日本古代史の謎 縄文文化の多様性と豊かさ

平成24年8月
かって水稲耕作以前の縄文時代は、それが狩猟採集の時代であっとたという理由だけで、何かしら未開であるとか原始的であるというように思われていました。然し、縄文時代の遺跡・遺物が次々と発見されるにつれ、かなり文化的に進んだ時代だったのではないかと言われるようになってきています。

その宗教的文化を見ても、石棒や土偶、土版というような多様な信仰形態が見られるばかりでなく、埋葬形式においても、小型の前方後円墳を作れるほどの労力を投入したと見られる環状石籬(いしまがき)と言われるものが北海道にあったり、秋田では環状列石などが発見されており、今まで縄文時代し単に共同墓地の時代であると見られていたのが、意外に多様で豊かな埋葬文化を持っていたことも明らかになりつつあります。

また、縄文時代し石器を使用した時代であるというだけで、野蛮なイメージで見られていたのですが、例えば黒曜石などを石器にするには高い技術が求められるのであり、単に石器を使用していたというだけで野蛮というような評価は下せなくなっています。

さらに日本の黒曜石が遥か沿海州まで多量に運ばれているのを見れば、相当に舟による交通を発達させていた事も窺えます。また、技術文化という点では、現時点でアジアで一番古い漆の器が出土したり、魚を取る網はもちろん、かなりに優秀な技術で編まれた編布なども見つかっているのです。

住居では竪穴式住居が良く知られ、これも従来は、“原始的”と見られていましたが、それは寒さや風をしのぐために合理的な構造を持ったものであって原始的という評価は不適切と言わざるを得ません。また、竪穴式住居だけでなく、太い柱が何本も使われたたて鋳物らしきものの跡も発見されており、これまでの縄文時代像というものは、あらゆる面から見直しを迫られています。 

註 環状石籬(いしまがき)

  高さ1米前後の大自然石を環状にめぐらし、中央にも数個の石を直立させて配置した遺構。北海道忍路・福岡県立岩遺跡でも発見され、後者にはその内域に甕棺が埋納されていた。特殊な墓葬とみられるが類例は少ない。

  環状列石

  北海道から東北地方に分布する石造遺構の総称で、現在ストーン・サークルの訳語として使われている。形式や内容にも変化が多く一様でない。大部分は縄文後期に属し、墓葬形式の一種と推定される。秋田県大湯町・北海道音江などに好例がある。

  黒曜石

  火成岩。黒色透明。北海道姫島・隠岐・信濃和田峠・伊豆天城山・北海道十勝岳に産出。緻密な玻璃質で割れると貝がら状の断面が残るので、無土器時代から縄文時代まで石器として好んで用いられた。

  沿海州

  シベリアの南東端、黒竜江(アムール川)・ウスリー川・日本海に囲まれた地方。

  編物

  材料が有機質のために残存しにくいが、起源は旧石器時代にさかのぼる。土器の底部に  残された圧痕を見ることができる。ほかに青森県是川泥炭遺跡から竹・葦などを材料と  した、かご・網代の敷物などか発見された。 

縄文時代から弥生時代へ

縄文農耕論の展開

今日、縄文時代に農耕が開始されていたということが論題になり、縄文農耕の起源を中期、もしくはそれ以前にまで逆上らせようとする説さえ出されています。

また、これを(どう)(こう)と言わず、縄文の農耕文化とする研究まで発展してきています。そして特に弥生時代から始まるという水稲耕作に関し、水稲の起源が既に縄文後期の段階にあるという「縄文水稲農耕論」が次第に多くの考古学者によって支持されるというようになっています。

私は、まだ縄文時代の後期・末期における水稲耕作の展開を立証するに足りる十分な資料は得られていないとみて、その下地としての(どう)(こう)段階を考えておくことが必要だと思っています。 

集団の変容

縄文時代の社会は最初は漁撈、狩猟と若干の採集とを生活の基盤としており、その時期は家父長権が強大であったと見られます。処が、(どう)(こう)文化の受容によって、それが母権制の社会へと転換していくという見方が支持されるようになってきました。

社会進化論的には、最初の社会は母系社会であると長い間言われてきていたのですが、それを立証する民族資料も余り発見されていません。寧ろ家父長制の時代が家母長制の時代の時代に先行するという見方が近年強まっており、考古学的には縄文の社会も家父長制の時代から家母長制の時代へ、父権社会から母権社会へという変化で捉えた方がよいと言われるのです。 

縄文時代の集落と弥生時代のクニ

これまでの処、紀元前第二世紀には日本列島、特に西日本に水稲技術が受け入れられたという見方が定着しています。紀元前第二世紀が縄文時代とそれに続く弥生時代前期の区切りというわけです。そして、最初の水稲社会は、凡そ200年前の間に階級社会を出現

させ、地域的な農業共同体が狭小な水田低湿地帯に分立して、小さな「クニ」と呼ばれるものが多数存在したと考えられます。

このクニと縄文時代の集落との関係ですが、まず、縄文時代の集落から漸次、弥生時代の集落へと変化し、それがクニと呼べるような形態になった、というのが典型的なパターンであると考えます。従って、弥生時代初期の集落と縄文時代後期の集落を水稲栽培の有無以外で明確に区別することは困難と見た方がよいでしょう。然し、全体的には、水稲栽培を受け入れた集落が、次第に縄文時代の集落社会から変化してクニを発展させ、そのクニの形態が縄文の集落社会を駆逐する傾向にあったと云えます・変化は九州、本州島西半分の常緑広葉樹林地帯を中心にして起り、落葉広葉樹林地帯の本州東半はかなり後まで縄文の集落社会の伝統を残したと見られます。

こうした変化が起こる下地には、(どう)(こう)文化の発達によって水稲耕作への準備ができていたこと、また水稲耕作に適合し易い母権社会があったこと、そして何よりも、西日本に住む人々にとっては縄文的な狩猟・採集生活よりも水稲耕作による生活の方がより安定した食糧確保ができるという事情があったわけです。言い換えれば縄文時代の貧しい地域の人々が水稲耕作を受け入れ、クニを発展させたという見方もできます。それでは、水稲耕作を契機に発展したクニの特徴はどのようなものでしょうか。農耕、特に水稲耕作には共同作業、例えば灌漑用水などの共同管理の必要が出てくるので、共同体が発達し、その農耕生産を守るための呪術的な祭儀、例えば雨乞いなどが行われ、そこに一つの共同体的規制が発生したと見られます。簡単に言えば、そうした共同体こそが「クニ」です。そして、組織化、分業化、階級化が進んだ結果として、クニの中枢には司祭的な王がシャーマン的な力を持った権力者・首長として位置したと考えられるのです。

さらに地域的な小首長国(クニ)の中から、若干自然環境に恵まれていたクニが生産力を高め、その勢力がクニの境域を越えて拡大していくと、一小首長国の権力者が他の首長達を押さえ、首長国連合という形態へと変化していきます。こうして、地域的な小勢力が次第に地域ごとに結集されていったと考えられ、この統一運動というべくものが弥生時代を決定づける基本因になります。逆に言えば、統一運動の基本単位となったものがクニであり、そうした意味でのクニは縄文時代には見られなかったものです。  

註 竪穴式住居

  地面に所要の範囲を掘り込んで床面を作り、上部

  に屋根をかけた家屋の構造を竪穴式住居と呼ぶ。

  住居跡の平面形は経数メートルの円形なしい方 

  形で、壁際には溝がめぐり、数個の柱穴と貯蔵穴、 

  炉あるいは(かまど)が備わっているのが普通。  

縄文と弥生の遺跡と相違

集落の形態において、縄文時代と弥生時代を画するものに、高地性集落があります。弥生前期の集落は、低視湿地帯の自然堤防の上にあるのが普通ですが、中期の後半になると、特に九州から瀬戸内海沿岸、大阪湾頭にいたる地域に山の上の集落が現れるのです。

それら高地性集落は農耕生産とは関係ない地域にあり、日常生活には極めて不利な位置にあります。縄文や弥生前期の集落は、日常生活に便利な場所にあるのですから、こうした高地性集落は全く異質です。この高地性集落は、非日常的に目的、例えば何らかの異変に備えて作られたのではないかと考えられています。

また弥生時代の遺跡、或は古墳から出土する人骨と縄文時代の人骨との間には、明らかな相違が指摘できます。弥生時代の人骨の中には、石鏃や銅鏃が突き刺さった状態のものが非常に多く出土します。また、首を切り落とした人骨も出てきます。そのほか槍が突き刺さり、或は骨を断ち切られた人骨が多く出てきます。それに比べると縄文時代の人骨は、おしなべてきれいな状態で出土しています。

こうして縄文と弥生の集落・人骨を比べてみただけでも、両時代は水稲耕作の有無の違いだけでなく、社会そのものが異質であったと想像できます。

弥生時代のことは、次の講義に譲るとして、少なくとも縄文時代の社会は貧しくもなく、素朴で豊かな文化をはぐくんでいたのだと私は思います。 

註 高地性集落

  水稲可耕地から隔絶した丘陵や山頂にある遺跡。弥生中期?後期に瀬戸内海沿岸と畿内で主に見られる。弥生時代の遺跡としては特異であり、軍事的・防塞的集落、畑作集落、農耕社会から疎外された集団の集落などの説がある。 

  石鏃

  弓の矢じりとして用いられた石器。打製と磨製があり、縄文時代には打製に限られるが、弥生時代には磨製石器もある。形態は、無柄の三角形のもの、ひし形のもの、有柄のものなどがある。  

  鏃

矢尻とも書く。物を通貫する為に矢柄に取り付けるやの先端部分。矢柄に突き刺すための突起部分のある有茎のものと、これのない無茎のものがある。 

  銅鏃

青銅製の鏃。石鏃と鉄鏃の中間期に世界的に使用。日本では、弥生-古墳時代に鋳造され、有茎・無茎があり、三角系・木葉形など独自の形をとる。