宗においても、「道元をならふと言うは、自己をならふなり」と言って、儀式を重要視せず、
日蓮宗も「信心肝要なりとて余行をなさず」と言って、「南無妙法蓮華経」と唱える外に儀式は必要としなかった。
このように旧仏教が寺院中心とした単なる儀式にすぎなかったのに対し、仏を中心にした自己発見の本来の仏教に戻ったのである。
29日 鎌倉仏教4.

また新仏教は、仏教を従来の煩瑣な詭弁的教理から解放した。元来真理は単純で何人にも素直に受け入れられるべきものであって、それが複雑化すればする程、真実性は失われるのである。

そこで法然、親鸞は釈迦・薬師・観音・弥勒などの諸仏を弥陀一仏に統一し、また今でも旧仏教が尤もらしく行っていた一切の宗教的行事・修行・学問・観想などをただ一つ「念仏」に統一してしまった。「弥陀の一仏を信ぜよ。至心に南無阿弥陀仏と唱えよ。然らば決定(けつじょう)して浄土に往生すべし」と。
30日 鎌倉仏教5. また禅宗は「無」の一字のみを提唱し、それが全宇宙的無限に発展すると説いた。このことは、その簡明さにおいて法然、親鸞と同じであった。次に日蓮宗は、開祖日蓮が天台門下において多年修行し、それを基盤にしたため、天台的色彩が濃厚で単に個人救済のみならず国家鎮護をも目的とした。従って前二者より、その教理は多少複雑である。 然し、究極においては一切の存在(仏をも含めて)及び現象は「妙法蓮華経」を中心に展開し、かつまた、この「妙法蓮華経」の五字に帰着するとした。そこで信者たる者は「妙法蓮華経」に記述せられたる真理を堅く信じ「南無妙法蓮華経」と唱えさえすれば、必ず成道する、というのである。(南無とは信ずる、この身を委ねるということ)。
31日 鎌倉仏教6. 以上により我々は新仏教はいずれも声を揃えて簡明に「一切の事物は弥陀・無・妙法蓮華経の展開であり、かつまた、それらへの帰着である」としていることを知る。 かくして、欺瞞と煩瑣な儀式との集大成であり、権勢の中で淫逸と暴力とで堕落腐敗せる僧侶の集団たる旧仏教は、清新にして真実なる教理を、愛と情熱とをもって大衆に布教する新仏教に、その席を譲らざるを得なかったのは当然であった。