言志晩録  最終章

平成25年8月1-11日 282.-292

1日 282.         
老境を述ぶ
人の齢は、四十を()えて以て七、八十に至りて漸く(おい)に極まり、海潮の如く然り。退潮は直退せず、必ず一前(いちぜん)一卻(いっきゃく)して而して漸退(ぜんたい)す。即ち回旋して移るなり。進潮も亦然り。人々宜しく自ら験すべし。 

岫雲斎
人間は40を越えると漸く年の寄るのを感じ、7080ともなると老いも極まってくる。年のとり方は、将に海の潮のように感じる。今、退()き潮を考えると、一度に退くものではなく、必ず寄せては返しているように見えながら次第に退いてゆく。即ちぐるぐる廻って移りゆく。上げ潮も同じであろう。人々は自分で年を取ってゆくのを験してみるがよい。

2日 283
わが本願
我より前なる者は、千古万古にして、我より後なる者は、千世万世なり。仮令(たとい)我れ寿(じゅ)を保つこと百年なりとも、亦一呼吸の(あいだ)のみ。今(さいわい)に生れて人たり。庶幾(こいねがわ)くは人たるを成して終らん。()れのみ。本願(ここ)に在り。 

岫雲斎
自分より前には千古万古、後にも千世万世と永遠に続く。たとい己が寿命が百年あるとしても宇宙生命から見ればほんの一瞬に過ぎない。
今、幸いに人間として生まれた以上は、人間たるの本分を尽くして生涯を終えたい。我が真の本願はここにある。

3日 284.  
心気精明なればよく事機を知る

心気(しんき)(せい)(めい)なれば、能く事機(じき)を知り、物先(ぶっせん)に感ず。至誠の前知(ぜんち)する之れに近し。 

岫雲斎
人の心が清明、清澄(せいちょう)であれば、事の発生以前にその兆しを知り、物事を先々に感得するこができる。至誠の徳ある人物が吉凶禍福を前知できるのは此の道理に拠る。

4日 285.
死生観七則 その一
生は是れ死の始め、死は是れ生の終り。生ぜざれば則ち死せず。死せざれば則ち生ぜず。生は()と生、死も亦生、「生々之れを易と謂う」とは、即ち此れなり。

岫雲斎
生は死の始め、死は生の終りである。生まれなければ死ぬわけはなく、死ななければ生まれるわけもない。宇宙の大生命の上から見れば、生は元々生であり、死もまた生である。「生々これを易という」とはこのことである

易経・繋辞上伝「生々これを易という」。 大自然の姿は陽と陰の交替変化、それを易と言う。人間の生死・盛衰もこの理に従うと視る。
5日 286.
死生観七則 その二
凡そ人は、少壮の過去を忘れて、老没の将来を図る。人情皆然らざるは()し。即ち是れ(じく)()(ごん)(きょう)の由って以て人を(いざな)う所なり。吾が儒は則ち易に在りて曰く「(はじめ)(たず)ね終に(かえ)る。故に死生の説を知る」と。何ぞ其れ易簡(いかん)にして明白なるや。 

岫雲斎
凡そ人間は、過去の少壮時代を忘れて老いて死ぬ事に思いをはせる。これが釈迦の仏教で人々を誘うものだ。
わが儒教は易経の通りで、人間の生死は、大自然の大生命上にある波と考えるから「生の初めを尋ねれば、終りの死にたどりつく」というもので、儒教の生死観は誠に以て簡便明瞭である。

6日 287.
死生観七則 その三
死の(のち)を知らんと欲せば、当に生の前を観るべし。昼夜は死生なり。醒睡(せいすい)も死生なり。呼吸も死生なり。 

岫雲斎
死後のことを知ろうとするなら生まれる前のことを観るがよい。それは昼夜のようなものであり、眼が覚めている時と寝ている時のようなものである。そればかりではない。出る息が生であれば、吸い込む息は死である。生死を知ろうと思うならば一呼吸の中に死生の道理が現れている。

7日 288.
死生観七則 その四
無は無より生ぜずして、而も()より生すず。死は死より生ぜずして、而も生よりり死す。 

岫雲斎
凡そ無は無から生ずるものではなくして、有があるから生ずるのである。死は死から生ずるのではなく、生から生ずるのである。

8日 289.
死生観七則 その五

老佚(ろういつ)は形なり。死生は(あと)なり。老の(いつ)たるを知らば、以て人を言う可し。死の生たるを知らば、以て天を言う可し。 

岫雲斎
骨を折るのと、遊び楽しむのとは、形の上から言うことであり、死すると生まれるとは物の(あと)かたちから言うことである。働くことが楽しみである事を知れば、人生苦楽の相寄る理由を心得たことになる。また死は生に基づくものであることを悟ったならば天地生々の理を覚ったものとなる。

9日 290.
死生観七則 その六
海水を器に()み、器水を海に(かえ)せば、死生は直に眼前に在り。 

岫雲斎
海水を器にくんで、その水を海に返せば死生の道理は眼前で知ることができる。くんだ水が生、戻した水が死である。

10日 291.
死生観七則 その七

生を好み死を(にく)むは、即ち生気なり。形に?(こく)するの念なり。生気已に()けば、此の念を併せて亦()く。故に天年を終うる者は、一死(ねむ)るが如し。 

岫雲斎
人間が生きるのを好み、死をにくむのは、生きんとする気があるがである。これは身体に囚われた考えである。生気が無くなれば、身体に囚われるという念も自然となくなる。だから天寿を全うしたものは眠るように死す。

11日

292.真我は万古に死せず

夢中の我れも我れなり。(せいご)後の我れも我れなり。其の無我たり、(せい)()たるを知る者は、心の霊なり。霊は即ち真我なり、真我は自ら知りて、醒睡(せいすい)(へだ)つること無し。(じょう)(れい)(じょう)(かく)は、万古に亘りて死せざる者なり。 

岫雲斎
夢の中の我も我である。醒めた後の我も我である。その夢の中の我であり、夢醒めた後の我であるという事を知るのは「心の霊妙な作用」である。この霊妙な作用こそ、「真の(われ)」なのである。この(しん)()は醒めた時も、睡眠中も少しも違いはない事は自ら知っている。真我は常住の霊であり、また常住の知覚でもあり万古に亘って不朽不滅のものである。 

言志晩録は本日にて完了。