重光葵氏&イナ・バウワー 日本海新聞潮流寄稿 平成18年7月3日 

日本はポツダム宣言を受け入れ連合国に降伏した。重光葵は敗戦時の外務大臣、昭和2092日、日本代表として戦艦ミズリー上で「日本降伏文書」に調印した。米軍は日本に命令文を手渡し直ちに「軍政」を施行すると通告した。

翌日、重光葵はマッカーサー司令官と直談判し日本はポツダム宣言を受託して降伏したが軍政の事は記載がないと受け入れを拒否した。マツカーサーは恐れを感じて軍政をやめ日本政府を通じた間接統治としたのである。
大日本帝国の威信と
(とう)()を飾る迫真の交渉であろう。

敗戦直後の
828日、米軍先遣隊が日本に上陸、この日から92日までの6日間、米兵の物品略奪、婦女暴行は130件、当時の報道機関は臆する事なく報道した。政府と報道機関と国民は一体であり敗れたりと雖も「和魂」は国内に充満していた。

これを見た中華民国外相は軽視できぬ日本の国民性に畏敬と親近感さえ示したが米国人は日本の不屈の姿を見て報復への恐怖と薄気味悪さを感じた。

それからである、占領軍が国民と報道機関の分断作戦を開始したのは。これは遅効性毒薬のように効いて
60年後の今日、日本人は国史を放棄し祖先の偉大な精神と事績を忘れ、彼らの意図のまま和魂無き日本人になってしまった。
現今日本は完全に米国製毒薬で麻痺した姿であり祖先の血の滲むような国家経営の事跡に申し訳ない国状である。

重光氏は、その後A級戦犯として投獄され禁固
7年の判決を受けた。釈放後の昭和31年、日本が国連加盟を果たした時も再び外務大臣であった。新生日本代表として国連総会に初登場した時、重光は万雷の拍手で国際社会から歓迎された。

軍政を敷くつもりが間接統治となったのは重光が彼らに理を持って反撃したからである。
アングロサクソンを観察してきたが、戦前戦後とも否、彼らは本質的に物の尺度に二重の基準を持っていると断定する。指摘されれば猛然と怒り憎むが指摘しない限り彼らはきれい事の普遍的理念を平気で主張する性質があり篭絡されてしまう。重光は敢然と理路整然と主張し成功した。
だが、これには当時まだ日本軍
350万が厳然と存在したからである。あらゆる外交には「力」があってこそ効果があるということだ。

二重の基準を持ち欧米が適宜その物差しを変えるのは外交だけではない、経済で日本が大成功した
60年代以降、銀行の新BS基準で遂に日本の銀行も経済も追い詰め崩落させた。宮沢蔵相が米国財務長官に恫喝され態度を一変するなど国益を損じ重光と比較にならぬ軟弱。

スポーツも同様、あの荒川選手のイナ・バウワーの難技、日本人が出来るとなると採点から除外したのである。これが欧米の手法である。

幕末、ペルーにより恫喝されて準備の欠けたまま開国し万国法という白人の都合のいい法律を呑まされて日本は明治末に陸奥宗光外相により解決するまで不平等に痛めつけられた。
銀本位制の幕末、彼らに裏をかかれて大量の金小判も国外流出した。

近年は実業日本の経済大成功の成果を、マネーという虚業の狡猾な情報操作と恫喝で金融資産を
(かす)め取られた。
最近は更に巧妙で、ひ弱な日本の政治家・政府官僚を手玉にとり日本人自らが国内法を彼らの国益に沿うように作りあげている。

日本人が和魂を喪失しあらゆる分野の司、司、即ち持ち場持ち場で身体を張って守るべきものを守らないから国家は弱体化した。近隣諸国もそれを知り内外呼応して日本に加圧している。
(鳥取市)鳥取木鶏研究会 代表 徳永圀典