平成に甦る安岡正篤先生警世の箴言」10
平成20年8月度

 1日 善と悪

「善を善として進めず。悪を悪として退(しりぞ)けず。

賢者隠蔽(いんぺい)して、不肖(ふしょう)(くらい)にあれば国その害をうく」

三畧(さんりゃく)は、六韜(りくとう)とともに日本人には随分よく知られた書物でありまして、軍書といえば、日本では六韜三畧(りくとうさんりゃく)と孫子・呉子(ごし)を指すくらいであります。その三畧は、上畧・中畧・下畧の三書から成り、本文は上畧の中にある言葉であります。
 2日 評論家はみな甘い

終戦後、日本の評論家はみな甘くなり、悪いことを悪いと言わず、また善いことも善いとして勧めもしません。誠にどうも不得要領で、従って真っ直ぐなことを言う人がおると嫌がります。そこで真っ直ぐなことを言う人は愛想をつかして隠れてしまいます。

また官庁などでも重要な場所ほど、余りテキパキとやる人間、或は敵があるような人間を避けて、なるべくあたり障りのない人間、自由に使える人間を役につける傾向があります。これは大きな間違いであるばかりでなく、それによって生ずる弊害は量り知れぬものがあります。
 3日 中畧 中畧に云う

「世乱るれば則ち叛逆生ず。三畧は袁世の為に作る」。
三畧は兵書というよりも政治の書物といった方がよい書物であります。
だから中畧にも、世の中が乱れてくると、どうしても謀叛が起る。この頃で申しますと、ストライキから始まってすぐデモをやる。そういう衰えた世の中をどうするかという指導の為に三畧を作ったと書いてあります。
 4日 下畧1 下畧に云う「一善を廃すれば則ち衆善(すた)る。一悪を賞すれば則ち衆悪帰す。善なる者その幸を得、悪なる者その(ちゅう)を受くれば国安くして(しゅう)(ぜん)到る。 衆疑へば定国(ていこく)なく、衆惑へば()(みん)無し。疑定まり、惑(かえ)りて国(すなは)ち安かるべし」。
 5日 下畧1解説 一つの善いことをやめてしまうと云うことは、一つの善いことだけの問題ではない、それに伴って多くの善いことがみな廃れてしまう。反対に、一つの悪いことを誉めると、際限もなく色々の悪いことが集まってくる。 どうも近時の日本を眺めておりますと、何かあたらず触らずというか、時には迎合するような空気がありまして、犯罪だの、破壊活動だのというものを厳しく裁かない。その為に次第に善いことが廃れて、悪いことがはびこるという世相になりました。
 6日 下畧2―1 一令(いちれい)逆らへば(ひゃく)(れい)失し、一悪施せば百悪結ぶ。善・順民に施し、悪・凶民に加ふれば、令行はれて怨なし。 民を治めて平らかならしめ、平を殺すに(せい)を以てすれば、民その所を得て、天下(やす)し」。
 7日 下畧2―1解説 「衆疑へば定国(ていこく)なく、衆惑へば()(みん)無し」。民衆が、こんなことでよいのか、と疑心を持ったり、惑うたりする様になると、国は定まらないし、民は治まらない。 処が、「疑定まり、(まどい)(かえ)りて国(すなは)ち安かるべし」是を是とし、非を非として、はっきりと判断をさせると、ああでもない、こうでもないと云うように惑っておったことがはっきりして、国中が安定するであろう。
 8日 下畧2−2 一令逆(いちれいさか)へば(ひゃく)令失(れいしっ)し」、道に逆らった、真理に違った一令出すと、百令即ちどれもこれもが失敗します。
(いち)(あく)施せば百悪結ぶ」、一つの悪いことを施すと、百悪が結集する。

従順な人民には善を施し、凶悪な民衆をぴしぴしと懲らしめるという風にすると、命令が行われて、人民は納得し、怨がなくなる。そして政治を行うのに、努めて平和を旨とし、その平和は汚れたり濁ったりしては駄目で、清い平和を以て行いますと、人民は安心しますから、天下は太平であります。漢代の昔も、日本の現代も変わらぬ真理であります。

 9日 尉繚子(うつれうし)

この間、長沙の古墳から出ました中国古典の中にもこの名がありました。尉繚子(うつれうし)韓非子(かんぴし)などと並び称される兵法家でありますが、秦の始皇帝がこの尉繚子(うつれうし)に大層惚れ込んで何とか仕官をさせようと

しましたが、巧みに逃げてしまったと言われております。その著書の中に、「不祥(ふしょう)は己が過を聞くを(にく)むに在り。不明は間を受くるに在り。禍は利を好むに在り。害は小人を親しむに在り。(ぼう)は守る所無きに在り。危は号令無きに在り」。
10日 油断 自分が間違っておるということを人から指摘され、聞かされることを嫌がり、或は弁解したり憤慨したりかる人があるが、これは特に人の上に立つ者は最も慎まなければなりません。また何が不明かといっても間者、スパイに乗ぜられるほど不明はない。 この間も、ニュースでご承知の通り、あの評判のよかったドイツの総理大臣の秘書にスパイがおったということでとうとう総理をやめました。これは油断も隙もない証拠であります。
11日 利の隙 国際会議のよく開かれるジュネーブでは美人のスパイが四百人もおると言われておりまして、これが映画に出てくる忍者のように可愛いものでなく甚だ複雑巧妙でありますから、どうしてもその 隙に乗ぜられます。
そして利を好み、小人に親しみ、しっかりとした法則・原則がなく、行きあたりばったりで、国民の向うところをはっきり指示しないと実に危険であります。
12日 号令が国民には大切 不安動揺の時代には、やはり当局者、支配者は、国民の向うところを明確にしなければなりませかん。一体、何を考えておるのか、どれが本当なのか、さっぱり国民に分からない、というような優柔不断・曖昧模糊が一番よくありません。 号令はファッショだというようなことを言って、それを憎む人間、それをやられて困る人間は、いろいろと理屈をつけては号令を無視しようとしますが、やはり国民は呼びかけ、号令をすることがないとうまくゆきません。
13日 発奮、努力の必要  今日の日本を、このように古典に徴して考えてみましても、無事に済むわけがないということがはっきりします。これをどうするか、どう切り抜けるか。いたづらに高きを望んでも仕方ありませんから、やっぱり自分の手の届く職域、家庭、交際範囲から道につかせる、正しきにつかせることであります。 国民の総てが何とかなるだろうと他人事のようなことを言って、無責任の状態がこれ以上激しくなりますと、日本は必ず混乱・破滅を招きましょう。然しこれは、政治ばかりでなく、我々の日常生活においてもであります。
(昭和四十九年十月二十八日)

時世の深刻な不安と、その覚悟、対策について文明の錯誤

14日 初めに 昨年来、内外公私にわたり多忙を極めましたために、つい関西の方にもご無沙汰を致しまして、ようやく半年振りに参れましたような次第であります。特に今年になりまして、世界的にもまた国内的にも、非常に多事多端でいつか本年の干支「乙卯」の意義と歴史的事実等についてお話を申し あげたことがございますが、それをいんにもと思わせるような状態であります。言うまでもなく、この講座は、原則として古今東西の先哲・先賢の名言を骨子として、これを単なる学問、考証ではなく、この厳しい世界及び日本の現実とを睨み合わせて、所謂活学、活きた学問にしようという建前で続けてまいったわけであります。
15日 時局問題 それで今回も何か先哲の名言を主題にして、これを講じながら時局の問題に活きた注釈を加えてゆくのが本旨でありますが前回から六ヶ月も経過して然もその間に非常な時局の変化がございまし たので活学の建前から言うても一応今日の内外情勢の深刻な重要問題について解説或は批判を試みるのが時宜を得たことと思いますので、本日は古人の文献はプリントせずに、お話を申しあげようと思います。 
16日 公害問題の本質 そこで先ず第一に取り上げたいことは、所謂公害の問題であります。これは日本でも深刻な問題となっておりますが、ひとり日本ばかりでなく世界的に共通な問題であります。従って公害に関しては、汗牛充棟(かんぎゅうじゅうとう)もただならぬというほど文献も報道もございますので、おそらく皆さんもその幾冊かは読んでおられましょうし、新聞や雑 誌等で日常相当目をとめておられるでありましょう。その公害の具体的内容、或は一々の問題を追っかけた所で際限ありませんが、兎に角公害問題の結論として言えることは、人間が今まで誇りにし、得意にしてまいりました近代文明の根本、本質に大きな誤解や錯誤があったということであります。従ってそれに対する反省、又それをどう是正するか、ということが根本的に一番深刻な問題になつております。
17日 分化・分派に走って(もと)を忘る これに関しては、つとにこの講座でも取り上げましたので、皆さんも既にご承知のことでありますが、念の為一応復習致しますと、ヨーロッパ・アメリカに発達した近代文明、近代文化が、東洋にも影響して、日本もこれを追及した結果、文明生活、都市生活というものが急速に発達いたしました。

近代文明、近代文化の発達原理を考えてみますと、丁度木の成長と同じことでありまして、根から幹が出て、大枝、小枝に分かれ、花や実がなるという風にして発達してゆく。そこで彼らはこれをprinciple of

differentiation ―分派活動と説明しております。

18日 医学 医学・医術に例をとりますと、昔はせいぜい全身を内科、外科という程度にとりまとめて研究しておったのでありますが、近代になると、その内科、外科の中に夫々、消化器、呼吸器、神経系という具合に色々部門ができて、段々専門家され、その上機械が非常には発達しました。 これを最もよく象徴するのがコンピューターでありまして、これによって何でも解決がつくという風になって来ておるのであります。そこで病院にまいりますと、やれ血圧がどうの、尿がどうのと、先づ色々データーを仔細に検出して、それを集めて始めて主治医が総合的に診断を下すという具合であります。
19日 分派の弊害 処が、余り部分に走ると全体が分からなくなります。
色々データーを調べておるうちに、主治医の所にそのデーターが届く頃には、患者の病状がすっかり変ってしまっておる。病原、病状は分かったが患者が死んだというのでは何にもなりません。
医学・医療の面から申しましても、そういう反省をしなければならぬ問題が行ってきておるわけであります。その点、昔の名医は、病人を診て、これしいかん、これは心配ない、という風に豊かな経験による直感的診断というものがよく出来ました。 
20日 浅田宗伯のこと 明治天皇の侍医をしておられた広田という名高い医者の述懐談でありますが、同じく侍医に浅田宗伯という名医がおって 夜交替されるのだそうです。或る時、浅田さんは、念の為に陛下に明朝差し上げる薬の処方をお渡しすると言って帰ってゆかれた。
21日 東洋的予見 そこで、広田氏が替わって陛下を診察されたが、別にどこと云って異常がおありでない。処が明朝のお薬だといって処方された浅田氏の薬には解熱剤が入っておるので不思議に思い、翌朝、早速診察された処が、陛下は微熱を発せられていたので愕然としたとのことであ ります。
広田氏によりますと、「自分は西洋医であるから、御診察申しあげていて、そういうことが分からなかったのだが、浅田氏はちゃんと翌朝の微熱を予見しておられた。これは非常に勉強になった」と述懐されたそうでありますが、洵に意味のある言葉であります。
 
22日 人間の全機性 人間の全機性―全体的機能というものは大いに微妙なものでありまして、例えば西陣織の或る熟練した染色の女工は、色を二万と通り見分けたという記録があります。 また、フランスに於いは、コティの香水工場で最高の待遇を受けておった技術者は、闇の中で花の香りを七千通り嗅ぎ分けたということでありまして、いかに色とか香とかいうものが微妙なものであるかということが分かります。
23日 専門的愚昧(ぐまい) 処が、そういう人間の統一的、全体的感覚というものが、分化、末梢的、専門化してゆく中で生活しておりますと、段々麻痺して来る、全体性というものがわからなくなってゆく。 そこで西洋文明では、専門的愚昧という言葉が生れました。専門家というものは、自分の専門の事には精通するが、専門外のことは案外わからないものであります。従って専門家は、専門―分化すると同時に、全体性―統一に応じなければなりません。
24日 公害問題の本質 再び話を公害問題にもどしまして、公害というものが、余り専門的、論理的、技術的に片寄ってしまった結果、一般に全然意識されないでおった弱点、弊害が俄然暴露しました。そこで、これを防ぐには、学問的にも仕事の上に於いても、すべてに総がかりでないと防げません。 今日のようのような分裂、対立、闘争の社会では防げません。このままでは、文明は、人類は、否地球そのものが破滅するかもしれない。そこで日本沈没等ということが喧しく言われるようになってきたわけでありまして、それがあらゆる面で問題となつております。 
25日 不仁術に堕した医療・医術 例えば先程申しあげた医学・医療にしても、保険制度が発達普及した結果、組織的、政策的に好いようでありますけれども、これを全体的に申しますと、「仁術」でなければならない医が「不仁 術」になってしまいました。仁術というのは無料で診るというのではありません。仁という字は生命を助長するという文字であって、果物でいうと核の中の本当の生命源がこの仁です。
26日

医の根本義

つまりもの生み育ててゆくのが仁でありますから、「医は仁術である」という言葉は、謝礼を貰おうとか、貰わぬとかいう問題ではなくて患者を生かしてやる術ということがその根本義であります。「今とどき医は仁術というのは以ての外」と言われるかも知れません

が、仁の字を理解すれば成る程ということが分かりましょう。いくら保険制度によって無料で診察しても、患者を粗末に扱ったり、その結果殺してしまったというのでは、不仁術も甚だしいと言わなければなりません。この様な医療制度、医薬制度についてはよく考えなければなりません。

教育の荒廃
27日 給食の本質 また昨今の小学校給食について考えてみます。大変設備もよくなり、お母さん方には弁当を作る手間がはぶけて、一般には評判がよいようであります。然し、給食制度というものは、多くの児童に 一律に同じ物を与えるわけで、そこに個々の児童に対する母親の微妙な配慮というものが無い。そこで統計を見ましても、児童の味覚が次第に麻痺しつつある。つまり味の分からぬ子供が増えつつあるということであります。
28日 戦後教育の欠陥 これは重大な問題でありますが、ひとり給食だけの問題ではありません。今日のような学校教育、学校学問をやっておると、機械のような人間になってしまいそうです。理屈や議論は上手であるが、人間が全く分からない。人間的には出来てい ないものに育ってゆきます。大学は今や断片的知識、概念的・論理的知識の単なる伝達所のようになって、本当の学問・教育の意義を喪失してしまっております。現在のような大学教育ならば、テレビやラジオでも十分できるということであります。
29日 破滅にむかいつつある

こういうことをおしひろげてゆきますと、この人間世界、文明世界というものは次第に混乱・破滅に向ってゆきましょう。今や余りにも発達した

結果、近代文明は破滅に瀕しておるということは厳然たる事実であります。これをどう是正するかということが専門家の頭痛の種であります。
30日 シングュラーポイント

かってsingular point−特異点ということをお話したことがありますが、これは物理学上の専門用語で、或る現象というものは、初めのうちはよく分からないが、或る点に達すると

急激に目立って来る。
これが特異点というもので、それから後は急速度で進展します。ガンと気がついた時は、既に特異点に達しておるので、それから後は急速に悪化してゆきます。
31日 近代文明死活問題

そのガンが最も早く発見出来ないものかと申しますと、それは可能であります。処がまだ早い時点では、病人がそれを意識するような痛み等の感覚がないものですから、医者が率直にガンだというと、殆どの患者は、ガンでないものを癌だと言ったと反感を持つ。

そしてガンでないと言ってくれる医者を無意識に探して「俺は癌ではない」と自ら慰め、安心しておるうちにシングュラーポイントを迎えて、始めて「そうだったのか」とがっかりした時には、もう死期が迫っておるということになる。近代文明が丁度それと同じで、今や人類・死活の問題であります。