出雲文化の謎解き

平成25年8月

1日 出雲の弥生文化と国家形成 弥生時代は、凡そ西暦前第二世紀から後第三世紀にいたる期間、およそ500年間に該当させるのが一般的な編年です。そうすると、弥生時代は中国史料から見ると、漢代の倭国、後漢代の倭奴国、そして「三国志」の魏の時代に於ける女王国の時代に相当します。
2日 これら中国史料に見える倭人の国々は、弥生文化の発祥の地とみられる北九州に存在し、中国の植民地であった北朝鮮の楽浪郡、後には帯方郡と通交し、遠く中国本土とも往還して朝貢貿易を行っていました。對馬海峡や黄海を自在に航行して通商を結んでいたこれら倭人の国が、古代航行者の力に依存し、或はそれらの中には倭奴国のように彼らの経済力によって国を造ったみのがあった事は、既にお話しした通りです。
3日 古代航行者の文化 私は出雲へ弥生文化を齎したものはこうした古代航行者たちであったと考えます。北九州の弥生文化を直接受容した島根半島沿岸の出雲人とはその文化をいささか異にしました。そして、古代航行者の文化を受容した水人部の人々の文化が、やや後に海岸から次第に内陸へと河川に沿って拡大していったと言うのが弥生前期の出雲の社会情勢であったと考えられます。
4日 また、北九州で中国史料に見えるような原始国家が成立していたとすると、弥生前期に北九州よりおお遅れて、その文化を受容した出雲においても同じような原始国家が形成され始めていたと解釈してもおかしくありません。
5日 北九州勢力圏から大和勢力圏へ 北九州では、弥生中期の初めには、倭奴国が30ほどの小国家群の代表者として後漢に朝貢してその印綬を受け、さらにそうした原始国家群間で弥生中期の終りに戦乱が起り、統一のための戦闘が長期に亘って続いているという状態でした。こうした北九州の倭国の争乱は、前期にもみられたような日本海を通って北九州と出雲の交流を担った古代航海者の活発な通商活動を制限したはずです。
6日 考古学的事実 そのことは、前期において北九州と密接な関係にあった出雲が、中期の後半以降において、北九州よりむしろ山陽瀬戸内の新しい文化を受容しているという考古学的事実に反映されているとみてよいでしょう。また、そうした考古学的事実は、大和の勢力が次第に台頭してきて、やがて北九州の勢力圏であった山陽・山陰の地域を北九州から分離させて自己の勢力圏に引き込んでしまうという政治的な動向も示唆していると考えられます。
7日 そう見てくると、出雲における弥生文化の展開は、出雲の政治・社会の動静を示すと同時に他地域の動向を如実に反映していると言えます。そして、そうした複雑な出雲古代史を理解する為の基本として、私は弥生文化が展開されたたのが島根半島の地域であるということに着目して、その新しい文化要素を取り入れた水人部とその文化を重視することが何よりも大切であると考えます。 
註 黄海
中国揚子江の河口以北、遼東・山東両半島と朝鮮半島とに挟まれた海洋。
崇神天皇は初代天皇か 崇神天皇は初代天皇か
8日 原大和国家の歴史
原大和国家の登場
前講までで見てきた吉備国と出雲国の歴史、その歴史を見ますと、両国とも弥生時代後半から古墳時代初頭にかけて大和勢力の侵入を受けたことが確実です。そこには、地域ブロック国家として成長していた吉備や出雲の国々を西進してきた原大和国家が次第に統合、吸収していったという日本古代史の大きな流れがみられるわけです。
9日 そうした流れは、これまで述べてきた吉備や出雲の考古学的事実、そして「記紀」などの文献的史料によって立証できたと思います。
10日 中国の史料に現れた九州の倭国、(わの)(なの)国、邪馬台国、そして女王国連合や()()(こく)、それらの国々の歴史にみられる原始国家群の地方的統一運動とでも言うべきものは、ほぼ時を同じくして本州島西半分でも起こっていたわけです。
11日 そして、そうしたより高次の地方的統一国家として原大和国家や吉備国や出雲国が成長したわけですが、最終的にはその中から原大和国家が勝ち残って本州島西半分を掌握するようになったのです。
12日 そうであれば、そのような本州島西半分を統一した原大和国家とは、どのような国家だったのでしょうか。いままで、吉備国、出雲国の歴史から間接的に、いわば周りから原大和国家の存在とその勢力拡大を眺めてきたわけですが、今度は正面から原大和国家そのものの歴史をとりあげてみましょう。
13日 原大和国家の史実を正面 原大和国家については、既に第二章までに於いても文献史料や考古学から見た古代史の全体像、「記紀」に現れる天皇の実在性、或は九州の古代国家群と弥生文化、というような視点から随所で述べてきたわけですが、ここでは原大和国家の史実を正面から取り上げます。言い換えれば、それは実在的な天皇たちを中心とする原大和国家から大和国家までの歴史を明らかにするということであり、私の唱える処の三王朝交替説を開陳するということにもなります。
14日 文献から解明しなければならない原大和国家の歴史 元大和国家が畿内大和地方の首長国連合ないしその地域の統一国家としてスタートしたことは、これまでに何度も述べてきました。それは「記紀」や考古学的事実から既に立証できていると思います。
15日 「記紀」に見られる神武天皇の大和平定物語や大和地方の弥生文化の遺跡、また他の地域との考古学的、史料学的な比較・対照研究によって、原大和国家の存在とその本州島西半分を統一するまでの発展は、基本的な流れとして間違いないことです。
16日 その事を前提に原大和国家ないし大和国家の歴史を掘り下げる場合、その勢力の主体を先ず明らかにすることが必須となります。誰が原大和国家を統率し、どのように国家の発展をなし遂げていったのか、そうした言はば権力主体の物語によって歴史は最も鮮明にできるわけです。
17日 文献史料で解明 そして、こうした権力主体である、原大和国家の政治の中心にあった人々を巡る歴史は、もはや考古学的手法では殆ど明らかにはできません。それは、文献史料を中心としてのみ明らかに出来ることだと言っても過言ではないでしょう。
18日 日本の古代史の場合、その文献史料は「記紀」のみです。中国の文献は九州の国については述べても本州島の国については語っていません。そうすると、私たちは「記紀」を頼りに、原大和国家から大和国家へ至る歴史を編むしかないわけです。 
19日 初代天皇は誰か 「記紀」によれれば、原大和国家の権力主体は言うまでも無く「天皇」です。天皇が実権を握っていたか、或はその他の氏族が実権を握っていたか、そうした問題は兎も角、天皇が原大和国家の政治の中心であったということは間違いのないことです。
20日 そして、「記紀」を鵜呑みにするならば、初代神武天皇によって原大和国家というより、初めから大和国家が成立し、そこから大和国家の歴史が始まり、その歴史は「記紀」に殆ど記されているということになります。
21日 然し、そうした古代史の構成が、全く事実に反することは今迄に述べてきた通りです。考古学的事実からも、文献研究からも、そうした歴史構成は認め難いのです。何よりも、第一章で述べた通り、神武天皇自体が架空の天皇であると見られるわけですから、神武天皇が大和国家を建国したと言う事を歴史的事実と認めることは出来ないのです
22日 そこで、私たちは、「記紀」を頼りにしながらも、「記紀」に批判を加え、原大和国家から大和国家へ至る歴史的事実を構築しなければなりません。その為には、まず「記紀」の中に、これまで述べてきたような古代史の基本的な流れと整合し、かつ文献解釈上も真の初代天皇を先ず探し出すことが必要と言わねばなりません。
23日 真のハツクニシラスミコト

二人の初代天皇
第一章で述べたように、「記紀」が初代天皇とする神武天皇の所伝は史実としては認めがたく、然も神武天皇はずっと後の時代に作り出された天皇であると見られます。そうなると、初代天皇とすべき天皇をほかに探さなければなりませんが、「記紀」はまるでそうした詮索を待っていたかのように、はっきりした手がかりを残しています。
24日 ハツクニシラスミコト その手がかりとは、「ハツクニシラスミコト」という言葉です。これは、初めて日本の国を統治した天皇、初代の天皇という意味です。そして、常識的に考えれば、万世一系の皇統とさされる天皇家に初代は一人しかいないはずです。
25日 鳥取市福部の
「田中さま」へ

二人のハツクニシラスミコト
処が、「記紀」には、神武天皇のほかに、今一人、「ハツクニシラスミコト」と称される天皇を記しているのです。初代の天皇が二人いるというのはおかしな事ですが、神武天皇に「始馭(ハツクニ)天下之(シラス)天皇(スメラミコト)(日本書紀)称号が奉られ、第十代()(じん)天皇(てんのう)にも、「御肇(はつくに)(しらす)天皇(すめらみこと)(日本書紀)、「所知初国之御真木天皇」(古事記)という称号が奉られています。
26日 こうなると、一体どちらの天皇が真の「ハツクニシラスミコト」であろうと言うことになります。 
27日 即ち、私は第十代に該当されている()(じん)天皇(てんのう)こそが、実は本当に実在した初代の天皇で、その天皇を中心として初めて原大和国家の存在を想定できるのではないかと考えるわけです。
28日 初代性の検証 そうすると、その初代性の検証という点からも、()(じん)天皇(てんのう)がどのような天皇であるのかという問題がクローズアップされてきます。
29日 次に、「古事記」「日本書紀」の伝承を通して初代の天皇と見られる()(じん)天皇(てんのう)に就いて検討してみましょう。  
30日と31日は休講、91日再開