風姿(ふうし)花伝(かでん)その3   世阿弥(ぜあみ)


平成24年8月

この本は、どうして若い時に、育児の前に読まなかったのかと、悔やまれてならない書物であった。芸のみでなく、人間形成、物事の発育過程の自然な姿、過程を心情的に亦、実に本質を突いたもので、圧倒的な名著である。先ずは、「風姿花伝の名言」から抜粋しご披露することとする。  平成248月   岫雲斎圀典

平成24年8月

そんな中、世阿弥に更なる試練が訪れる。永享6年(1434年)、72歳の世阿弥は突然、都から追放を言い渡され佐渡に配流された。ことの理由は、はっきりしていない。世阿弥が佐渡へ流された事は禅竹に宛てた書状と佐渡紀行文「金島書」の存在によりかろうじて解るだけで、公的記録に佐渡配流のことは一切記されていない。
その後、嘉吉元年(1441年)、将軍義教が殺害され、義政が8代将軍となりますが、音阿弥のトップ・スターとしての地位は続きました。この音阿弥につながるのが、現在の観世家である。世阿弥がいつどこで亡くなったのかは全く不明。観世家の伝承では嘉吉3年(1443年)のこととされており、それによれば享年81歳であったことになる。おそらく佐渡で最期を迎えたのではないかと言われている。

少年後期1718歳)

この時期を世阿弥は、人生最初の難関としている。「まず声変わりぬれば、第一の花()せたり」。能は少年前期の声や姿に花があるとするが、声変わりという身体上の変化は、その愛らしさ失わせるので、この時期を第一難関としている。この逆境をどう乗り切るか。世阿弥は、「たとえ人が笑おうと、気にせず、自分の限界の中で無理せずに声を出して稽古し続けよ」と説いている。

「心中には、願力を起こして、一期(いちご)の堺ここなりと、生涯にかけて、能を捨てぬより外は、稽古あるべからず。ここにて捨つれば、そのまま能は止まるべし」

周囲も、本人も才能有りとしていたが、身体の変化・発育という如何とも致し難き事に遭遇、絶望する。だが、その時こそ人生の境目であり、諦めずに努力する事が後に生きてくると言う。

限界の中、進歩がない時は、耐えることが必要。そこで絶望したり、諦めれば己の限界を超えることが不可能。無理せず稽古を続けることが次の飛躍へと繋がる。  

一期(いちご)の堺ここなりと、生涯かけて、能を捨てぬより外は、稽古あるべからず」             (年来稽古条々。十七・八より)

――少年期の得意が次々と失せてゆく青年期の覚悟と努力が一生を決定するーー 

岫雲斎「17才か18才になれば一生の運命を決定する境目はここだと大勇猛進を奮い起こし、どんな事があろうと一生捨てぬ覚悟を以て稽古するほか方法は無い」。 

青年期2425歳)

この頃になると、声変わりも終わり、声も身体も一人前となり、若々しく上手に見えて来る。人々に誉めそやされ、時代の名人を相手にしても、新人の珍しさから勝つことさえある。新しいものは新鮮に映り、それだけで世間にもてはやされる。この時、名人に勝ったと勘違いし、自分は達人であるかの如く思い込むことを、世阿弥は「あさましきことなり」と、切り捨てる。

「されば、時分の花をまことの花と知る心が、真実の花になお遠ざかる心なり。ただ、人ごとに、この時分の花に迷いて、やがて花の失するをも知らず。初心と申すはこのころの事なり」。

(新人であることの珍しさによる人気を本当の人気と思い込むのは、「真実の花」には程遠い。そんなものはすぐに消えてしまうのだが、それに気付かず、いい気になること程、愚かしき事なし。かかる時こそ、「初心」忘れず、稽古に励むべし。)我が「まことの花」を完成する為には「時分の花」が咲き誇る間こそ稽古が必要とする。

.時分(じぶん)の花をまことの花と知る心が、真実の花に(なお)遠ざかる心也」。         (年来稽古条々。二十四・五より) 

――大概の人が、この時分(じぶん)の花の(はや)やしに酔い、この一時的な花を散らしてしまう事に気づかないー 

岫雲斎「一時的な成功、物珍しさ、面白さで賞美される仇花に過ぎないものを、本物として評価し錯覚を起こす心が真実の花から愈々遠ざかるのである」。 

壮年前期3435歳)

この年頃は世阿弥が風姿花伝を著した時期と重なる。世阿弥は、この年頃で天下の評判をとらなければ、「まことの花」とは言えないとする。

「上がるは三十四?五までのころ、下がるは四十以来なり」

上手になるのは、34?35歳まで。40才を過ぎれば、ただ落ちていくのみ。だから、この年頃に、これまでの人生を振り返り、今後の進むべき道を考えることが必要。34?35歳は、自分の生き方、行く末を見極める時期である。 

()し、(この)時分に、天下の許されも不足に、名望も思ふ程なくは、いかなる上手なりとも、未だまことの花を極めぬ為手(して)と知るべし」。                                 (年来稽古条々。三十四・五より)  

――壮年期に頭角を現しえぬ者に真実の花は咲かせ得られないーー 

岫雲斎「三十代半ばになっても、世間に認められない、
また評判も思う程でなければ、どのように上手でも、未だ誠の花を極め得ていないシテと思って良い。

壮年後期44ー?45歳)

「よそ目の花も失するなり」

世阿弥の言葉。頂点を極めた者でも衰えが見え始め、観客には「花」があるように見えなくなってくる。この時期でも、まだ花が失せないとしたら、それこそが「まことの花」であるのだ。そうだとしても、この時期は、あまり難しいことをせず、自分の得意とすることをすべきだ、と世阿弥は説く。

この時期、一番にしておく事として世阿弥が挙げているのは、後継者の育成。自分が、体力も気力もまだまだと思えるこの時期こそ、自分の芸を次代に伝える最適な時期だという。

世阿弥は、「ワキのシテに花をもたせて、自分は少な少なに舞台をつとめよ」ということばを残している。後継者に花をもたせ、自分は一歩退いて舞台をつとめよ、との意で、「我が身を知る心、得たる人の心なるべし」(自分の身を知り、限界を知る人こそ、名人といえる)と説く。うーんと唸ってしまう。

此比(このころ)よりは、能の手立(てだて)、大方替るべし。たとひ、天下に許され、能に得法(とくほう)したりとも、それにつきても、

よき脇の為手(して)を持つべし」。(年来稽古条々。四十四・五より) 

――功なり名遂げて後、有力な助演者を持つことの意味は、芸にゆとりを産み、身を砕く熱演とは違う豊かさを生む。 

岫雲斎「44-5歳からは、能の仕様は大いに変化すべきである。例え天下の名人として認められ、能の真髄に到達していたとしても、優秀な助演者を持つ事の強みは芸にゆとりを生じ、身を砕く熱演とは異なる豊かさを生むのである。 

老年期50歳以上)

能役者の人生最後の段階である50歳以上の能役者について語る。『風姿花伝』を書いた時世阿弥は3637歳であり、この部分は、父である観阿弥のことを書いていると言われる。

「このころよりは、おおかた、せぬならでは手立てあるまじ。麒麟も老いては駑馬に劣ると申すことあり。さりながら、まことに得たらん能者ならば、物数は皆みな失せて、善悪見どころは少なしとも、花はのこるべし」

(もう花も失せた50過ぎの能役者は、何もしないというほかに方法はない。それが老人の心得。それでも、本当に優れた役者なれば、そこに花が残る。)

この(ころ)よりは、大方、せぬならでは手立(てだて)あるまじ。

                           (年来稽古条々。五十有余)

――50を過ぎてからの舞台的成功の秘訣は、大方「芸をしない」という方向を取る以外に致しようもないー 

岫雲斎「助演者に花を持たせてする方法から「せぬ方法」へ。然し、それは「せずして花たる究極の芸」への志向でもあるのだ。 

続いて世阿弥は、観阿弥の逝去する直前の能について語る。観阿弥は、死の15日前に、駿河の浅間神社で奉納の能を舞う。

「その日の申楽(さるがく)、ことに花やかにて、見物の上下、一同に褒美せしなり」

「能は、枝葉も少なく、老木(おいき)になるまで、花は散らで残りしなり」

観阿弥の舞は、あまり動かず、控えめだが、そこにこれまでの芸が残花となって表われている。これが、世阿弥が考えた「芸術の完成」であろう。「老いたりとも、その老木に花が咲く」。これこそ世阿弥の理想の能であり芸であろう。