地方分権の幻想に惑わされるな!!
--国家破綻の契機となる!!--
「東京に出て、中央官庁の取材をして地元に戻ると、県庁職員のレベルの低さに愕然とする」
これは、選択誌7月号の記事の一節である。発言者は地方地元新聞の記者とある。
これは真実の言葉である。私も予ねてからそう信じている。
先ず、町村役場の職員は市役所の職員に頭が上がらない。市役所職員は、県庁職員に頭が上がらない。
この構図は決定的である。頭脳面のDNAに刷り込まれている感触である。
県庁就職で落ちたのが市役所、町村役場の職員となるのである。この構図は「刷り込み」に近いものがある。位負けの構図が定着している。
また、町村議員は、町村役場の職員に能力的にバカにされている節が見受けられる。議会で役場職員に事前指導を受けねば議会質問不能の議員もいるやに聞いたし目撃したことがある。
同様の構図は市議会、県議会にも見られるとほぼ断定できる。
第一、県会議員の質問一つにしても、県民を代表して県の施政を国民の目から厳しく追求するものが見られない。県知事や県当局に阿っているような姿勢である。こんな事で権限や予算を与えたらどうなるものか甚だ疑問である。
最近
「議論がなっていないなあ、優秀な人間は、みな中央に出て、地元には人材がおらんからなあー」であった。
これは、私のように合理性追求の権化の様なメガ企業で、競争原理のど真ん中で切磋琢磨の企業活動をした経験者が見れば実に納得できるのである。地方の企業意識には競争原理も弱く、職員の能率は極めて非効率である。
競争原理の働かない地方の人材の能力は、中央や大都会の人材と比較し、至って劣っていると思うのは冒頭の記者と同様である。
結論から言えば、このような地方の人材に大きな財源を与えて一体全体、大丈夫なんかと考えて少しも不思議ではなかろう。
また、県政を批判する地方新聞自体、競争原理がなく勉強不足で人材も足りない。国民の為に、論理的な追求批判など不可能である。
その点、ノンキャリアーを含めて、統制のとれた霞ヶ関官僚の仕事ぶりは優れたもので予算活用に安心感がある。
選択誌の指摘である、「一般的に、国、都道府県、市区町村と、政治単位が小さくなるにつれて、職員の質は低下しているのは歴然たる事実である。極端に言えば、地方公務員として基本的資質能力さえ備えておらない職員が多い」と言う。
続けて指摘している、「議員による、利益誘導に目をつむるばかりか、職員自体も強大な権限を有して外郭団体などに天下りしている実態もある」と。
「地方分権」の理想は言うは易いが、理想論に過ぎないと私は思う。また、都道府県に出向した経験のある本省出向者の本音を直接、私は聞いたこともある。
選択誌は、こんな話題も披露している。
九州のある中核都市にいる全国紙社会部記者の話だが、県や市の職員の劣化に呆れるとして、
「暴力団まがいの市会議員までいる中で、彼らの言うがままに臨時職員を採用して、生活保護費を支給しているのではないかという疑惑が常にある」。時に、実働部隊となる一方、自らの利権拡大をして高給を貪っているのが自治体職員であると指摘している。
地方分権の名の下、メデイアの弱い地方で、彼らに権限と財源を渡せば、嬉々としてその浪費を始めかねない連中なのだと選択誌は指摘しているが、同感である。
さらに、選択誌によると、総務省の中堅幹部は、こう指摘している。
4月、ギリシャ、イタリアなどと共に、財政が火を噴きそうなスペインで、地方政策省の次官は、「地方分権が過ちだった」と認めたと。スペインでは、1978年から国内17州に強い自治権を与えた。単に「小国家を作っただけ」だと回顧し、今後は権限を国へ再集約する方針だと。
アメリカの州財政の破綻も、強すぎる権限による暴走だと言われる。
日本は地方分権の再論議を始めなくてはならぬ。
余程の、能力的レベルアツプと、倫理観の確立が伴わなくては地方分権には反対である。まだ霞ヶ関のほうが素晴らしい。
現在のままでは、地方分権には反対である。
日本国の更なる劣化が始まるからである。
平成24年8月1日
徳永日本学研究所 代表 徳永圀典