39講 国家仏教と太子の理念

国家仏教と各々のおもわく

国家仏教と天皇権確立をめぐる対立構造

            

帰化系氏族である蘇我氏は崇仏派として仏教受容につとめ、それに対して旧氏族の物部氏が排仏派の立場から対立しました。そして、その対立が用明天皇の崩御後の皇位継承問題と絡んで遂には武力抗争へと発展し、その結果、蘇我氏の勝利によって我が国は崇仏一筋の道を歩み始めたのでした。

しかし、こうした仏教をめぐっての抗争は、信仰上の問題ではなく、実は政治上の問題として争われたのです。言い換えれば、蘇我・物部の抗争は信仰の違いをめぐってのいわゆる宗教戦争とは性格を異にし、新勢力と旧勢力の抗争、支配体制のあり方をめぐる対立・権力抗争、そうした政治的対立が本質にあり、崇仏か排仏かの対立は、その政治的対立における両勢力の大義名分上の対立にすぎなかったのです。

端的に言えば、蘇我氏は仏教を利用した支配体制を構築し、その上に自らの独裁政治を実現しようとする精力であり、物部氏は(くにつ)(がみ)の信仰を利用した旧体制を維持すねことで獲得した権力を維持しようとした勢力だということができます。

聖徳太子は、そのうち抗争に勝利した蘇我氏の側に育ち、それゆえに崇仏的な政治イデオロギーをもって執政に当たることが期待され、後に摂政の地位までまつりあげられたのでした。

然し、蘇我氏が物部氏に勝利した時から、既に次の対立構造が顕在化していました。即ち、天皇権の確立を目指す天皇と一氏族として天皇をロボット化して独裁政治を目指す蘇我氏の対立です。この対立は、聖徳太子が摂政にまつりあげられる前、崇峻天皇の暗殺によって蘇我氏が一応の決着をつけたのですが、天皇という地位が蘇我氏と一体にならない以上、常に対立抗争の危険は持続するのです。

従って、摂政となった聖徳太子は、その天皇的自覚を高めるにしたがって当然、天皇権確立の立場から蘇我氏との対立関係に入る可能性があったわけです。しかし太子は聡明にして細心の注意を払い、蘇我氏との対立抗争をかろうじて顕在化させないまま、いわば両者共通の政治的イデオロギーである仏教を利用した国家体制の構築に全力を投じたのです。

こうみてくると、聖徳太子とその時代を考える場合、仏教を支配体制に利用するいわゆる国家仏教というものが、非常なウエイトを占めることがわかります。さこで、仏教の受容については既に第35講において述べましたが、今度は国家仏教という点に重点をおいて述べてみます。そして、その国家仏教の理念にしたがって太子が蘇我氏の傀儡を巧みに排除しながら政治改革を主導するにいたる動機、つまりは天皇氏的自覚がどのように成されたのかという点も述べてみたいと思います。

 

国家仏教とは何か

日本には仏教という新しい宗教が欽明天皇の時代に公的に入ってきたと言われますが、この仏教は現代の私達がイメージするものとは異質です。

当時、日本に入ってきた仏教とは中国の北朝系統の仏教です。そして、この北鮮系統(大乗)の仏教は、仏教の中でも国家仏教といわれる形態の仏教なのです。

当時、中国は南北朝の戦乱時代であり、戦争中に宗教を広め発展させることは非常に困難でした。そこで北鮮の仏教は帝王・国家と結びつき、国家の安全と帝王・為政者・官僚の保身を図ることを目的とする宗教に変質したのです。

 

註 仏教   

 仏陀の説いた教え。前五世紀ごろインドのガンジス川中流地方に興った。阿育王の入信によってインド全土から国外へも広まり、一世紀頃から東アジアの諸方に及んで現在に至る。インドにおいて、大乗(だいじょう)小乗(しょうじょう)の区分が生じたが、中国や日本までは風土的特色を加味した種々の宗派が発生・発展した。

 

本来の仏教が階層と関係なく、あらゆる人間が信仰によって救われることとするのに対し、この国家仏教は一般庶民の信仰を期待することはなく、僧侶は政治や戦略にも通じ、国家、皇帝の立場・地位を保証するための宗教となったのです。従って、国家仏教は下からの信仰によって発展するのでなく、為政者の力に頼って発展させることに主眼をおいていたと言えます。

そのような国家仏教の性格は日本に仏教が伝えられたときの経緯にも如実に表れています。「日本書紀」によれば、百済の聖明王は日本の欽明天皇に、「私の国では仏教を信仰しています、どこの国でもそうです。中国でも朝鮮でも高句麗でも新羅でもみな仏教を信仰しています。仏教は自国の安寧秩序を保ち、あるいは王侯貴族の地位を保証する有力な宗教なのです。あなたの国でも是非仏教を信仰しなさい」と勧め、初めて仏教が日本に公的に伝えられたというわけです。

従って、当時の仏教の伝来とは、庶民の間に広まった信仰が漸次上層の人びとの間にも広まったというのでなく、上から上へ、つまり国王から国王へ、国から国へと、庶民には関係なく伝播していることが特徴です。そして、それこそが伝播された仏教が国家仏教であったことを明確に示しているわけです。