日中外交の歴史から考える

聖徳太子が隋の煬帝(ようだい)に宛てた外交文書「日(いづ)る国から日歿する国へ」は中国と対等の気概を示す。(はく)村江(すきのえ)の戦、元寇(げんこう)の襲来も日本は中国に対し敢然と立ち向かった。豊臣秀吉の朝鮮出兵、実質は対明出兵と私は見る。足利義満将軍が中国から柵封を受ける朝貢の愚があったが、朝鮮のように柵封秩序にすがったわけではない。寧ろ、明にとり当時の日本は秩序を乱す倭寇根拠地として恐しい存在だった。明治時代の日清戦争、膺懲(ようちょう)と言った心意気も是非善悪は別として、欧米侵略に対するアジアの長兄として、世界を視野に入れた気概溢れる精神と言える。

かかる如く歴史を一瞥すれれば近年、日本が中国から受けている様々な内政干渉の事件は、我が国有史以来未曾有の屈辱・恥辱である。日中交渉の歴史上、様々な対立があったが、今日ほど理不尽な内政干渉を受けたことは無い。平和条約で過去の国家関係は清算されているがこのていたらく。

それは根源的に政治家、外交官に国家のなんたるかが身についていないのだといえる。好事例は橋本竜太郎氏に見る如くお粗末極まりない。国益とか国家は命懸けで守るべきものであり、彼等にその覚悟が決定的に欠如している。それは中国共産党の日本懐柔政策の成功でもあるが、
21世紀の朝貢のようで小沢一郎氏初め与野党国会議員の中国参りは苦々しい。
彼等は国家観、国益観、外交観に欠け無責任。

外交は緻密な国家的論理設計による言動が絶対必要である。現今政治家は国益を顧慮しない与野党政治家ばかり、また北条経済同友会に見られる如く村上並みに成り下がった財界。御手洗経団連会長、さすがは真の国際人であり同慶に堪えないが大方は媚中に過ぎる。

現今日本には途方も無い有史以来の危機が迫りつつあり極めて深刻であるが、政治家も外交官も勿論財界も国民大多数も切迫感が無い。それは何処から来るかと言えば、日本のアイデンティティ、自己を喪失している処から来ている。これが消滅すると国家そのものも解体するのは常識である。

日本は得体の知れない国になっているが日本人は自分自身も自分の国も見失っている。その核心は戦後、日本が米国により事実上動かされてきたことにある。ソ連崩壊後、激動する国際環境の中、自己喪失した日本はどうすべきか分からなくなっている。

要するに日本人や日本国は大人になりきれていない。大人の要件は、独立自尊である。米国への従属が国民の精神的成長を阻害し続けたのである。

国家・国民の安全保障の基礎である防衛システムがアメリカに依存してきたことの結果である。それが国民の潜在意識に根をおろし、為に国家観が鈍感になっている。そのことに気づいた一部国民は、現在猛烈に自己確認の最中である。
安全保障は、詰まる処、憲法という基幹法がおかしいことに尽きる。日本は去勢されて
60年経過したから、自分自身を見失い、国家のなんたるかが肌身で分からない政治家・外交官・国民を育てた。

中国は一党独裁軍事力で米国と世界覇権を争う姿勢、外貨準備も世界一となり地球の資源を覇権的に取り込もうとしている。

近隣に、共産党独裁中国、左傾した朝鮮半島、日本は史上最高の難局を迎えつつある。

米国の軍事基地再編成もそれを見越した後退やも知れぬ。

自らの安全は米国に依存せず、自らが守ると、当たり前の事を国民が決意しなくては日本は間違いなく衰亡に向かう。
平成18年6月29日 徳永日本学研究所 代表 徳永圀典