徳永圀典の「日本歴史」3. 悠久の日本歴史 

 1日 日本歴史はヨーロッパと比較にならない。 西暦というのはキリスト誕生を起点として以降を表しAD(Anno Domini)と記す。キリスト誕生以前をBC(Before Christ)と記す。日本の縄文時代は西暦紀元の遥か前であり世界最古の土器が出現しているとということを明確に自覚すべきである。 弥生時代は西暦元年前後であり既に水田稲作が盛んに行われていたのである。日本では明治以降の文明開化と称して西洋文物中心に発展の道を選んだ為に恰も欧米から人類の発展があったかのような錯覚をしている。それは、大きな間違いである。日本の歴史は、いかに長くそして豊かであったか。
 2日 日本歴史とヨーロッパ2. 日本の歴史は豊かである。明治から遡って、江戸、室町、鎌倉、平安、奈良、飛鳥、大和という各時代と欧米の歴史を比較して見るとよい。源氏物語が書かれたのは、西暦1003年頃、一条 天皇時代。聖徳太子が十七条憲法を創られたのは西暦604年推古天皇時代。その頃ヨーロッパはまだ存在していない。フランスやイタリアが明白な姿を見せるのは日本で言えば鎌倉時代の頃、西暦1300年程度である。
 3日 原始・古代の日本 日本歴史とヨーロッパを比較した世界史の概念を頭に入れたから、改めて系統的に日本の原始・古代から時系列的に探求して見たい。 当初に説明した青森県の三内丸山遺跡、縄文時代の巨大な柱の跡が発見された。4000年以上の前である。日本に高度な土木技術が存在したのである。
 4日 原始・古代の日本2. 人類の進化は、猿人(えんじん)原人(げんじん)旧人(きゅうじん)新人(しんじん)である。旧人の生活跡は主にヨーロッパで多く発見されているが、我々の直接の先祖に当るかは不明。 3-4万年前から我々と同じ種類の人類である、新人がアフリカを出発点として地上に出現したとされる。彼らは洞窟などに住み集団で狩りをした。打製石器を用い狩猟や採集をしており、この時代を「旧石器時代」と呼ぶ。
 5日 原始・古代の日本3. 以前、日本列島には、旧石器時代は無いと考えられていたが、昭和24年(1949年)、群馬県の岩宿(いわじゅく)遺跡で見つかった石器が旧石器時代のものと確認された。その後各地で相次 発見され日本列島に旧石器時代から人々が暮していたことが明白となった。岩宿(いわじゅく)遺跡では、棒の先につけて狩猟や採集に使われた石製の尖った鋭い石片が各種発見された。
 6日 文明の発生1. 1万年前ころ、長く続いた氷河期が終わり地球は温暖化した。大陸内部の大草原は乾燥、各地で砂漠が拡大し人口増加もあり人類は食糧危機に見舞われる。 その結果、大きな河川流域で農耕・牧畜が始まる。一方では、木の実や川魚のよくとれる森林地帯を目指して群れをなして移動する人々もあり人類は食糧危機に夫々違った対応をした。
 7日 文明の発生2. 道具も石を欠いただけの打製石器から、表面を磨いて刃をつけ形を整えた磨製石器になる。食物を保存したり煮炊き用の土器も出現。 織物も作られだす。磨製石器や土器を用いた時代を「新石器時代」と呼ぶ。大陸では、約6000年前に青銅器から少し遅れて鉄器が使用されるようになる。
 8日 四大文明 紀元前3500年頃から紀元前1500年頃の間に、エジプト、メソポタミヤ、インド、中国に国家が生まれた。これを四大文明という。 いずれも大河の流域、農耕や牧畜が発達する条件を備えている。強い王が神殿を中心に都市を作る。記録の文字を使用、神官も現れ、社会の分業も進む。
 9日 文明の発生した地域と河川 エジプト文明(ナイル川)、
メソポタミヤ文明(チグリス川・ユーフラテス川)、
インダス文明(インダス川)、
黄河文明(黄河)、
長江文明(長江)。
10日 数万年前の東アジア 数万年前の東アジア、氷河期には海水面が100メートルも下がり、日本列島と大陸は陸続きになり、多くの動物が渡ってきた。マンモス、ヒグマ、オオツノジカ、ナウマンゾウ。 明石原人(兵庫県)、
三ヶ日(みっかび)人、牛川(うしかわ)人、浜北(はまきた)人(いずれも浜名湖周辺)、
港川人(アリューシャン)。
11日 縄文文化

陸続きとなると日本海は大きな湖であった、動物を追い人間の群れがなだれこんできた。花粉の化石から、日本では氷河期にも厚い氷に覆われることもなく、動

植物が絶滅せず繁殖し続けたことが判明している。豊かな日本列島の食糧を求めて人々は大陸が渡ってきた。こうして日本でも旧石器時代が始まった。
12日 森林と岩清水の生活文化

1万年前頃、最後の氷河期が終わり氷が溶け海水面が上昇して、日本の地形は現在のように海上の列島となった。

日本海には暖流が流れ込み列島は温帯の落葉広葉樹林(ナラ・ブナ等)に覆われた。
13日 森林と岩清水の生活文化2. ことに東日本は、豊かな木の実や山芋などの他に、サケ、マスなどの川魚にも恵まれた。カツオ、マダイ、スズキなどの海の幸、イノシシ、シカ、マガモ、キジ などの山の幸。それに豊富な貝類、このように比較的食料に恵まれた日本列島の住人は、直ぐに大規模農耕を開始する必要がなかったと言える。
14日 四大文明と日本の比較 大陸の農耕、牧畜に支えられていた四大文明はいずれも、砂漠と大河の地域に発展した。 対して日本列島では、森林と岩清水に恵まれた地域に、1万年以上の長期に亘る生活文化が続いていたのである。
15日 大陸との生活条件の相違

縄文土器
違った条件では、文明や文化は当然違った形となつて現れる。かって土器のルーツと言われた西アジア(メソポタミヤ)の壺は、最古のものでも約8000年前である。 それに対して日本列島では、おおよそ1万6500年前に遡る土器が発見されたが、現在の処世界最古である。後に表面に縄目の文様がつけられたことから、縄文土器と言われる。
16日 縄文時代 西アジアの土器は食べ物の貯蔵用のものだが、縄文土器は早くから煮炊きに用いられ、底に加熱の跡も残している。 このことは、大きな規模の農耕生活が無くとも、豊かで発達した食生活が得られたことを語っている。縄文土器を用いていた1万数千年から紀元3-4世紀までを縄文時代と呼ぶ。
17日 縄文時代の生活 現在までに発見された同時代の最大の集落は、先述の青森県「三内丸山遺跡」である。約5500年4000年前のものである。 巨大建築物跡や数多くの住居跡がある。当時は地面を掘って床を作り柱を立て、草葺の屋根をかけた竪穴式住居であった。
18日 縄文時代の生活2.

遺跡で発見された出土品や貝塚から窺えることは、既にクリ、マメ、ソバ、アサ、エゴマ、ウルシなどの栽培や、陸稲(りくとう)(おかぼ、畑地で栽培)、自然の水たまりを利用した小規模な稲作が始まっていた。海では、カキの養殖も行われ、魚の干物も海沿いの村から山中の村に流通させる

交流もあったと考えられている。太陽の運行などにも通じて、丸木舟を用いた外洋航海技術も持っていた。35センチを単位とした縄文尺の存在は目を見張らせる。人々は神殿を作り自然の豊かな恵みを祈り、女性を模った土偶、男性を模った石棒(せきぼう)も作った。それらに人間の力を超えた霊威へ願いを託したといわれる。
19日 中国の古代 日本の古代は中国の文明を語らねばならない。中国の北部を流れる黄河流域に早くから住んでいた漢民族は灌漑を伴う農耕、牧畜を盛んに行い、紀元前17世紀末頃に(いん)という国家を作った。殷では優れた青銅器が祭器として用いら れ、漢字の元になった甲骨(こうこつ)文字(もじ)が初めて現れた。紀元前11世紀頃には殷は滅び、(しゅう)が中国を支配した。周は一族や家臣に領地を与えて地方を治めさせる封建制度に似た仕組みを用いていた。
20日 中国の古代2. 紀元前8世紀初め、周は衰え、それから幾つもの国が争う内乱時代が始まった。これは数百年続き、春秋(しゅんじゅう)戦国(せんごく)時代と呼ばれる。 この戦乱時代に、多くの思想家が現れ、いかにすれば良い政治ができるかを論じ、国々の宮廷を説いて廻った、彼らを諸子(しょし)百家(ひゃっか)という。
21日 中国の古代3. その中の一人である孔子は、仁愛(じんあい)(思いやり)を説き、道徳と礼(礼儀)で人を導けば、天空の全ての星が北極星を取り巻きながら整然と動いているようにも政治は万事うまく行くと述べた。 この教えは儒教(じゅきょう)と言う。後に弟子たちが孔子の教えをまとめたのが「論語」である。これは、人間の性質は元々善であるとする考えは楽天過ぎて、実際の政治には必ずしも、役に立たないと反対する思想家もいた。
22日

(しん)・漢の統一国家

紀元前221年、秦の()皇帝(こうてい)が初めて中国を統一した。始皇帝は孔子を参考にしないで、韓非子(かんぴし)が代表する法家(ほうか)の思想であった。人間の性質は元々悪であるから、強い刑罰で秩序を守らねばならぬとした思想であり始皇帝は厳しい政治をした。 そのため、始皇帝は全国を郡と県に分け、長さや重さの単位・文字・貨幣を統一するという合理的な中央集権を瞬く間に達成した。また万里の長城を築いて北方の遊牧民族である匈奴(きょうど)の進入を防ぐことも成功した。だが余りの過酷な政治で秦は統一後僅か15年で亡んだ。
23日 紀元前202年に中国統一を受け継いだ漢は、それから約400年も続く大帝国を築いた。漢は見事に整備された官僚国家で、約5000万人の人民を、約15万人の官僚が統

制した。表向きは孔子の徳治(とくち)思想を掲げ、現実には韓非子の刑罰思想で統治するという、理想と現実を使い分ける発達した政治意識が見られた。

24日

稲作の広まりと弥生文化

日本最古の稲の化石は1997年、岡山県朝寝鼻塚古墳、約6000年前の地層から細胞化石が発見されている。 縄文時代の食料は、主に狩りは漁や採集によっていたが、簡単な畑作も行われていた。部分的には今から6千年前には米作りも始まっていた。
25日 稲作の広まりと弥生文化2. 2400年前の縄文時代末になると、灌漑用水路を伴う水田による稲作が、九州北部に現れ、その後、西日本から東日本へと広がっていった。 長江(揚子江)流域の江南(こうなん)を源流として水田稲作は伝えられたと考えられている。渡来ルートは、長江下流から北九州へ、または、山東半島から朝鮮を経て南下したか、そのいずれか双方の可能性も高い。
26日 弥生人の生活 水田による稲作とともに弥生土器が作られた。縄文土器よりも文様(もんよう)が少なく、薄くて、赤みを帯びた壺や(かめ)高杯(たかつき)などで実用的である。 稲の穂を摘み取り収穫するため、(いし)包丁(ほうちょう)が用いられた。穂はよく乾かしてから高床式(たかゆかしき)倉庫に貯蔵された。竪穴(たてあな)式に住み、村を作り、収穫感謝の祭りもあった。
27日 王の発生

稲作により食料生産の向上、人口増加、村の発展と交流の始まり。これは水田用水、収穫物の争い、村を守

る環濠、村の指揮者の発生となる。やがて村がまとまり国が生まれる。これら小国の指導者を王という。
28日 大陸の影響 この頃、大陸から青銅器や鉄器も伝わった。やがて国内でも生産が始まり、剣や矛などの武器、祭祀用の銅 鏡や銅鐸も作られた。
紀元前4−3世紀頃まで約600年続いたこの時代が縄文時代である。
29日 日本語の起源 人類文化は話す能力にかかっている。互いに言葉を交わし話すことを始めたのは100万年以上前と言われる。文字は最古のシュメール文字でさえ発明されたのは約6000年前で、言語と文字は全く別物である。縄文時代は約1万6500年前で言葉を交わしていたに違いないが、当時地球上で文字を使用する人類は存在していない。 日本語の文字の歴史は、中国から漢字を取り入れた時に始まる。古く見ても2000年前である。それ以前にも日本列島の住人は日本語を話していた。起源がいつか、どこから来たのか、列島内で生まれたか、複数言語が一つになつたのか。言語学者によると縄文言語の存在も推定されるが、縄文語の長い歴史となると何も分からない。
30日 日本語の起源2. 言えることは、日本語は中国語から文字を借りてはいるが、中国語とは遠い親戚語でさえない。大陸のどこにも祖語(共通の祖先に当たる言語)は無い。英語・フランス語・ドイツ語などの西洋語とインドの古い言語は、一つの祖語から枝分かれしてインド・ヨーロッパ語族という大きな系譜を作っている大陸にはセム語族、ウラル語族、ドラヴィタ語族、シナ・チベット語族などがある。日本語はそのどれにも属していない。 言語学的には、系統機関が定かでない言語として朝鮮語、アイヌ語、ギリアーク語などあるが日本語もまだその系統不明の孤立言語の一つである。然し、日本語は現在、地球上で話されている人口数で七番目の大きな位置を占める言語である。起源は謎だが、基礎的な単語の音や用法が日本語に類似している例としてはビルマ系、カンボジア系、インドネシア系、オーストロネシア(マレー・ポリネシア語族など)系の言語をあげておりインド南部のタミル語との近似を指摘する学者もある。
31日 神話と口承 文字の無い社会では、人間は記憶力に頼る。祖先の昔話、村落の先例をよく記憶している人がいて掟の代用をした。神々や英雄も口から口へと伝えられ、長い伝承で語り継がれた。アイヌのユーカラなど優れた口承文学は世界に多い。日本神話もそうした口承の遺産、一般に神話は科学的には説明つかない不思議な話が多い。オオゲツヒメ、食物の女神は、口、鼻の穴や尻の穴からご馳走を出す。 スサノオの命が怒り女神を殺害すると死体の頭から蚕、目から稲、耳から粟、鼻から小豆、性器から麦、尻から大豆が発生した。これは農業の始まりと関係がある話。ニューギニアからメラネシアにかけて多い話だが、縄文時代に南から新しい文化の渡来と関係あるとされる。切り刻んで土の中に埋めて増殖を図る芋との関係。女性をかたどつた縄文土偶は、しばしば、バラバラに壊され分散して出土する。収穫への祈りと関係があるらしい。