格言・箴言 7月「小学の読み直し」A
                −失われた自己を取り戻す為にー
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小学は「人間生活の根本法則」 
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安岡教学は、活学であり、現代人間に欠けてしまった、生きる上での基本を実に分かり易く教えておられる。私の元に連絡の来る、若い人が意外と故安岡正篤先生の著作を読んでいるのに驚きと共に納得できるものを感じている。現代人は、今こそ「小学」を学び直せと叫びたい。そこで安岡正篤先生の「小学の読み直し」を日々精力的に取り組みたいと決意した。平成1871
                         徳永日本学研究所 代表 徳永圀典

 1日 小学書題 

(小学序文)

古は小学・人を教ふるに、灑掃(さいそう)・応対・進退の節、親を愛し長を敬し師を尊び友に親しむの道を以てす。皆、修身・斉家(さいか)治国(ちこく)(へい)天下(てんか)(もと)たる所以(ゆえん)にして、(しこうし)て必ず其をして講じて、之を幼穉(ようさい)の時に習はしめ、其の習知(しゅうち)(とも)に成って而て扞格(かんかく)勝へざるの患無からんことを欲するなり。今其の全書見る

べからずと(いえど)も伝記に雑り出づるも亦多し。読者往々(ただ)に古今()を異にするを以て、之を行ふ()きは、(はなは)だ其の古今の()無きもの(もと)より未だ始めより行ふべからざるを知らざるなり。今(やや)蒐集して以て此の書を為し、之を童蒙(どうもう)に授け、其の講習を資く。庶幾(こひねがは)くは風化の万一に補あらんと云うのみ。 
淳熙(じゅんき)丁未三月朔旦 朱晦庵題

小学序文補記 灑掃(さいそう)は拭き掃除、それに応対、進退というような作法、こういう根本的なことが出来て、初めて修身・斉家・治国・平天下といったことに発展することが出来る。学問に限らず如何なる問題にしても、それを進めてゆく上の原理・原則というものがある。ルールというものがある。これを無視してはスポーツも出来ないし、碁・将棋も出来ない。 手術をするにしても基礎条件というものがある。先ずあらゆるものの消毒から始まって、器械・器具を整え、医者も看護婦も手を浄めて、そうして精神を統一して初めて手術にかかる。この基礎条件を厳格にすればするほど成功する。
 2日 小学は人間生活の根本法則1. 小学は人間生活の根本法則である。だから昔から、人を教えるには小学を以てするのである。人間生活のよって立つ根本はなんと言っても道徳でありまして、その道徳の基本的な精神・情緒といったものを培養しなければ、人間の生活は発達しない。殊に灑掃(さいそう)などというものは科学的に言っても大事であります。 人類文明の第一歩は、人間の前足が手になると同時に、頭が活躍し始めたことにあるわけで、従って弊害もそこから始まると考えて間違いないのであります。第一、立つということは、地球の引力の法則に反するから、それだけでも疲れる。だからお楽にという時には、必ず横におなりなさいということであります。立つことによって生じた病気や弊害は沢山あります。
 3日 小学は人間生活の根本法則2. 例えば胃下垂だの、内臓下垂だの、というのはみなそうであります。そこで人間は時々四つ這いになると良い。庭を手に下駄をはいて、或いは部屋の中を十分か二十分歩き廻る。胃腸病や神経衰弱など直ぐ治る。私自身もやってみたことがありますが、四つ這いになると全く物を考えない。 これは動物に還るのでありますから当然のことであります。その点古人はよく考えております。禅道や道場ではつとめて拭き掃除をさせた。毎日、朝から晩まで学問・修養では神経衰弱になって、胃腸障害を起し勝ちであります。そこで清潔。清掃と言って拭き掃除をさせる。従ってこれは労働ではなくて、本当は養生であり、療養であったわけであります。
 4日 「応対」 また応対ということも大事なことであります。人間というものはなにかによって自分を試練しなければない。相対するものがあって初めて我々の意識や精神機能が活発に働くのです。 アーノルド・トインビーがその歴史研究に用いている一つの原理は、challenge and response という事でありますが、良い意味に於いても、悪い意味に於いても、この二つによって世の中が動いて行く。そうしてその一番が応対であります。
 5日 人は「応対」で決まる 人は応対によって先ず決まってしまう。武道などやると尚更よく分かるのでありますが、構えた時に本当は勝負がついている。やってみなければわからない、などいうのは未熟な証拠であります。 尤もそれがわからないから面白いのですが・・いずれにしても応対というものは実に微妙なもので、人間は応対によって泣いたり笑ったり、すべったり転んだりしておると言って宜しいのであります。
 6日 断えざる練磨 そういう、灑掃(さいそう)・応対・進退のしめくくり。また親を愛し、長を愛し、師を尊び、友に親しむの道は、みな修身・斉家・治国・平天下の本たる所以であった、しかも幼稚の時に習わせることが大事であります。 後年になり色々に現れて来る。そうして「其の習・知と与に長じ、化・心と与に成って而て扞格(かんかく)勝へざるの患無からんことを欲するなり」、扞格(かんかく)は矛盾・衝突であります。
 7日 練磨と直感 人間は断えざる練磨によって矛盾・衝突がなくなり、だんだん本能的・直感的になって来る。自動車の運転一つにしても、だんだん練習しておるうちにそういう扞格(かんかく)がなくなって、車と人とが一体になって来る。 つまり無意識的活動になって来る。そうなると、意識や知性では知ることの出来ない真実の世界・生命の世界にはいってゆく。
即ちこれが其の習・知と与に長じ」であります。
 8日 ()・心と与になる」 扞格(かんかく)がある間は、そこに意識があるから知性に訴える。それが次第に知と共に長じて、無意識的に行動するようになる。その直感というものは内的生命の統一から出て来るもので、相対的知性の及ぶところではない。そうして物事は次第に化してゆく、ここに所謂心の世界・直感の世界というものが開けて来る。 これが「化・心と与に成る」というもので、物事はどうしても時間をかけて習熟する必要がある。
価値あるもの精神的なもの程インスタントでは駄目であります。肉体の動作・活動でも、修練を加えて、初めて医学的に、所謂全解剖学的体系の統一活動というものが出来るようになるのであります。
 9日 立派な成人の書「小学」 学問もそうであります。「今其の全書見るべからざると雖も、伝記に雑り出づるもの亦多し」。だから昔の話だからと言って、これを捨てるということは、原理・原則に反する。人間の原理・原則というものは古今東西などによって変わるものではない。人間として生きて行く以上どうしても行われなければならぬもので、行うことの出来ないもの 行うてならぬものであったならば、人間が知る筈はないのである。それを知らないで、昔のことだからと言うので、放っておくということは、これは無知である。これを童蒙に授けておるために、小学を童蒙(どうもう)と書の如く考えるのでありますが、それは間違いで、小学は童蒙の書であると共に、立派な成人の書というべきであります。
10日 人間の三不祥と三不幸  荀子(じゅんし)曰く、人に三不祥(さんふしょう)あり、(よう)にして(しこうし)(あへ)(ちょう)(つか)へず。(せん)にして而て肯て()に事へず。不肖(ふしょう)にして肯て事へず。是れ人の三不祥なり。 日本人は孟子は読むが、荀子は余り読まないようであります。しかし経世済民の上から言えば荀子の方がはるかに現実的で、社会的であります。又人物経歴も勝れた人であります。孟子を読む以上は荀子も必ず読んで欲しいものです。
11日 敬を忘れている

「幼にして而て肯て長に事へず」、幼にして長に事えないということは、いとけなくして敬することを知らないということになる。敬というものは、東洋哲学は言うに及ばず、西洋でもしきりに説くことであって、例えばカントの道徳学にしても、これを一つの基本にしておるのでありますが、それにもかかわらず人は

みな愛だけを説いて、敬を忘れている。愛は禽獣でもこれを知り、且つ行うことが出来る。人間が動物から進化して来た一つの原動力は、愛と同時に敬する心を持つようになったことであります。現実に満足しない、即ち無限の進歩向上を欲する精神的機能が発して敬の心を持つようになつたことであります。
12日 「敬」と「恥」と「慎」 現実に満足しない、即ち無限の進歩向上を欲する精神的機能が発して敬の心になる。換言すれば、現実に甘んじないで、より高きもの、より貴きものを求めるという心が敬であります。そうすると、相対性原理によって、必ず恥づるという心が湧いてくる。 恥づるから慎む。敬は恥や慎の心を活かす体液のようなものであります。人間の内臓血管というようなものは、血液を初めとするあらゆる体液の中にある。血球も塩水の中に浮いている。敬は体液である。従って愛するだけでは人にならないのであります。
13日 敬を求める幼児 今日も愛ということは皆が言うけれども、敬とか恥とかと言うことは全く忘れてしまっている。忘れるどころかこれを無視し、反感を持ち、否定しようとしている。然し、幼児はこの心を最も純真に持っておるのであります。幼児は物心ついて片言を話すようになると、明らかに敬の対象を求める。両親の揃っておる時には、専ら母を愛の対象とし 、父を敬の対象とする。愛されると同時に敬する。然も自分を敬されることを欲するのであります。どんな小さな子供でも、お前はえらいとか言って誉められると必ず喜びの笑みをもらす。だから子供に対しては叱ることは構わないけれども、無暗にさげすむことはいけない。これは子供の価値を否定することになる。つまり不敬であります。
14日 敬を忘れた子供 その幼児が敬することを知らなくなってしまった。これは今日の国民教育に根本的な欠陥がある証拠であります。昔は親の言うことは聞かなくても、先生の言うことだけはよく聞いたものであります。 処がその先生が今では敬されずに侮られる。挙句の果ては、警察の力を動員しなければ中学や高校の卒業式を行うことが出来ない。こんな教育なに止めた方がましであります。「賎にして而て肯て貴に事へず」も、要するに同じことであります。
15日 三不幸 伊川先生言う、人・三不幸あり。少年にして高科(こうか)に登る、一不幸なり。
父兄の
(ぜい)()って美官となる、二不幸なり。
高才有って文章を能くす、三不幸なり。
年の若いのにどんどん上へあがる。世の中はこんなものだと思ったら大間違いである。と言うのは修練というものを欠いてしまうことになるからである。これは不幸である。
16日 親のお陰で若輩が重役になつたりする、皆同じことである。又いろいろの勝れた才能があって文章を能くする。−文は飾る、表すということで、つまり弁が立ったり、文才があったりして表現が上手なことーこれも大きな不幸である。今日は選手万能の時代で、野球とか、歌舞とか、若くて出来る者にわいわい騒ぐ。これは当人にとって大きな不幸 であります。若くてちょっと小説を二つ三つ書くと、忽ち流行作家になって大威張りする。小娘がちょっと歌や踊りが出来ると、やれテレビだ映画だ、とひっぱりだして誇大に宣伝する。つまらない雑誌や新聞がそれをデカデカと報道する。変態現象というか、実に面妖なことで、決して喜ばしい現象ではないのであります。
17日 三不幸 というのは、人間でも動物でも、或いは又植物でもなんでもそうでありますが、本当に大成させるためには、それこそ朱子の序文にある通り「習・知と与に長じ、化・心と与に成る」という長い間の年期をかけた修練・習熟というものが要るのであります。 決してインスタントに出来上るものではない。特に幼・少時代というものは、出きるだけ本人自身の充実・大成に力を注いで、対社会活動などは避けた方が良いのであります。又自からも避ける心掛けが大切で、それでこそ大成できるのであります。これを忘れて、外ばかり向いて活動しておると、あだ花のように直ぐ散ってしまう。
18日 読書尋思(じんし)推究 前輩(せんはい)(かつ)て説く、後生(ごせい)才性(さいせい)人に過ぐる者は畏るるに足らず。()だ読書尋思(じんし)推究(すいきゅう)する者畏るべしと()すのみ。又云う読書は只尋思を(おそ)る。(けだ)し義理の精深(せいしん)()だ尋思し、意を用ひて以て之を()べしと為す。鹵奔(るぼう)にして(はん)(いと)ふ者は決っして成ること有るの理無し。 説くは言うに同じ。かって先輩が言った、後生(ごせい)のうちの色々の才能のある者は決して畏るるに足らぬと。度々申しますように、人間を内容の面から分類して、一番の本質をなすものは徳性であった、色々の知能・技能はその属性であります。これは天然に具わっておる、というので性をつけて才性と言っている。こういう持って生まれた附属的な才能は、つまり頭が良いとか、文章がうまいとか、言った才能の勝れたものは決して畏るるに足らんという。
19日 (はん)(いと)ふ者 「唯だ読書尋思推究する者(おそ)るべしと為すのみ。又言う、読書は只だ尋思を(おそ)る」、(おそ)るは単なるおそるではない、肝腎(かんじん)という意味であります。読書は尋思が肝腎であります。「(けだ)し義理の精深(せいしん)()だ尋思し、意を用ひて以て之を得べしと為す」、義とは、我ら如何になすべきや、という実践的判断、理はその意味・法則であります。思うに義理の精深は大いに心を働して初め て遂げるので「鹵奔(るぼう)にして煩を厭ふ者は決して成ること有るの理無し」鹵奔(るぼう)は穴だらけ、節だらけ、整理・整頓の出来ておらぬ乱雑な状態―乱雑・雑駁で手間ひまかかることを嫌がるようなものは決して成るものではない。ちょっと何か出きるから、と言って持ち上げることは青少年の教育には一番悪い。大人でも同じことで、一芸一能を自慢して好い気になっておったら駄目であります。これは程明道・程伊川の文章にある一節であります。
20日 (けん)(たっと)びて色を(かろん)じ 1.

子夏(しか)曰く、(けん)(たっと)びて色を(かろん)じ、父母に(つか)へて()く其の力を(つく)し、君に事へて能く其の身を致し、朋友(ほうゆう)と交り、言ひて信あらば、未だ学ばずと()ふと(いえど)も、(われ)は必ず之を学びたりと()はん。

子夏(しか)という人は、孔子の弟子の中でも学問のよく出来た、真面目で謹厳で、どちらかと言うと、少し融通のきかぬ人であったが、然し春秋末期の大動乱の中にあって、魏の文候という勝れた実力者から堂々たる待遇を受けておるところを見ると、偉い人物であったに違いないのであります。
21日

科学(えだがく)宗教(そうきょう)

孔子より四十四歳も若く、従って孔子在世中はまだほんの青年であったわけであります。「(けん)(たっと)びて色を(かろん)じ」は、「賢を賢として色に()ふ」と読んでも宜しい。色は性欲ばかりでなく、あらゆる物欲の対象であります。賢を貴んで色など問題にしない、父母に仕えてよくその力をつくし、君に仕えてよくその身を捧げ、よく友達と交わり、言う言葉に信がある。こう言う人は未だ学ばずと雖も本当に学んだ人

と言うべきである。
世の中には学ばずと雖も学んだものの及ばぬ人がある。そういう人の学と普通の人間の学とは違うのでありまして、普通の人間の学というものは、知性とか、技能とかいった附随的なもので、言わば学の枝葉末節であります。
一々細かい物象を捉えてやるから
科学(えだがく)
これに対して、大本の学は根本の教えであるから
宗教(そうきょう)、或いはこれを「しゅうきょう」と言うのであります。
22日 食・()くを求むる無く 孔子曰く、君子は食・()くを求むる無く、(きょ)・安きを求むる無く、事に敏にして(しこうし)て言を慎み、有道(ゆうどう)に就いて而て(ただ)す。学を好むと()うべきのみ。 これも論語の学而(がくじ)篇にある一節であります。「君子は食・飽くを求むる無く」、君子は腹一杯食ってはいかぬなどと言うと、直ぐこの頃の人間は、そういう七難して道学は困ると言って横を向いてしまう。然し、生理学・病理学・衛生学といった科学がやっぱり同じ事を説いておるというと忽ち納得する。困ったものであります。
23日 (きょ)・安きを求むる無く (きょ)・安きを求むる無く」、人間は安居(あんきょ)しておっては駄目で、やっぱり雨風にさらされたり、暑さ寒さに鍛えられたり又時には山野に起き臥ししてこそ生命力・体力というものが鍛えられる。 「事に敏にして言を慎み」、孔子はしきりにこの敏という字を使っておりますが、今日の言葉で言えば、フルに働かせるということです。
24日

この夏には、不景気のために約2千余の中小企業が倒産したということでありますか、従ってそれらの施設は現在遊んでおるわけで、所謂遊休施設になっている。こういう遊休施設はすぐ目につくのでありますが、ここんみんなが忘れておる遊休施設がある。それは己の脳つまり頭であります。これくらい勿体無い遊休施設はない。我々はこの脳力をフルに働かさねばならない。

この脳力をフルに働かせることを敏というのであります。だから私はびんぼう、という時に貧乏という字を使わない。敏忙という字を使う。私は貧乏は嫌でありますが、敏忙は大いに好むところであります。「事に敏にして而も言を慎む」何事にも頭をフルに働かせて、然も言葉を慎み、そうして「有道に就いて而て正す」、道を解する人、道を待っておる人について正す。独断主義はもっともいけない。
25日 (うんほう)()て恥ぢざる 孔子曰く、(やぶ)れたる(うんほう)()て、狐貉(こかく)を衣る者と立ちて恥ぢざる者は。其れ由か。
(やぶ)は破れたと読むよりも、ふるびたと読んだ方が宜しい。狐貉(こかく)は毛皮であります。由は孔子門下の最年長者だけあって着る物等に一向無頓着であっ
た。志ある者は、着る物や身辺のことは余り気にかけないものであります。この頃はあらゆるマスメディアを通じてこれでもかこれでもかと贅沢なものを教えるので、こういう古びたぼろ着物は着て恥ぢない、などということが難しくなってしまいました。そういう意味で現代人は誠に不幸であります。
26日 本屋の親爺と学生 だから生活の資を多くそういう下らぬことに使ってしまう。昔は本郷の大学の反対側は殆ど本屋であったが、今はパチンコ屋だとかレストランだとかに押されて、昔の半分になってしまっている。昔の学生は食う物も食わずに本を買ったものです。今の学生は食って飲んで、その上でないと本を買わない。 と本屋の主人は嘆く。我々も学生時代には本屋によっては借金して買ったものです。「あんた見込みがあるから貸そう」とか「あんたはどうも見込みがなさそうだから駄目だ」とか、本屋の親爺にもなかなか面白いのがおりました。今時はそういう書生もおらねば、本屋もない。誠にコマーシャルになつてしまつたものであります。
27日 食を共にして飽かず 曲禮(きょくれい)に曰く、食を共にしては飽かず。飯を共にしては手を(うるほ)さず。飯を(たん)することなかれ。放飯することなかれ。流せつすることなかれ。草H(たしょく)することなかれ。骨を噛むことなかれ。魚肉を反することなかれ。狗に骨を投げ与ふることなかれ。固く獲んとかすることなかれ。 曲禮は礼記の中の一篇。
「食を共にしては飽かず」、寮生活などしておると、他をしのいでがつがつかきこみ、すき焼きなどして、気がついた時にはなにもない、というような人間が一人や二人おるものです。こういうのは、食を共にして飽こうとするものであります。
28日 飯を共にして手を(うるほ)さず 「飯を共にして澤さず」、昔は飯は木の葉等に盛って、指先でつまんで食べた。だから指をぺたぺたさせない。今でも東南アジア等に行くと土人がやつておる。「放飯すること勿れ」、飯を丸めたり食べ放題に食べることをしない。 「流せつすること勿れ」、「草H(たしょく)すること勿れ」。流せつは、音をたててすすること。スープを飲むのに音をたててすする人がおりますが、西洋人は最もこれを嫌う様であります。草H(たしょく)は舌づつみして食うことで、これは犬や猫のやることであります。
29日 与えるにも与え方がある。 「骨を噛むことなかれ。魚肉を反することなかれ」、骨を噛んだり、魚肉をひっくり返して食べるようなことをしてはいけない。「狗に骨を投げ与ふることなかれ」、これは色々の意味にとれますが、要するに犬と雖も生物でありますから、敬意を表する意味で投げ与えることをしない。こういうことをする人間に限って、人間に対しても投げ与える。 人に物を与えることは大事なことで、乞食でも放り出された飯は食わないものであります。物を与えるには与え方がある。敬意を表して与える。人間の微妙な心理であります。「固く獲んとすることなかれ」、是が非でも取ろうとしてはいけない。魚を釣っても、釣り落とすこともある。物にこだわるというのは一番いけない。味のある文章であります。
30日 食べ物1. 論語に曰く、「(めし)(しろき)(きは)めず。(なます)は細きを(きは)めず。(めし)()れて?()え、魚の(あざ)れて肉の(ふる)きは食はず。色の()しきは食はず。臭の悪しきは食はず。にるを失へるは食はず。時ならざるは食はず。(きりめ)正しかざれば食はず。その(じょう)を得ざるときは食はず。 肉は多しと雖も食気に勝たしめず。唯だ酒は量無けれども乱に及ばず。沽酒(こしゅ)市脯(しふ)は食はず。(はじかみ)を撤せずして食ふ。多くは食はずと」論語に孔子はこういう事を言っている。飯は余り精白にせず、六分か七分()きにしも(なます)も細かく刻まない。飯の蒸れてすっぱくなったのや、魚の肉の古くなつたもの、色の悪いもの、臭いの悪いもの、煮方の失敗したものは食わない。
31日 食べ物2

「時ならざるは食はず」、時季時期のものを食べる。近頃は四季だけでなく、緯度・経度まで無視して、いつでも何処でも色々なものが食べられますが、これは生理的にも病理的にも好くないそうであります。「割正とからざれば食はず。」、包丁の入れ方の悪いのは気持ちの悪いものです。醤―例えばわさび。わさびの無い時は魚の刺身を食はない。わさびは魚肉の毒除けであります。

いくら肉が沢山あろうとも、食欲を考えて食べ過ぎるようなことはしない。酒はいくら飲んでもよいが、乱酔するまでは飲まない。これを或る漢学者が「酒は量るなかれ。及ばずんば乱す」と読んだという笑話があります。又買ってきた酒、買って来た乾し肉は食わない。はじかみをのけずに食い、多食するようなことはしない。一々もっともに孔子の食生活法であります。