元老の見識

元老は、戦前日本において、政府の最高首脳であった重臣。憲法は元老についての規定を明記しておらず、憲法外機関。

明治時代、こんな話があります。

日露戦争が避けられなくなった明治36年、元老会議の決断により「日英同盟」を結んだ。これは大変な外交戦略です。

また、アメリカ・ルーズベルト大統領によって日露戦争終結を図っている。ルーズベルト大統領とハーバード大学で同窓の金子堅太郎伯爵をアメリカに派遣し終戦工作をしている。

維新の死線を乗り越えた人間は机上の空論に溺れておらず現実的です。

また、日露戦争で、明治38年の満州、奉天会戦で大山元帥軍がロシアのクロパトキン軍を撃破した。

大山元帥は、それまで黙って児玉参謀総長に作戦は任せきっていたのですが、奉天作戦で大勝利をした晩、その晩ですよ、児玉参謀総長を呼び、「ご苦労だけど、東京へ行って山縣元帥や元老・重臣に、戦争の終結を要請して来てくれ」と言ってます。戦争を止める潮時だと。

これは大変なことです。維新の死線を乗り越えた元老は違います。甘くない、人間を知っている。大勝利の晩ですからね、凄い。これが見識であり胆識なのですね。この訴えを受けてワシントンの大使に訓令をしてルーズベルトにロシアと和平仲介の斡旋をしたのです。

 

統帥権独立の弊害が出できたのは、その元老のいなくなる大正以降ですね。

参議院は、元老の役割をして欲しいのです。

 

東条首相が組閣の大命を受けたのが昭和161016日、対米宣戦布告直前です。

この時、昭和天皇は流石です。こういわれたのです、

「これまでの国策決定を白紙にして、どうすべきか改めて考えよ」でした。

 

白紙還元の御掟です、元老がおらなかった。

残念ですね、頭脳だけではだめなのです。胆識かな。

 

大東亜戦争開戦直前のことです。

戦争開始は昭和16128日です。

日本は、和戦両様の構えです。対米交渉は積極的にやる、作戦準備もやるでした。

だが、726日にアメリカが「在外資産凍結」をしたのです。これでは日本は、石油の一滴も買えない。これが戦争の分岐点でした。後に敗戦後、マッカーサーもこれを理解しています。

日本の戦争は「自衛戦争」だつたと。

 

然し、アメリカ国務長官の「ハルノート」です。

1126日です。これで日本は生きる為に戦争に踏み切ったのです。

東京裁判でのパール判事の言葉があります。

「アメリカが日本に送ったのと同一の文書を他国に送れば非力なモナコ公国やルクセンブルク公国でさえ必ずアメリカに対して武力をもって立ちあがっただろう」

勝ち負けを度外視しても開戦を選択せざるを得なかったのが『ハルノート』。(正式名称、合衆国及び日本国間の基礎概略)開戦前夜の昭和1611月26日アメリカ国務長官コーデル・ハルが日本政府に対して通告してきた文書。日本国はアメリカからの最後通告と解釈した。

当時日本はABCD包囲網、アメリカ・イギリス・支那・オランダによる対日経済封鎖により石油・ゴム・といった資源のほとんどを供給停止されていた為に南方進出を真剣に考えていた。
東南アジアの国々はほとんど欧米の植民地。
それら国々を独立させ対等貿易を行えば日本に活き残る道はある。アジアから欧米の植民地支配を排除せねばならないが欧米と開戦できる国力は無い。そんな状況下にありながらも日本は日米開戦を回避すべくぎりぎりの条件を提示して日米交渉の妥結を願った。
アメリカの条件「甲案」とは

1
・ 日支(日本と支那)に和平が成立した暁には支那に展開している日本軍を2年以内に撤兵させる。

2
・ シナ事変(日中戦争)が解決した暁には「仏印」(フランス領インドシナ)に駐留している兵を撤兵させる。
3
・ 通商無差別待遇(自由貿易)が全世界に適用されるなら太平洋全域とシナに対してもこれを認める。
4
・ 日独伊三国同盟への干渉は認めない

と言う内容であり更に「甲案」での交渉決裂に備えて日米戦争勃発を未然に防ぐ為の暫定協定案として「乙案」も用意してあった、乙案は下記の内容である。

1
・(オランダ領インド=現インドネシア)での物資獲得が保障されアメリカが在米日本資産の凍結を解除し石油の対日供給を約束した暁には南部仏印から撤兵する
2
・シナ事変が解決した暁には仏印全土から撤兵する。

要するに日本に対する経済封鎖が解除され石油などの資源が供給されれば南方に進出する必要性は無くなる。
それと引き換えに日本も全面撤退に応じるという内容である。
この事については駐日大使ロバート・クレーギーが帰国後政府に提出した報告書で「日本にとって最大の問題は南方進出では無く、耐え難くなりゆく経済封鎖を取り除く事だった」とかかれており日本の南方進出が「領土的野心」等では無かった事を証明している。

東京裁判でアメリカ人のブレークニー氏も「日本の真に重大な譲歩は甲案であり、甲案において日本の譲歩は極限に達した」と言っている。

日本側は対米交渉においてこれ以上は応じれない譲歩を示したと言う事である。中国撤兵までの譲歩を考えていた。
しかしそれに対しアメリカは11月7日に「甲案」、11月20日に「乙案」をも拒絶し11月26日に日本が到底受け入れる事の出来ない「ハルノート」が提出された。
ハルノートは以下の文書である。
1
・ 日本軍の支那、仏印からの無条件撤退
2
・ 支那における重慶政府(蒋介石政権)以外の政府、政権の否定(日本が支援する南京国民政府の否定
3
・ 日独伊三国同盟の死文化(同盟を一方的に解消)

日本に対し大陸における権益を全て放棄し明治維新前の日本に戻れと言う事。
江戸時代アメリカに武力で開国を強制的にせまられて以来欧米列強に揉まれながらも日本は血の滲む努力の末やっと対等になりつつあるところで「全てを放棄しろ」である。
こんな訳の解からぬ条件を突き付けながらも経済封鎖の解除には一言も触れて無いアメリカ。

日本は生存権を賭けて日米開戦の道を選択したと言うより開戦という選択を取らされた。
資源・物資・大陸での正当な権益・アメリカにある日本の資産・これらを放棄しろと言う事は「死ね」と言うのに等しい。日本の選択した『開戦』という道は自衛手段であり日本には一切の戦争責任は無いと言える。

東条の処刑前の手記がありますのでご紹介いたします。
《英米諸国人に告げる》
今や諸君は勝者である。我が邦は敗者である。
この深刻な事実は私も固より、これを認めるにやぶさかではない。
しかし、諸君の勝利は力による勝利であって、正理公道による勝利ではない。
私は今ここに、諸君に向かって事実を列挙していく時間はない。
しかし諸君がもし、虚心坦懐で公平な眼差しをもって最近の歴史的推移を観察するなら、その思い半ばに過ぎるものがあるのではないだろうか。
我れ等はただ微力であったために正理公道を蹂躙されたのであると痛嘆するだけである。
いかに戦争は手段を選ばないものであるといっても、原子爆弾を使用して無辜の老若男女数万人もしくは数十万人を一挙に殺戮するようなことを敢えて行ったことに対して、あまりにも暴虐非道であると言わなければならない。
もし諸般の行いを最後に終えることがなければ、世界はさらに第三第四第五といった世界戦争を引き起こし、人類を絶滅に至らしめることなければ止むことがなくなるであろう。
諸君はすべからく一大猛省し、自らを顧みて天地の大道に恥じることないよう努めよ。
《日本同胞国民諸君》
今はただ、承詔必謹する〔伴注:終戦の詔を何があっても大切に受け止める〕だけである。私も何も言う言葉がない。
ただ、大東亜戦争は彼らが挑発したものであり、私は国家の生存と国民の自衛のため、止むを得ず受けてたっただけのことである。
この経緯は昭和十六年十二月八日の宣戦の大詔に特筆大書されているとおりであり、太陽の輝きのように明白である。
ゆえにもし、世界の世論が、戦争責任者を追及しようとするならば、その責任者は我が国にいるのではなく彼の国にいるということは、彼の国の人間の中にもそのように明言する者がいるとおりである。
不幸にして我が国は力不足のために彼の国に敗けたけれども、正理公議は厳として我が国にあるということは動かすことのできないことである。
力の強弱を、正邪善悪の基準にしては絶対にいけない。
人が多ければ天に勝ち、天が定まれば人を破るということは、天道の法則である。
諸君にあっては、大国民であるという誇りを持ち、天が定まる日を待ちつづけていただきたい。
日本は神国である。永久不滅の国家である。
皇祖皇宗の神霊は畏れ多くも我々を照らし出して見ておられるのである。
諸君、願わくば、自暴自棄となることなく、喪神落胆することなく、皇国の命運を確信し、精進努力することによってこの一大困難を克服し、もって天日復明の時が来ることを待たれんことを。



 

   平成2881

  鳥取木鶏会 代表 徳永圀典