改新政治の決算

(はく)村江(すきのえ)の敗戦

斉明女帝崩御後、皇太子中大兄は皇太子のまま称制(即位の式を挙げずに政務を執ること)し、女帝の喪を秘して磐瀬宮に移りました。そして、そのころ高句麗侵略を開始した唐軍に対し、中大兄は親征軍を指揮して漸く百済救援のための兵を朝鮮へ送りはじめたのでした。

しかし、中大兄は十月七日には海路九州を離れ、十月二十三日に女帝の遺体とともに難波に到着し、十一月七日には飛鳥の川原において殯葬(かりも)を行っています。このような状況ですから百済救援軍の士気はますます低下したと思われます。

翌称制元年(662)になると日本の主力部隊は次々と渡海を開始し、豊璋(ほうしょう)も遺臣たちによって百済王として立てられ、一応の反撃体制が整えられました。そのころ、唐・新羅軍は高句麗攻略にかかつており、その間隙をぬって日本軍は百済に橋頭堡を築いていったのです。しかし、日本軍の進攻に対して新羅は唐への救援軍を依頼し、事態はここに唐・新羅軍対日本・百済軍の全面戦争へと進展しました。

そして、翌称制二年八月、日本・百済軍は白村江において、遂に唐・新羅軍との一大決戦に臨みました。しかし、日本軍より一足早く到着していた唐・新羅軍は日本軍と百済軍の分断に成功しており、日本・百済軍は戦う前から戦略的に不利な状況に立たされていたのです。しかも百済軍内には内紛があり、日本軍も決して士気が高いわけでなく、さらに軍備・兵力をみても圧倒的に唐・新羅軍が優勢だったのでした。従って、水上戦となった決戦は一方的な日本・百済軍の敗北に終わり、日本水軍は再起不能なまでに壊滅してしまったのです。

こうして最初から問題の多かった親征軍は、ほうほうの体で朝鮮から逃げ帰ってきました。そして、日本の百済救援は空手形に終わり、百済はもはや完璧に歴史上から姿を消すこととなったのです。

 

註 朝倉宮

  朝倉橘広庭宮の略称。斉明天皇の皇居。661年新羅親征のため駐留、同年天皇ここに崩。伝承地は福岡県朝倉町山田、一説に同町須川。

 

  白村江

  朝鮮西南部を流れる錦江の古名。663年、唐・新羅連合軍に攻略された百済の救援に向った日本軍は、この地で海戦を行い大敗した。その結果、百済は滅亡し日本は朝鮮を放棄しなければならなかった。

敗戦後の改新政治の行方

斉明天皇の百済救援軍の派遣は無意義に終っただけ

でなく、その後の日本の政局に重大な影響を及ぼしま

した。

唐と新羅が勢力を得て、朝鮮は新羅によって占領され

ることになって日本の朝鮮での権益が皆無となった

のは当然、唐・新羅軍のさらなる日本侵略という事態

も考えられ、その防衛対策のために莫大な費用をかけ

なければならなくなりました。敗戦の翌年からは、壱

岐・対馬・筑紫国に防人(さきもり)をおき、狼煙(のろし)(だい)を設置し、さ

らに筑紫国には水城を築造しはじめたのです。また、

朝鮮半島で失ったものを取り戻すため、さらなる東国

の征服・開拓のため、そして防衛上の意味からも称制

六年、667年に近江の大津京へ遷都したのでした。

大化の改新が始まってからの旧体制を一気に覆す政

策、有力な人物の惨殺、謀殺、相次ぐ大土木工事、そ

して朝鮮遠征の大敗北とその戦後処理の負担、遷都に

よる負担と続けばさすがに政府に対する不平不満が

高まらないわけがありません。こうした政情から、こ

れまで政治責任を回避するため自ら即位することの

なかった皇太子中大兄も、さすがに称制七年正月即位

され、自らが天皇として改新政治の威信を保とうとさ

れたのでした。長い皇太子時代を経た中大兄皇子は、

ここに天智天皇として立たれたのです。

日本書紀には記述がありませんが、「弘仁格式」など

が記すように、天智天皇は遷都の前後から一般行政法

とも言うべき近江令づくりを行ったようです。もとよ

り、作成は鎌足が中心になって行いました。政治改革

に加えて、成文法の完成によって初めて律令制は名実

ともにその体裁が整うのです。鎌足・天智天皇政権は、

この近江令によって大化の改新以来の諸政策の総仕

上げを行おうとしたのでしょう。

しかし、大津京に移ってからの鎌足・天智天皇政権に

は、この近江令以外にはさしたる治績も見られず、天

皇は遊宴の日々を過されることが多かったようです。

そして天智天皇の八年、669年十月、鎌足が五十六才

の生涯を閉じると天皇はさすがに気落ちされたのか、

殆ど政治から退いたのです。そして、鎌足・天智天皇

政権の勢いが衰えるのに反比例して改新政治への不

満勢力を懐柔しながら実力をつけてきた大海人皇子

が実権を握りはじめました。

こうして、時代は大海人皇子と天智天皇の子・大友皇

子を擁した官僚政治家たちによって争われた、古代史

上、最大の内乱と言われた壬申(じんしん)(らん)へと進むのです。

 

註 防人

  古代、唐・新羅の侵入を防ぐため、筑紫地方の配置された兵。大化の改新の詔に初見。令制では諸国兵士の中から一定数を三年交替で選び、装備・往還食糧は自弁としたが、730年、天平二年、東国の兵士に限るようになり、その後何度かの改廃を経て、延喜901923年の頃には有名無実となった。

  

 

  大津京

  志賀宮、また近江大津宮ともいう。古代、大津京、志賀郡にあった天智天皇の皇居。667年、飛鳥京から遷都し、672年、天武元年、天武天皇が飛鳥(あすか)(きよ)御原宮(みはらのみや)に移るまで二代五年存続。

 

註 弘仁格式

  大宝元年、701年から弘仁十年、819年までの格を集めたもの、十巻と、式を集めたもの、四十巻。散逸していたが近時、その一部が発見された。平城天皇の時代、藤原内麻呂・菅野真道らに勅して選定させ、後、嵯峨天皇のとき、藤原冬嗣らに勅して続修させた。

 

  近江令

  二十二巻。天智天皇のとき制定された令。668年完成。律はない。編纂の中心人物は藤原鎌足。施行期間は671689年、天智十年持統三年と言われる。ただし内容は全くふめい。制定に関する確かに史料が殆ど無いため存在を否定する説もある。