安岡正篤先 「経世と人間学」 その八                

平成21年8月   

 1日 本当の金は これは最も常識的な質問であります。
そして世の中の大部分の人は徳だの才だのと言っても、金がないとどうにもならぬと考えておるでしょう。翁は笑いながら「一日片時も金がないとどうにもなら
ぬが、君はその金がどうしてできると思うか。徳がもとで生まれた真理にかなって出来た金でなくては、本当の金とは言えない。本当の金は徳の中からできるのだよ」、とおっしゃったのは自分が仙台に遊学していた十五年前の話である。
 2日 金は徳ありてこそ この問題は深く追求するまでもなく、少し常識的に考えてもわかることですが、今日の世相を見ましても、金がなければ何も出来ない。と言っても幾ら銀行を訪ね廻っても、借金しようとしても、金ができるものではありません。 やはりその人の人物、即ち徳がものを言います。「あの人になら貸してやろうか」とか、或は、その人を愛する人や、信ずる人が中に立ってくれて、銀行の責任者から「あなたがそれほど信用しておられる人なら、何とかしましょう」というふうになるので、つまりは徳の問題です。
 3日 日露戦争の時

国家も同様であって、世界的に信用を受け、尊敬されていると、財は幾らでも運用できます。

日露戦争のときなどは、日本が持っていた国際的な輿望が、イギリスからもアメリカからも援助となって日本の運命を決定的に強くしました。
 4日 財の文字 この「財」の字は大変面白い字で、貝偏に才を書きます。貝は昔、貨幣であったことは申すまでもありません。その貝が現在、金に変わっておるわけですが、また(つくり)の才の字は働きをあらわす文字、つまり貝が通貨としての働きを示す文字で、能力という字にも使い ますし、或はわずか(○○○)にと読んで、僅少を示す意味もあります。
そこで、この財というものは非常に大切なもの、有効なものに相違ありませんが、人間に決定的な力を与えるものではなく、手段方便的なものに過ぎません。これは文字学から見た大変面白い一例であって、やはり財は末であります。
 5日 ただ国の傾くをまつのみ 「このことばにより、又古人のをしへにもとづき、こころみに論ぜん。そも国の極めて窮乏し(はべ)るは、太平(たいへい)()に浴し、身に自由足り、上と下との間は秦楚(しんそ)の遠きを隔て、位にあるものは、おのおのその位を固むるにのみ心をよせ、古例旧格(これいきゅうかく)の外に遊ぶことをしらざるよりしていで()にけん。其古例旧格と唱ふるものも、多くは先僚の仕来り仕くせなるを知り侍らず。

政事てふものは日記計簿をくりかへし、瑣末(さまつ)の事をなるのならぬとをしひき政教一致などといふことは夢にも知らざるゆえ、下より訴ふることか、又なにか所作のなければ、あつささむさのあいさつまでに、退食するのみ。かくして年を経るにしたがひ、かたちのみになりゆき、直言をもて粗暴と呼び、諂諛(てんゆ)をもて礼容となし、鈍才にして俊才を危ふみ、席上のとりまわしなどよろしき人のみ、世にときめきては、ただ国の傾くをまつのみ」。 

 6日 原文に返って読んでいきます。 一体、国が貧乏でどうにもならぬというのは何が原因でしょうか。世の中がよく治まり、別に上にすがる必要がなく、自分のことが足ると、好い気になって、上下の隔たりというものは、北の秦の国と、南の楚の国との様に一向に連絡・親密がなくなり上は上、下は下、お互いに自分のことだけを考えて意思の疎通に欠けるようになります。 また位にある者は、各自その位のことだけを固く守って、昔からの旧い規則やしきたりから、一歩抜き出て、自由に勉強するということをやりません。従って、創造的なことは何もしませんから、次第に国が貧しくなるのではないでしょうか。旧いしきたりや規則と言っても、これは先輩がやってきた因襲・習慣、或は癖が固定したものであって、何も絶対的な真理法則でないということが分かりません。
 7日 怠惰な勤務と国の危うさ

そこで日記や帳簿の記録を毎日機械的に繰り返し、枝葉末節のことを善いとか悪いとか議論して下の者からの訴えごとや事件がないと、ただ時候の挨拶ぐらいだけで退出するという生活のくりかえしになってしまいます。そうなりますと、

勇敢に正論を述べる者があると、あいつは粗暴な人間だと嫌い、またおべっかを言って媚び諂う者があると、礼儀をわきまえた人間だなと喜んだりして、自分は鈍才であるのに、頭のよい人を危険に思い、宴席などをうまく取り回すような人間が出世する。そうなると自然に国は危なくなるのであります。
 8日 人を撰ぶ

「古より国家再興の基本を建つるに、其人を撰ばざるなし。その人を得たらんには、おもひの外にたやすきことも(はべ)らん。只その国の老人たらん人々の、われならではと思う心の、胸中に少しも蓄えたらんには、おのがものずきの心にかなひたらん

人のみを、ひたもの尋ね求むるゆえ、其人はあるも、すくなかるべし。またこの心もて人にいはしめ、おのが心にかなふことのみを採り用ふるとならば、いはしめずして、手かずすくなきのまされるにはしかじ。これを古人は胸中(きょうちゅう)有物(ゆうぶつ)といへり」。
 9日 偽政 昔から、国家再興の基本を建てる時には、必ず人材を択んだものです。人材を得ますと、難しい問題でも思いのほかに容易く解決することもあります。ただその国の長老たちが、「おれでなければ出来ない」、と思う心が少しでも胸中にあって、自分の気に入る者だけ集めようとすると、人材があっても目にうつらないでしょう。

またその気持ちをもって人に議論させた上、自分に気に入ることだけを採用するのであれば、わざわざ会議にかけるというような、余計な手数を少なくした方がよろしい。これを古人は胸中有物と言っております。この頃の政治を見ておりますと、かたちだけの議会政治となって、ロクな議論もしないことが多く、議会制度の弱点を暴露しております。胸中有物とは偽政であります。 

10日 人材はいつの世にもある 「天地の間、から国はから国を養ふの食料があり。日の本は日の本を養ふだけの食料あり。国家を治むるも同じことわりなり。天下を治むるは天下を治め、一国一城は一国一城を治むるの人かならずあるものなり。古のみ人材ありて、今世にはなからんや。古は古を治むる人材あり。今は今を治むるだけの人材あり。ただわがもの数寄(ずき)のこころにかなひたらん人を求

めずして今を昔にひきのぼせ、わが身を其の地にすえをきてみよ。
人材なしとて亡ぶる天下を、人材ありとてとり侍るぞかし。今の天地も古の天地なり。まして、わが日の本はちはやふる神の御末の、うからやからにしあれば、かりそめにも人なしと世をしふるほどならば、天地の冥罰(みょうばつ)いちじるしく(はべ)れ。わがふところをむなしうし人材を求め得て再興をはかりたらんには、三とせ五とせにして、なかば成就し侍らん」。
 

11日 口語訳

中国には中国の食料があり、日本には日本の食糧があります。国家を治めるのも同様で、天下を治める人、一国一城を治める人は必ずあります。どんなところにも人物はおるもので、昔も今も変わりません。

ただ用いるか、用いないかの問題であります。自分の気にいる人間だけを探すことを止め、昔、名君賢相が立派にやったその立場にわが身を置いて見ると、人材がないため亡びるかも知れぬと心配した天下でも、人材の発見と抜擢登用によって立派に治めることができましょう。
12日

現代も昔も天地には変りありません。ましてこの日本は神の子孫の国であります。かりそめにも人物がないというのは真実を偽るものである

から神仏の罰がきびしいでしょう。自分が本当に公平になって人材の発見につとめ、これを登用すれば三年か五年のうちに半ば成功するでしょう。
13日 人生の意外性

これは大見識だと思います。人材というものは、えてして思いがけないところにおるものであります。私達の病気の様なものもそうであって、健康を害して薬を飲んでも、どんな医者にかかっても、一向によくならず、困っている時に、思わぬ良薬、思わぬ名医にあって功を奏することがあります。これは病気ばかりではありません。

事業もそうであります。経営の相談に、取引銀行の重役を始めその道のエキスパートの所を回っても、どうにもならない時に、意外な相談相手や、役に立つ人から智恵を授けられたり、救いを得ることがよくあるものですが、そのようなことは結局その人間の平素の心がけ、人とのつき合いと言ったことが功を奏するのであります。或は徳とか、因縁という言葉で表現すべきでありましょう。これが人生の面白いところであってまた大変複雑なものであります。 

14日 原文1 「さればくづるる家居(かきょ)を造り直すにたとへん。造り直すには先ずその家ことごとく取り崩し地盤をかたむるにあり。地盤堅固ならば、少し悪しき材木もみな用ふるに足れり。 ただ姿こそよけれ、髄に虫喰み、朽ちのいりたるは、新しきにかへ、これはかしこの柱に用ひ、かれはここの垂木に用ひんとえらみいだし、さて柱になすべき木を棟木に用ひ、縁板なるべきを床板になしたらんには、労して其功なかるべし」。
15日 原文2 「たとひすがたこそねじけてあれ、素性(すじょう)さへよき木であれば、床のおとしがけなどに用ひんには、また一しほのながめもあるべし。されば古より人心不同如其面(じんしんはそのめんのごとくおなじからず)といひ伝ふる如く、板かまち、しき居、鴨居(かもい)と、ひとしからざる木のくさぐさをかき集めくまなく見くばる心のか ね合ひ、いともむつかしくぞ侍る。人材は材木なり。金穀は屋根壁にひとしく、仁道は地盤なり。仁道にあらざれば基本を立つること能はず。わがあづかるだけの人民土地を金庫宝蔵とさだめ、財散じて民あつまるの仁道を施すべし。仁道とて外に奇しきの道あるにあらず。老を養ひ、幼を(いつくし)み、(かん)()孤独(こどく)を憐み、窮乏を富ますの道なり」。
16日 解説 1 そこで旧くなつた家の作り直しを考えてみましょう。家を作り直すには、旧くなつた家をすっかり取り払って、その上に地盤つまり基礎づくりをしなければなりません。地盤がしっかりしておれば、少し位のよしあしは問題ではない。

見かけが良くても、髄に虫食いがあり腐っておるのは新しい材木ととりかえるが宜しい。こんな木に苦労して、ここの柱に使おうとか、垂木にしようとか、或は縁板にしても、髄に虫入りがあれば材木としての価値はありません。 

17日 人材とは

それより、例え姿が悪くても、素性さえよければ床の間の横木に使うのも面白いでしょう。昔から「人の心はその顔のように万人が万人とも違っておる」と言われる通り、かまち、敷居、鴨居などを多くの材木の中から選

びだすことは大変難しい。
人材とはこの材木に等しく、金穀は屋根や壁にひとしく、仁道は地盤であります。自分が一国の主、あるいは一城の主として扱っている人民と土地を財宝宝庫として、財を散じて民が集る仁道を施すが宜しい。
18日 仁道

仁道とは決して特別の道と方法があるのではありません。
年よりを敬い、幼い者達を可愛がり、独り者の老人等を憐れむと、自然に財政が

豊かになります。
これが仁道であります。医は仁術なりという言葉を誤解しているむきがあり、特に医者にその傾向が多いようです。
19日

仁というのは人の生命・人物を育てあげる働きを言います。そこで医は仁術なりということは、医者は病人を病気から救って健康にしてやる

術を施す人であるということであります。診療代をとるとか、とらぬとかの問題ではありません。いくら無料で診察・投薬しても患者を殺しては何にもなりません。
20日 順逆(じゅんぎゃく)の二つ

「さて手を下すときに順逆(じゅんぎゃく)の二つあり。地に東西南北の(こと)なるあり。其の風俗模様を見定め、先後(せんご)緩急の活術(かつじゅつ)を胸中に秘め置き、(しょう)を積みても遠大の(ぎょう)を為し得るにあり。文武二道(ぶんぶにどう)はかれこれにかかはらず。

はじめより励ましぬるは、若きともがらの、旧来の風習に(しそ)みにし心も、いつしか正路(せいろ)に向ひ、(まつつりごと)のととのふ時には、はたとせのものは三十(みそ)じ、三十(みそ)じのものは四十(よそ)じになるまま、守成(しゅせい)の業をつぎつべき人はいやが上にもいで()(はべ)りて、事をはじむる今日にまさりぬらんこと、なに疑はんや。
21日 我国の一大文章 十年といへば長きやうなれど過隙(かげき)の光陰指折り(はべ)るべし。家造りするのはじめ、寸大(すんだい)の苗木を植えつけをかんには、再修のころほひには千尺の良材をもうるが如くになん。ただ文弱(ぶんじゃく)の世にあたるのみならず。我国はから国とたがひ、草昧(そうまい)のむかしすさのをの(みこと) (しも)つ国しろしめされしはじめ、十握(とつか)神剣(しんけん)もて()またの(をろち)を征せられしより、世世のすめら()ことの武をもて建て玉ふまつりごとにしあれば、二道(にどう)緩急時機に応ずるはもとよりなれど、武を以て骨とし、文を肺腑(はいふ)と定めをきて、その用にのぞみて、主となし客となし、世をすくふの運用こそ我国の一大文章ならめ」。
22日 解説  さて、その仁道にもとづいて手を下すときに、順手と逆手の二つがあり、土地に東西南北の相違があるので、よくその風俗模様を承知して、どれを先にどれを後にするか、またどっちをゆつくり、どっちを早くするか、という活術を深く胸に秘しても小さなこと

でもいとわず積みあげていくと、大きな事業を成功させることができます。これは非常に大事なことであります。例えば、信賞必罰という言葉があります。これは政治に欠くことのできない根本条件の一つですが、この賞罰を活術としてみると、なかなか難しい問題であります。

23日

賞と罰のどちらを先に行うか、これが先後緩急ですが、一例を申しますと、先ず賞すべき者を先に賞して、そして罰すべきを罰するというやり方があります。

又、これと逆に、先に罰して衆の心をぴりっとさせておいて、あとで賞をやるという方法もある。さらに、これを具体的に申し述べますと、

腕力が強く、その上暴力団のようなものに加盟している男が威張って有能な人間、立派な人間が怏々としておるときに、その有能な人物をほめてこれを用いると、大変副作用が多く、このやっかい者がどんな妨害をするかも知れない。そこで先にその元凶である暴力団を厳罰に処する。そうすると、みんなが「痛快だな--」と喜ぶ。然し、まだそれだけでは十分でありません。
24日

そこで思い切って今でも埋もれていた人物を抜擢登用しますと、もう勝負ありということであります。これが先後緩急ということでありますが大変難しいことです。文武の道は、その修行の始めからよく激励してやると、旧い誤った習慣にな

れて間違っていた青年達が、いつの間にか正道にむかうようになり、政治が軌道にのると、二十才の者が三十才になり、三十才であった者が四十才になった時に、守成という大事な仕事を継承する人が沢山出きて、色々なことを始めても成功疑いありません。
25日

十年といえば長いようですが光が隙間を通るほどの僅かの時間ですから、案外早くこれを期待することができましょう。僅かの間と言えば

家を造る時に、その用材として一寸ばかりの苗木を植えておくと、実際に家がいたんで造り替えなければならぬ頃になると大木に成長した役に立ちましょう。
26日

これも長いようで案外短い期間というましょう。我が国は中国などと違って昔、スサノオノミコトが八またの蛇を退治されてから、歴代の天皇が武をもって政治の中心とされた国で

あるから、現在は文弱(ぶんじゃく)の時代であるけれども、武を先にして文をあとにし、そして時には臨機応変にやると宜しい。文武の運によって世を救うことが我が国特有の一大文章であります。
27日 悪への対処その一 武について説明しますと、例えば、悪を対象とした場合、これに処するに五つの方法がああります。 先ず第一が、泣き寝入り型とでも言いますか、強い者には負け、長いものには巻かれて、泣き寝入りするという一番多い生活態度であるが、これは話になりません。
28日 悪への対処その二 第二が、かなわないと思っても必ず一矢をむくいる、殴られたら殴り返す、蹴られたら蹴り返すという復習的態度。 これは第一の型にくらべると少々元気があるが、粗野で低級であります。
29日 悪への対処その三 そこで、第三に、昔から偉大な聖人・達人が到達したような、一切を超越し、勝負あるいは恩讐というような立場を超え て、すべて慈愛の目で物を見るという宗教的な型ですが、これは凡人の及ぶところではありません。剣で言うなら宮本武蔵の型でありましょう。
30日 悪への対処その四 第四に、意気地のない、蹴られても、蹴られても蹴り返すこともできない、殴り返すこともできないような人間が、それでも負け惜しみと、人前というものがあるため、自分の弱い意気地のない境地 をカモフラージュして、「俺が弱いのではない、相手を哀れんでうるのだ。目には目、歯には歯をもって報いることはいやしい。俺は神の如く弱いのだ」などと言ってごまかす。これを偽善的態度といって最も卑しむべき型です。
31日 悪への対処その五 第五に、道を重んずる故に暴虐の横行を許さない。腕にかけてもそれを禁止し、人間を侵略・暴虐から解放する。 これが最も権威あることは申すまでもありません。この五つが悪に対する人間の態度であります。