日本の心の古典 「能・狂言」 7 

能・狂言は、南北朝時代を経て室町時代に完成された劇で、平安時代末期からはやった猿楽(さるがく)が元になっている。江戸時代の人形浄瑠璃・歌舞伎と共に日本の代表的な古典芸能である。

平成18年7月 

 1日 「能」 能楽は、猿楽(唐の時代にあった散楽(さんがく)に源を発し、奇術や曲芸を含み、滑稽を主とした演芸)の歌と舞の部分が独立・発展したものである。猿楽は、平安時代に起こり、鎌倉時代に劇的な要素を加えて発達した。 室町時代になると、大和(やまと)猿楽(さるがく)は、家元(いえもと)観世家(かんぜけ)観阿弥(かんあみ)清次(きよつぐ)世阿弥(ぜあみ)元清(もときよ)の父子により革新され、将軍足利義満の援助を受けて、幽玄美をもととする能楽として、芸術にまで高められた。
 2日 謡曲 謡曲(能楽の脚本)には、(ことば)の部分と()の文とがある。詞の部分は主演者(シテ)と助演者(ワキ)とが中心となって、せりふを謡いつつ筋を運ぶ。 ()の文は、地方(じかた)が合唱する。(これを地謡(じうたい)といい、(じょ)()(きゅう)の変化の時にうたわれる。地謡を歌う人は舞台に立たない。右脇に座ってうたう)
 3日 謡曲の構成 「序」、初めの部分。ゆるやかな調子で単調・上品。
「破」、中の部分。テンポも進み、技巧的である。変化に富んで面白い。
「急」、終わりの部分。すべてが盛り上がる急な調子。
 4日 謡曲「安宅」粗筋 兄頼朝に追われ、作り山伏となり奥州へ向かう源義経一行が加賀の安宅の関にさしかかる。関守の富樫は一行を怪しみ斬ろうとするが、まことの山伏かもしれないと思い、勧進帳を読めとせまる。 弁慶は偽の勧進帳を読み、関所を通ろうとするが、義経が怪しいと見咎められ、弁慶は咄嗟に義経を杖で打って危機を脱する。富樫はその心にうたれて酒を持って一行を慰める。
 5日 謡曲「安宅」

ワキ「かやうに候者は、加賀の国富樫(とがし)何某(なにがし)にて候。さても頼朝義経御仲(おんなか)不和にならせ給ふにより、判官(ほうがん)殿(どの)十二人の作り山伏(やまぶし)となって、奥へ御下向(おんげこう)(よし)頼朝(きこ)し召し及ばれ、国々に新関(しんせき)を立てて、山伏を堅く(えら)み申せとの御事にて候。

さる(あいだ)のこの所をば、(それがし)承って山伏を留め申し候。今日も堅く申しつけばやと存じ候。いかに誰かある。
狂言「御前に候。」
ワキ「今日も山伏の
(おん)通りあらば此方(こなた)へ申し候へ。」
狂言「畏って候。」

 6日

シテ「旅の(ころも)篠懸(すずかけ)の、旅のころもは篠懸の露けき袖やしをるらん。」

サシ「
鴻門楯(こうもんたて)破れ都の(ほか)の旅衣。日も遥々の越路(こしじ)の末。思ひやるこそ遥かなれ。」
ツレ「伊勢の三郎
駿河(するが)の次郎。片岡(かたおか)増尾(ましお)常陸坊(ひたちぼう)


シテ「弁慶は
先達(せんだつ)の姿となりて、
シテ・ツレ「主従以上十二人、未だ習はぬ旅姿。袖の篠懸露霜を。今日分け
()めて何時(いつ)までの、限りもいさや。白雪の越路の春に急ぐなり。
 7日

上歌「時しも頃は如月(きさらぎ)の、時しも頃は如月の。如月の十日(とおか)()月の都を立ち出でて、これやこの、行くも帰るも別れては、行くも帰るも別れては、知るも知らぬも、逢坂(おうさか)の山隠す、霞ぞ春は、怨めしき霞ぞ春は怨めしき。」

下歌「波路(なみじ)遥かに行く舟の、波路遥かに行く舟の、海津(かいづ)の浦に着きにけり、東雲(しののめ)早く明け行けば浅茅(あさじ)色づく有乳山(あらちやま)
 8日

上歌「気比(けい)の海、宮居(みやい)久しき神垣や、松の木芽山(きのめやま)なほ行く(さき)に見えたるは、杣山人(そまやまびと)板取(いたどり)、河瀬の水の麻生津(あそうづ)や、末は三国の湊なる。
葦の篠原波寄せてなびく嵐の烈しきは、花の安宅に、着きにけり花の安宅に着きにけり。

シテ「(おん)急ぎ候程に、これははや安宅の湊に(おん)着きにて候、暫くこの所に(おん)休みあらうずるにて候」
子方「いかに弁慶」、
シテ「
御前(おんまえ)に候、」
子方「只今旅人の申して通りつる事を聞いてあるか」
シテ「いや何とも承らず候」
子方「安宅の湊に新関を立てて山伏をかたく
(えら)むとこそ申しつれ。
 9日

シテ「言語道断の御事にて候ものかな。さては(おん)下向を存じて立てたる関と存じ候。これはゆゆしき(おん)大事にて候。まづこの(かたはら)にて暫く御談合あらうずるにて候。これは一大事の御事にて候間。皆々心中(しんぢう)の通りを御意見(おん)申しあらうずるにて候」
ツレ「我等が心中には何程の事の候べき。ただ打ち破って御通りあれかしと存じ候。

シテ「暫く、仰せの如くこの関一所(いつしょ)打ち破って御通りあらうずるは(やす)き事にて候へども。御出で候はんずる行末が御大事にて候、ただ何ともして無為(ぶい)の儀が然るべからうずると存じ候。

子方「ともかくも弁慶計らひ候へ。
10日

シテ「(かしこま)って候、(それがし)きっと案じ出したる事の候が。何と申しても御姿隠れ御座なく候間、このままにては如何(いかが)と存じ候。恐れ多き申し事にて候へども、御篠懸を()けられ。

あの強力(ごうりき)が負ひたる(おい)をそと、御肩に置かれ、御笠を深々と召され、いかにもくたびれたる御体(おんてい)にて我等より後に引きさがっさて(おん)通り候はば、なかなか人は思ひも寄り申すまじきと存じ候。
11日

子方「げにこれは、尤もにて候、さらば篠懸を取り候へ」
シテ「畏って候、いかに強力」
狂言「御前に候」
シテ「笈を持ちて来り候へ」
狂言「畏って候」
シテ「汝が笈を御肩に置かるる事は、なんぼう
冥加(みょうが)もなき事にてはなきか。

まづ汝は先へ行き関の様躰(ようだい)を見て(まこと)に山伏を(えら)むか、またさやうにもなきか(ねんごろ)に見て来り候へ。
12日

シテ「さらば、御立ちあらうずるにて候。げにや紅は園生(そのお)に植えても隠れなし」
ツレ「強力にはよも目をかけじと、御篠懸を脱ぎ替えて、麻の衣を御身に纏ひ」
シテ「あの強力が負ひたる笈を」子方「義経とって肩に懸け」
ツレ「笈の上には
雨皮(あめかわ)肩箱(かたばこ)とりつけて」
子方「
(あや)菅笠(すげがさ)にて顔を隠し」
ツレ「
金剛杖(こんごうつえ)(すが)り」

子方「足痛げなる強力にて」
地「よろよろとして歩み給ふ
御有(おんありさま)様ぞ(いた)はしき」
シテ「我等より後に引きさがって
御出(おんに)であらうずるにて候。さらば皆々、御通り候へ」
ツレ「承り候」
狂言「いかに申し候、山伏達の大勢御通り候」
ワキ「何と山伏の御通りあると申すか、心得てある。なうなう客僧達これは関にて候」

13日

シテ「承り候、これは南都東大寺建立の為に、国々へ客僧を遣はされ候、北陸道をばこの客僧承ってまかり通り候、まづ勧めに御入り候へ。

ワキ「近頃殊勝に候、勧めには乗ろうずるにて候、さりながら、これは山伏達に限って留め申す、関にて候」
シテ「さん候、頼朝義経御仲不和にならせ給ふにより判官殿は
奥秀(おくひで)(ひら)を頼み給ひ。
14日

十二人の作り山伏となって、御下向の由その聞え候間、国々に新関を立てて山伏を堅く(えら)み申せとの御事にて候。さる間この所をば(それがし)承って山伏を留め申し候。殊にこれは大勢御座候間、一人も通し申すまじく候。

シテ「委細承り候。それは作り山伏をこそ留めよと、仰せ出され候ひつらめ。よも真の山伏を留めよとは仰せられ候まじ。
狂言「いや昨日も山伏を三人まで斬っつる上は、
シテ「さてその斬ったる山伏は判官殿か。

ワキ「あらむつかしや問答は無益。一人も通し申すまじい上は候。

15日

シテ「さては我等をもこれにて誅せられ候はんずるな。
ワキ「なかなかの事、
シテ「言語道断。かかる不祥なるところへ来かかって候ものかな。この上は力及ばぬ事。さらば最後の勤めを始めて。尋常に誅せられうずるにて候。皆々近うわたり候へ。

ツレ「承り候。
シテ「いでいで最後の勤めを始めん。それ山伏と云つば。
(えん)優婆塞(うばそく)の行儀を受け。
ツレ「その身は不動明王の尊容を
(かたど)り、
シテ「
兜巾(ときん)と云つば五智(ごち)の宝冠なり、
16日

シテ「十二因像の(ひだ)をすえて戴き、
シテ「
九会(くえ)曼荼羅(まんだら)の柿の篠懸(すずかけ)
ツレ「
胎蔵(たいぞう)黒色(こくしき)脛巾(はばき)を履き、
シテ「さてまた
八目(やつめ)草鞋(わらじ)は、
ツレ「
八葉(はちよう)の蓮華を踏まへたり、

シテ「出て入る息に阿吽(あうん)乃二字をとなへ、
ツレ「即身即仏の山伏を、
シテ「此処にて討ちとめ給はん事、
ツレ「
(みょお)の照覧計り難う、
シテ「熊野権現の御罰を当らん事、
ツレ「
立所(たちどころ)に於いて、
シテ「疑ひあるべからず、
地「
阿毘(おんなび)羅吽欠(らうんけん)数珠(じゅず)さらさらと押し揉めば、
17日

ワキ「近頃殊勝に候。(さき)に承り候ひつるは、南都東大寺の勧進帳の御座なき事は候まじ。勧進帳を遊ばされ候へ。これにて聴聞申さうずるにて候。

シテ「何と勧進帳を読めと候や、

ワキ「なかなかの事、

シテ「心得申して候。もとより勧進帳はあらばこそ。笈の中より往来乃巻物一巻取り出し。勧進帳と名づけつつ。高らかにこそ読み上げけれそれつらつら、(おも)んみれば大恩教主(きょうしゅ)の秋乃月は涅槃(ねはん)の雲に隠れ生死(しょうじ)長夜(ぢおや)乃長き夢。驚かすべき人もなし。
18日

ここに中頃(みかど)おはします。御名をば。聖武(しよおむ)皇帝(くおてい)と。名づけ奉り最愛の夫人に別れ。恋慕やみがたく涕泣(ていきゅう)眼にあらく涙玉(なんだたま)を貫く。思ひを。善途(ぜんと)に翻して盧遮那物(ろしゃなぶつ)建立(こんりゅう)す。

かほど乃霊場の絶えなん事を悲しみて。俊乗(しゅんじょう)坊重源(ぼうじゅうげん)。諸国を勧進す。一紙半銭の奉財の。(ともがら)は。此の世にては無比の楽に誇り当来(とうらい)にては数千蓮華の上に坐せん帰命(きみょう)稽首敬(けっしゆうやま)つて(もう)すと天もひびけと読み上げたり。
19日

ワキ「関の。人々(きも)を消し、恐れをなして。通しけり、恐れをなして通りけり。
ワキ「急いで御通り候へ。
シテ「承り候。
狂言「いかに申し上げ候。判官殿の御通り候。
ワキ「いかにこれなる
強力(ごうりき)留れとこそ、
ツレ「すは我が君を怪しむるは。
一期(いちご)の浮沈極まりぬと。皆一同に立ち帰る、

シテ「ああ、暫く慌てて事を為損(しそん)ずな。やあ何とてあの強力は通らぬぞ、
ワキ「あれは此方より留めて候シテ「それは何とて御留め候ぞワキ「あの強力がちと人に似たると申す者の候程に。さて留めて候よ。
シテ「何と人が人に似たるとは。珍しからぬ仰せにて候。さて誰に似て候ぞ。
20日

ワキ「判官殿に似たると申す者の候程に。落居(らっきょ)の間留めて候。
シテ「や。言語道断。判官殿に似申したる強力めは一期の思ひ出な。腹立つや日高くは、能登の国までさそうずると思ひつるに。僅かの笈負うて後に下がればこそ人も怪しむれ。総じてこの程。

(にっく)(にっく)しと思ひつるに。いで物見せてくれんとて。金剛杖をおつ取つて散々(さんざん)打擲(ちょうちゃく)す通れとこそ。や。笈に目を懸け給ふは。盗人(とおじん)ざうな、

21日

地「方々は何故に。方々は何故に。かほどいやしき強力に。太刀刀(たちかたな)抜き給ふは目だれ顔の振舞は臆病の至りかと十一人乃山伏は打刀(うちかたな)抜きかけて勇みかかれる有様は。如何なる天魔(てんま)鬼神(きじん)も恐れつべうぞ見えたる、

ワキ「近頃誤りて候。はやはや御通り候へ。
シテ「
(さき)の関をばはや抜群に程隔たりて候間。この所に暫く御休みあらうずるにて候。皆々近う御乗り候へ。
22日

いかに申しあげ候。さても只今は余りに難儀に候ひし程に。不思議の働きを仕り候事。これと申すに君の御運。尽きさせ給ふにより。今弁慶が杖にも当らせ給ふと思へば。いよいよ浅ましうこそ候へ。子方「さては悪しくも心得ぬと存ず。いかに弁慶。さても只今の機

転更に凡慮より為す(わざ)にあらず。ただ天の御加護とこそ思へ。関の者ども我を怪しめ。生涯かぎりありつる所に。とかくの是非をば問答(もんだ)はずして。ただ(まこと)下人(げにん)の如く。散々に打って我を助くる。
23日

これ弁慶が謀計(はかりごと)にあらず八幡の、下歌「御託宣かと思へば忝くぞ覚ゆる、
クリ「それ世は末世に及ぶといへども。

日月(にちぐわつ)は未だ地に堕ち給はず。たとひ如何なる方便なりとも。正しき主君を打つ杖の天罰に当らぬ事やあるべき、

サシ「げにや現在の()を見て過去未来を知ると云う事、
地「今に知られて身の上に。憂き
年月(としつき)如月(きさらぎ)や。(した)の十日乃今日の難を(のが)れつるこそ不思議なれ、
24日

子ノ方「たださながらに十余人、地「夢乃覚めたる心地して互に面を合わせつつ。泣くばかりなる。有様かな、
クセ「然るに義経
弓馬(きゅうば)の家に生まれ来て。命を頼朝に奉り。かばねを西海(せいかい)の波に沈め。

山野(さんや)海岸(かいがん)に起き臥し明す武士乃。(よろい)袖枕(そでまくら)。片敷く隙も波の上。ある時は舟に浮かみ。風波に身を任せ。ある時は山背(やませ)馬蹄(ばてい)も見えぬ雪の中に。海少しある夕波の立ち来る音や須磨明石の。とかく三年の程もなく。
25日

敵を亡ぼし(なび)く世乃。その忠勤も徒らに。果つるこの身のそも何と言へる因果ぞや、

子の方「げにや思ふ事。叶はねばこそ憂き世なれと、
地「知れどもさすがなほ。思ひ返せば
梓弓(あずさゆみ)
26日

(すぐ)なる。人は苦しみて讒臣(ざんしん)は。彌増(いやまし)に世にありて。遼遠(りょうえん)東南(とうなん)乃雲(のくも)を起し。

西北の雪霜(ゆきしも)に責められ埋る憂き身を。(ことわり)り給ふべきなるにただ世には。神も仏もましまさぬかや。恨めしの憂き世や。あら恨めしの憂き世や。
27日

(すぐ)なる。人は苦しみて讒臣(ざんしん)は。彌増(いやまし)に世にありて。遼遠(りょうえん)東南(とうなん)乃雲(のくも)を起し。西北の雪霜(ゆきしも)に責められ埋る憂き身を。

(ことわり)り給ふべきなるにただ世には。
神も仏もましまさぬかや。恨めしの憂き世や。あら恨めしの憂き世や。
28日

シテ「げにげにこれも、心得たり。人の情の盃に。うけて心をとらんとや。これに就きてもなほなほ人に。
「心なくれそ呉織(くれはおり)


地「怪しめらるな面々と。弁慶に諫められて。この山陰の一宿りに。さらりと
円居(まとい)して所も山路(やまじ)の菊乃酒を飲まうよ、
29日

シテ「面白や山水に、
地「面白や山水に。盃を浮かめては。流に牽かるる曲水の手まづ遮る袖ふれていざや舞を舞はうよ。もとより弁慶は。三塔の遊僧。舞延年の時の若。これなる山水の落ちて巌に響くこそ、

「鳴るは瀧の水、
シテ「たべ酔ひて候程に。先達お酌に乗らうずるにて候、
ワキ「さらばたべ候べし。とてもの事に先達一さし御舞ひ候へ
30日

地「鳴るは瀧の水、地「日は照るとも。絶えずとうたり。絶えずとうたりとくとく立てや。手束(たつか)(ゆみ)の心ゆるすか関守の人々。

(いとま)申してさらばよとて。笈をおつ取り肩にうち懸け。虎の尾を踏み毒蛇の口を。(のが)れたる心地して。陸奥の国へぞ。下りける。
31日 狂言 能と同様に猿楽から発達しながら、非常に対照的な演劇である。滑稽な面が成長発展したもので、専ら「笑い」を主眼とし能の間に挟んで演じられる演劇。主に対話と独白により進められる一幕劇で、主演をシテ、脇役をアドという。 当時の口語で語る点で庶民的。日本人の明朗な一面が世相を背景に生き生きと描かれている処に意義がある。「附子(ぶす)」、「柿山伏」、「しびり」が著名である。