佐藤一斎「(げん)志後録(しこうろく)」その十六 岫雲斎補注  

平成24年8月1日から8月31日 

172.

意趣あれば風雅

此の学、意趣を見ざれば、風月を咏題(えいだい)するも亦俗事なり。(いやし)くも意趣を見れば、(せん)(こく)を料理するも亦典雅なり。

岫雲斎
学問は、確りした意思が無ければ、いくら風月を詩歌に歌っても俗人の仕事に過ぎない。いやしくも、学問とは、心構えが確りしておれば、お金や穀物を取り扱っても、そこに典雅なものが視て取れるのである。

173.
五倫に師弟は含まれる

()って曰く「五倫に君臣有りて師弟無し。師弟無きに非ず・君臣は即ち師弟なり」と。今更に思うに「師は特に君の尊有るのみならず、而も父の(しん)有れば、則ち()(どう)も亦師道と通ず。長兄(ちょうけい)は父に(なぞら)えば、即ち兄にも亦師道有り。三人行けば、必ず我が師有れば、則ち朋友も亦相師(あいし)とす。(おっと)教え(つま)従えば則ち夫も亦師なる()。是れ則ち五倫の配合、()くとして師弟に非ざる無し」と。

岫雲斎
私はかって、こう言ったことがある。「五倫は、君臣、長幼、夫婦、朋友とあり師弟というのは無い。見かけは師弟がないが、実質的には存在している。即ち、君は師、臣は弟である」と。今、さらにこう思う。「師たる者は君主の有する尊さがあるばかりでなく、父のような親しみがあるから、父の道も師の道とは通じる。長兄は父に従うから、兄にもまた師の道がある。論語に「三人行けぱ必ず我が師有り」とあるが、朋友もまた互いに師とすべきである。夫婦の間にも夫が教え、妻が従ってゆく。そうすれば夫にもまた師たる道があると言える。このように見ると、五倫の配合には、どこにも師弟の関係があるから別に師弟の項目を立てなかったのであろう。

174.
師厳にして道尊し

師厳にして道尊し。師たる者宜しく自ら体察すべし。「如何なるか是れ師の厳、如何なるか是れ道の尊さ」と。

岫雲斎
礼記にある「人の師たる者、尊厳が備わって初めてその道の尊いことが知らされる」。だから、師たる者は自ら「師の厳とは如何なることか、道の尊いこととは如何なることか」を体験し思察せねばならない。

175.
贈り物に関して

物には心無し。人の心を以て心と為す。故に人の贈る所の物、必ず其の人と同気なり。失意の人、物を贈れば、物も失意を以て心と為し、豪奢(ごうしゃ)の人、物を贈れば、物も豪奢を以て心と為し、喪人、物を贈れば、物も喪を以て心と為し、佞人、物を贈れば、物も佞を以て心と為す。但だ名有るの贈遺(ぞうい)は、受けざるを得ず。而も其の物の其の心と感通すること是くの如くなれば、則ち我は受くるを(いさぎよ)しとせざる所有り。唯だ君父(くんぷ)の賜う所、正人(せいじん)君子の贈る所、微物と雖も、甚だ敬重するに足るのみ。

岫雲斎
物には心はない、物は人の心を以て心とする。だから人に贈る物は其の人と同じ心となる。失意の人の贈る物は失意であり、豪奢の人の贈り物の心は豪奢である。
日陰者の贈り物は物も喪であり、ひねくれた人の贈り物には佞心が入っている。然し、名義の立つ贈り物は受けねばならぬ。
物と心とはこのように通じ合っているから、贈られても心よく受けられぬものがある。
ただ君主や父からの贈り物とか、正しい人物や立派な人物からの贈り物は僅かなものであってもこれを敬い重んじなくてはならぬ。

176.

老人の戒め

其の()ゆるに及んでや、之を戒むるは、「得」に在り。「得」の字、指すの所の何事なるかを知らざりき。余、齢(すで)に老ゆ。因って自心を以て之を証するに、往年血気盛んなりし時は、欲念も亦盛んなりき。今に及んでは血気衰粍し、欲念(かえ)って較澹(ややたん)(ぱく)なるを覚ゆ。但だ是れ(ねん)()を貧り、子孫を営む念頭、之を往時に比するに(やや)(こま)やかなれば、「得」の字或は此の類を指し、必ずしも財を得、物を得るを指さじ。人は、人は、死生命有り。今強いて養生を?(もと)め、(いん)(ねん)?(もと)むるも亦命を知らざるなり。子孫の福幸も、自ら天分有り。今之れが為故意に営度(えいたく)するも、亦天を知らざるなり。畢竟是れ老悖衰颯(ろうはいすいさつ)にて、此れ()べて是れ「得」を戒むる条件なり。知らず、他の老人は何の(そう)()()すかを。

岫雲斎
論語では、老人の戒めは「得」である。得の字は何を言うのか知らなかった。
私は既に老人だから、内省してこれを確認してみると、昔の血気盛んな時代には欲望も盛んであったが今は血気も衰え、欲心も淡白になっている。
ただ長生きしようと思ったり、子孫の無事安楽を願い巧く暮らせるようにして置いてやろうとの考えが、昔に比べてやや強くなっているから、「得」の字は或はこの類いの事を指摘し、必ずしも財産とか物を得ることを指摘しているのではないと思う。

人間は生きるも死ぬも天命である。

この老年となり、強いて養生をし、長生を求めるのは、天命を知らぬことである。子孫の幸福も、人間には天の与える分限というものがある。子孫のために殊更に営為を計るのも天命を知らぬと言うことである。
つまり、これ等の事は、老いぼれて、心の乱れた者がすることで、全て「得」を戒める謂いである。これらは自分の考えであり他の老人はどう思っておるのか知らない。

177.
実言と虚言

実言は、芻蕘(すうじょう)(ろう)と雖も、以て物を動かすに足る。虚言は、能弁の士と雖も、人を感ずるに足らず。 

岫雲斎
真実の言葉は、農民や(きこり)など身分低き人であっても人を感動させるものだ。いつわりの言葉は、能弁であっても誰も感動させられない。

178         己を知れ

人は当に自ら己れが才性に短長有るを知るべし。

岫雲斎
当然のこととして、人は才能や性質には短所と長所が有ることを知っておらねばならぬ。
179.  
白は五色(ごしょく)(げん)なり。

白は能く(しゅう)(さい)を受く。五色の(もと)なり。()の極、色無きを白賁(はくひ)と為す。素以て(あや)と為すは、白なり。其の位に素して行うは、白なり。()()の吉なるは、白なり。余()って之を(かんが)うるに、五色の(もと)は白より起る。白の凝聚(ぎょうしゅ)せるを青と為し、青の(じょ)(ちょう)せるを黄と為し、黄の爛熟せるを赤と為し、赤の(せき)(るい)せるを黒と為し、黒の(きょく)()は又白に帰す。生出(せいしゅつ)流行すること、蓋し亦()くの如し。

岫雲斎
白は五色の元である。()は飾でありその極端は無色の飾なきものに帰す。無飾である。
論語にある「素以て絢を為す」は画家が五色以上用いた上に、白い胡粉で仕上げるということである。中庸に「君子はその位に素して行う」とあるが、これは君子がその地位を本来の自己の本分を尽くす」の意であり純潔純白の意味である。
易の()()初九(しょく)「素履は往く時は咎なし」とあるが、文飾を加えずに事を行う意で純白である。これを思案するに、五色の元は白より起き、白の凝り固まったのが青、青が伸び伸びと広がって黄になり、黄が十分に熱すると赤となる。
赤が積み重なって黒となり、黒の極致はまた白になる。かくの如く、色の生じ流転するのは上述の順序の通りである。

180
運命を逃るる能わわず

気運に小盛衰有り。大盛衰有り。其の間亦(たが)いに倚伏(きふく)を相成すこと、猶お海水に小潮有り大潮有るがこどく、天地間大抵、(すう)を逃るる能わず。則ち活易なり。

岫雲斎
世の中のめぐり合わせには、小さい盛や衰、そして大きな盛や衰があり、その間に亦、福とか禍とかが互いに混然としている。海に大潮や小潮のあるのに似ている。天地の事は、大抵はこの運命を免れることは出来ない。それを知るのが活きた易学であると考える。

181.        豊作と不作 五穀の豊歉(ほうけん)にも、亦大抵数有り。三十年前後に、必ず小饉(しょうきん)(こう)有り。六十年前後に、必ず大凶歉(だいきょうけん)有り。(やや)遅速(ちそく)有りと雖も、(つい)に免るる能わず。之が予備を為さざる可けんや。

岫雲斎
五穀の豊作、不作にも数がある。30年程度で一度小飢饉、60年程度で大凶作がある。
多少の遅速はあるが、免れることはない。備えておくねばならぬ。

182.
中国歴代の興亡

30年を一世と為し、150年を五世と為す。君子の(たく)は五世にして()ゆ。是れ盛衰の期限なり。500年にして王者興る有りとは、亦気運を以て言えるなり。凡そ世道(せどう)に意有るもの、察を致さざる可からず。

岫雲斎
中国では、30年を一世とし、150年を五世とする。孟子の「君子の沢は五世にして斬え、小人の沢も五世にして斬ゆ」とある。君子の徳沢(とくたく)も小人の余沢(よたく)も大抵五世で尽きる。「気」の運行であり、この大自然に存在する、盛衰の期限を言い得て妙あり
183.
処罪の注意
一罪科を処するにも、亦智仁勇有り。公以て愛憎を忘れ、識以て(じょう)()を尽くし、断以て軽重を決す。識は智なり。公は仁なり。断は勇なり。

岫雲斎
一つの罪を処断する際にも、智仁勇の三つの心が必要。公平過ぎて愛憎を忘れたり、依怙贔屓(えこひいき)なく自分の見識を働かせ真偽を充分に見分けて判断し、罪の軽重を決定しなくてはならぬ。識は智であり公は仁を、断は勇が必要、このように夫々対応するものだ。

184.
理想的生活

(とり)鳴いて起き、人定(にんてい)にして(えん)(そく)す。門内粛然として、書声(しょせい)室に満つ。道は妻子に行われ、恩は(ぞう)(かく)に及ぶ。家に酒気無く、(くら)()(ぞく)有り。豊なれども(しゃ)に至らず。倹なれども(しょく)に至らず。俯仰愧(ふぎょうは)づる無く唯だ(せい)(はく)を守る。各々其の分有り。是くの如きも亦足る。

岫雲斎
鶏鳴で起床し、人定(にんてい)即ち夜十時頃には就寝。屋敷内はきちんと整頓されており、読書の声が部屋に満ちている。主人の持つ道徳は家族にも守られ、恵みは下男下女((ぞう)(かく))にまで行き渡っている。家庭内に酒気はない、米蔵には余剰もある。物は豊かで不自由はないが贅沢ではない。倹約をしているが吝嗇(りんしょく)でもない。天を仰いで()じるものなく、()して大地に愧じるものもない。清廉潔白な生活を守って暮らしている。人間には夫々に持つ分限(ぶんげん)というものがある。このような生活であれば、「足る」と言うべきであろう。

185.
心は隠せない
戯言(ぎげん)()と実事に非ず。然れども、意の体する所、必ず戯謔中(ぎぎゃくちゅう)に露見して、おおう可からざる者有り。

岫雲斎
戯れ事はもとより真実のことではない。然し心中に潜伏している事は、必ず冗談や洒落ごとの間に露見してしまうものだある。心は覆い隠すことは出来ないものだ。

186.
身は一つ、自重せよ

物は一有りて二無き者を至宝と為す。()(めい)(せき)(とう)、大訓、天球、河図(かと)の如き、皆一有りて二無し。故に之を宝と謂う。(こころみ)に思え、己れ一身も亦是れ物なり。果して二有りや否や。人自重して之を宝愛(ほうあい)することを知らざるは、亦思わざるの甚だしきなり。

岫雲斎
二つとない物を至宝とする。例えば、書経の顧命編にある赤鞘の刀、三皇五帝の書、鳴る球、河中の龍馬図の如きものは唯一つあるもので二つとは無い。
試しに考えて見るがよい、自分の一身も、またこれは物である。果して二つあるのか。
この身体を自重し自愛する事を知らぬとは、誠に思うことを知らない最たる事である。

187.
事を処するの心得
事を処するに(へい)(しん)()()なれば、人自ら服し(わずか)に気に動けば便(すなわ)ち服せず。 岫雲斎
物事の処理には、平らかな心で気安くすれば人々は自然と心服してついて来る。少しでも私心で動けば決してついてこない。
188.
政治の四要訣(ようけつ)
寛なれども(じゅう)ならず。明なれども察ならず。簡なれどもならず。果なれども暴ならず。此の四者を能くせば、以て政に従う可し。 

岫雲斎
寛大だが放縦でない。明確だが苛察でない。簡素だが粗略ではない。果断だが乱暴ではない。この四つをよくこなせる者が立派な政治を行える。 

189.
性急な人を使う時

人、或は性(はく)(せつ)にして事を担当するを好む者有り。之を駆使するは(かえ)って(かた)し。迫切なる者多くは執拗なり。全きを挙げて以て之に委ぬ可からず。宜しく半ばを割きて以て之に任ずべし。

岫雲斎
物事に早合点する性質を持ち何事も自ら一身に引き受けて担当することを好む人がある。かかる人物を使うのは却って難しい。何故なせば、早や飲み込みの人は多くは片意地であるからだ。だから仕事を全部任せてはいけない、先ず半分を担当させるのがよい。
190.
事の大小と器の大小

事に大小有り。常に大事を斡旋する者は、小事に於ては則ち蔑如(べつじょ)たり。今人(いまひと)(つね)に小事を区処(くしょ)し、()し得る後自ら喜び、人に向って誇説(こせつ)す。是れ其の(うつわ)の小なるを見る。又是の人従前未だ(かっ)て手を大事に下さざりしを見る。 

岫雲斎
物事には大事と小事がある。常に大事を取り扱っておる者は小事を軽く見る。或る人、常に小事ばかりを仕分けし処理し、それを成し終えると自ら喜び、人に対して自慢話をする、これはその人の器量が小さいことを示す。この人は、此れまで一度も大事を手がけたことのないことを現わしている。
191.
似て非なるもの

養望の人は(こう)に似、苛察(かさつ)の人は明に似、円熟の人は(たつ)に似、軽佻(けいちょう)の人は(びん)に似、?弱(ぜんじゃく)の人は寛に似、拘泥(こうでい)の人は(こう)に似たり。皆似て非なり。

岫雲斎
名望を得ようとする人が志の高い人に似ており、人を厳しく攻め立てる人が明察に似ている。物事に馴れておる人が練達の士に似ており、軽薄な人が敏捷に似ている。気の弱い人が寛大な人物に似ており、融通の利かぬ人が篤実な人に似ている。これらは皆、似て非なるものだ。よく本質を見抜かねばならぬ。
192.
人の話す場合の注意

人と語るには、(はなは)発露(はつろ)して傾倒(けいとう)に過ぐ可からず。只だ語簡(ごかん)にして意達するを要す。 

岫雲斎
人と話す場合は、盛んに喋って心を傾けすぎてはいけない。言葉を簡潔にして、意味がよく通ずるようにする事が肝要である。

193. 
急ぐほどゆっくりと

火急(かきゅう)に文書を作るには、(すべか)らく必ず先ず案を立て、稿を起して、而る後、(おもむろ)(あらた)め写すべし。(かえ)って()れ成ること速やかにして誤無し。

岫雲斎
大急ぎで文書を作る為には、必ず立案して草稿を纏める。
その後、改めてゆっくり写すのがよい。この方が却って完成が早く且つ誤りもない。

194.          手紙の文は慎重に

遠きに()り後に伝うるは、簡牘(かんどく)()くは()し。一時応酬の文字と雖も、必ず須らく慎重にして(こう)(しょ゜)なる可からず、写し(おわ)りて審読(しんどく)一過して、而る後封完すべし。余(かつ)て人の為に(けん)(がい)の銘を作る。曰く、「言語或は誤つとも、猶(けい)(せき)無し。簡牘は慎まずんば、追悔(ついかい)すとも(あらた)?(がた)し」と。此の意を謂うなり。

岫雲斎
自己の気持ちを遠くに伝えたり、後世に伝えるには、手紙、または書き物に及ぶものはない。だから一時的なその場限りのやりとりの文字でも慎重にしてゆるがせにしてはならない。
写し終わったら注意して読み返し、それから封をしなくてはならぬ。自分はかって人の為に硯の蓋の銘を作ったことがある。
銘の意味は「言葉は時に誤ることがあっても跡が残らない。
手紙は何時までも残るから慎重に書かなくてはならない」である。
これは、書き物を大事にせよという事を言ったのである。
195         
最上の攻め方

攻むる者は余り有りて、守る者は足らず。兵法或は其れ然らむ。余は則ち謂う「守る者は余り有りて、攻むる者は足らず」と。攻めざるを以て之を攻むるは、攻めむるの(じょう)なり。 

岫雲斎
攻撃する方には余力があり、守る方には力が足りない。これは兵法ではそうかもしれない。然し、自分は、「守る者は余裕有り、攻める方は却って力が足りない」と言いたい。攻めないで、攻めると同じ効果を挙げれば、これこそ最上の攻め方と考えるからである。

196.  
為政者の一戒

事已むことを得ざるに動かば、動くとも亦悔い()からん。(かく)(かい)()くに在り。曰く、「()みぬる日に(すなわ)ち之を(あらた)む」とは是れなり。若し其れ容易に紛更(ふんこう)して、(かい)を一時に取らば、外面美なるが如しと雖も、後必ず(ほぞ)を噛まむ。政を為す者の宜しく戒しむべき所なり。 

岫雲斎
真に已むを得ざる時に動くのは後悔しない。易経の革の卦が変じて(かい)の卦になる時の言葉に「()みぬる日に(すなわ)ち之を(あらた)む。往けば吉にして咎なし」とはこのことを言う。
真に已むを得ない時でもないのに、軽はずみに変革して、一時的快感を取れば、外観的には立派に見えても後で必ず後悔する。
為政者はこの事をよく戒めなくてはならぬ。

197
.
公務員の心得

敬忠、寛厚、信義、公平、廉清、謙抑(けんよく)六事(ろくじ)十二字は、官に居る者の宜しく守るべき所なり。

岫雲斎
官吏のよく守るべき六事項十二字とは、敬忠君主を敬い忠義を尽くす。寛厚-寛大にして沈着、信義-誠実で正しい行い、公平-私心無く公明正大、廉清-貪欲でなく心の清きこと、謙抑-へり下り、自己抑制である。

198.
人君の学

(じん)(しゅ)の学は、智仁勇の三字に在り。能く之を自得せば、(ひと)り終身需用して尽きざるのみならず、而も掀天掲地(きんてんけっち)の事業、(のり)(こう)(こん)に垂る可き者も、亦断じて此れを出でじ。

岫雲斎
長たる者の学ぶべき事は、智仁勇の三文字にある。即ち、智者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は恐れずである。これをよく心得たらば生涯、この三つの徳の尽きざる恩恵を受けることができ、驚天動地の大事業を成し遂げ後世にその徳を残すことが出来る。断じてこの三徳を実行する以外にない。

199.
日本と漢土の南北朝
我が(くに)の南北朝は、漢土の南北朝と、事体?(はるか)に別なり。漢土は則ち南北に異姓角立し、又各々相簒奪せしかば、真に是れ(わか)れて南北たり。我が邦は則ち皇統一姓にして、(しん)(きょ)は南北に分つと雖も、而も(こう)(いん)は実に南北無し。但だ神璽(しんじ)の帰する所を以て順と為すのみ。(いずく)んぞ漢土と一例に之を視るを得んや。 岫雲斎
我が国の南北朝と漢土の南北朝とは全く事情の違うものだ。漢土の南北朝は、姓の異なる皇帝の対立であり、また各々がその位を奪い合っているばかりか本当の南と北とに分かれていた。
我が国では、皇統はどちらも同じ、皇居だけが南の吉野と北の京都に分かれていただけで、血統に南北の別は無い。
ただ、三種神器の帰着せられた方を正統としただけである。どうして漢土と同一視できようか出来るわけがない。
200.         

当今の儒者多く日本史を知らず

本邦の事跡は、儒者多く(くら)し。()れ衣服()に在りて、其の名を知らざるなり。而も可ならんや。

岫雲斎
我が国の歴史上の事柄を現代(江戸時代)の儒者の多くは知らない。これは丁度、自分の身体に衣服をまといながらもその名を知らないようなものだ。それで良いのであろうか。

201.
唐書に関して

余、近ごろ()の為に唐書を課す。昔嘗て一過せしが、今は則ち大半忘れて、未見の書を読むが如し。(たまたたま)、一二を記して胸間に在る者は、(あたか)も故人に逢うが如く、(はなは)だ喜ぶ可し。劉書詳(りゅうしょつまびらか)なりと雖も而も瑣猥(さわい)なり。欧、宋の(かん)(じょう)なるに()かず。(はん)(かん)は宜しく温史(おんし)(とう)()と併せ読むべし。可なり。我が(くに)古昔(こせき)(てん)(しょう)、蓋し()れを随、唐に資する者少なからず。故に軌範(きはん)(ここ)に在り、(かん)(かい)も亦(ここ)に在りて、熟読するを厭わず。

岫雲斎
最近、私は子供の為に唐書を学んでいる。一度、昔に読んだものであるが、今は大方忘れており初めての本のようだ。偶々一つ二つ覚えていたものがあると、古い友人に逢ったような気がして実に嬉しい。唐書にも色々あり、の書いた「旧唐書」は詳しいが少し煩わしく調子が低い。
欧陽修、宋祁(そうけ)作の「新唐書」
の簡潔さには及ばない。范祖禹(はんそう)の「唐鑑」は、司馬(しば)(おん)(こう)の「()治通(し゜つ)(がん)」中の唐紀と併せ読むのが宜しい。わが国の昔の法律や規則は、随や唐から()ったものが少なくない。だから、手本はここにある。また(かん)(かい)もここにある。
だから自分はこれらを熟読する事を厭わない。

202.

宋・明の二史

宋・明の二史は、事跡人情、今に於て近しと為す。但だ卷帙(かんちつ)浩瀚(こうかん)なれば、能く其の要処を()きて之を読まば可ならむ。 

岫雲斎
宋史や明史は、そその事実や人情が今に近い。
只、卷数が多いからその要点を抜きだして読むがよい。