変質を迫られる日本人の社会認識
    
平成7年5月11日 日本海新聞私の視点に掲載

万全の措置をとる。最善を尽くす。慎重に見守る。この言葉を近頃実によく耳にする。政、官、民間、一個人はいうに及ばずマスコミさえよく使っている。便利な言葉である。考えてみれば中味はあいまいで何らの具体策はない。これで凡て終止符が打たれている。それ以上誰も追求しない。日本は本当に良い国である。今、国際化して沢山の外国人も往来し居住し国境は無くなりつつある。それでも日本人は異質な国と思われている。ほぼ単一民族だからそれだけで分かり合えるから日本人の意識は江戸時代のままなのかも知れない。敗戦後は国の安全さえ他国任せである。尤も近ごろは水にもコストをかけるようになった。誰か忘れたが、フランスの社会学者がこんな事を言ったのを思いだした。"あさはかな国際主義は祖国を離れ、豊かな国際主義は祖国を想う"戦後5O年間、国家が否、国民が安全のコストを支払ってこなかつたツケが今、大きく降りかかってきた様に思われる。サリン事件、警察庁長官狙撃などは自らの国に自ら責任をもつ国造りを忘れた教育の結果であり社会が想像以上に病んできた証左ではあるまいか。万全の措置などこの人間社会にあり得る筈はないのだ。万全の措置とは具体的に何かを明快に示す事が最も大切である。そこの処をもっと明確にした議論をしなくては何も産まれない。さらに言えば、安全に就いて万全とは国家として国民の生命財産を守る為に、他国を侵略するのでなく、確りとした軍隊を持ち他国に侮られない毅然とした部分が必要なのである。その上で優しが必要でそこは文民がやる。万全を徹底して追求すると、テロを超法規で釈放などしない。そこにはどうしても避けて通れないものがある。人権である。人間はだれしも平等である。平和な一人一人の人権は確り守って貰いたい。然し全体の安全の為のコストを支払うためには許容される範囲で人権コストがかかるのではなかろうか。私は万全とか最善とか抽象論に留まること無くどうすれば万全なのかを大いに議論し煮詰めていくことが最も必要なのではなかろうかと思う。本当に自分の国に誇りを持つ国民が他国民からも尊敬される。独り善がりになっては駄目だが国際化の必須事項である。自分の先祖を多くの人は敬う。その事は即ち国の先祖を敬う事なのだが国家の先祖となると別の事としてきた教育は矢張りおかしいのだ。病んでいる日本の社会はあいまいにしてきたいろんな問題が背景にある事を痛感させられる昨今である。       完