国民に告ぐ その二  鳥取木鶏会 8月例会


彼らは長い航海の後、アジア各地に寄りながら日本にまでやってきて「日本人はなぜこうも他のアジア人と違うのか」ということに驚愕しつつ、日本とは何かについて自問自答を繰り返したのである。

多くの欧米人が日本を訪れ新鮮な目で日本を見つめ、断片的であろうと、個人的印象に過ぎないものであろうと、多くの書物に残してくれたことは実に幸運であった。日本文明が成熟を見た江戸時代の直後だった、ということは尚更幸運であった。

彼らの言葉をいくつか、「逝きし世の面影」(渡辺京二著、平凡社ライブラリ)を引用し参考にしつつ考えてみよう。 

日米修好条約締結のために訪れたタウンゼント・ハリスは、日本上陸のたった二週間後の日記にこう記している。

「厳粛な反省?変化の前兆?疑いもなく新しい時代が始まる。あえて問う。日本の真の幸福となるだろうか」。彼らは「衣食住に関する限り完璧に見える一つの生存システムを、ヨーロッパ文明とその異質な信条が破壊」することを懸念したのである。 

ハリスの通訳として活躍したヒュースケンはこう記す。「この国の人々の質朴な習俗とともに、その飾り気のなさを私は賛美する。この国土の豊かさを見、いたるところに満ちている子供達の愉しい笑声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見出すことが出来なかった私は、おお神よ、この幸運な情景が今や終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳を持ち込もうとしているように思われてならない」。

また日英修好通商条約を締結するために来日したエルギン卿の秘書オリファンとはこう記す。「個人が共同体のために犠牲になる日本で、各人が全く幸福で満足しているように見えることは驚くべき事実である」。 

多くの欧米人が色々の観察をしているが、ほぼ全てに共通しているのは、「人々は貧しい。しかし幸せそうだ」である。だからこそアメリカ人のモースは「貧乏人は存在するが貧困なるものは存在しない」と言ったのだ。

欧米では、裕福とは幸福を意味し、貧しいということは惨めな生活と道徳的堕落など絶望的な境遇を意味するのだが、この国では全くそうでないことに驚いたのである。

明治6年に来日し、日本に長く生活したイギリス人のバジル・チェンバレンはこう記す。「この国のあらゆる社会階級は比較的平等である。金持ちは高ぶらず、貧乏人は卑下しない。・・・本物の平等精神、我々はみな同じ人間だと心底から信じる心が、社会の隅々まで浸透しているのである」。 

イギリス人の詩人エドウィン・アーノルドなどは明治22年に東京で開かれたある講演で日本について、こうまで言っている。「地上で天国あるいは極楽に最も近づいている国だ。・・・その景色は妖精のように優美で、その美術は絶妙であり、その神のように優しい性質は更に美しく、その魅力的な態度、その礼儀正しさは、謙譲ではあるが卑屈に堕することなく、精巧であるが飾ることもない。これこそ日本を、人生を生甲斐あらしめるほとんど全てのことに於いて、あらゆる他国より一段高い地位に置くものである」

無論、ここには詩人らしい誇張も含まれているだろう。然し実に多くの人々が表現や程度こそ異なれ類似した観察をしているのである。

                                                               

現代知識人の本能的自己防衛

現代人知識人の多くはこのような観察を重要なものと思わない。軽視する。江戸時代とは「士農工商という厳しい身分制度に基づいた封建制度の下、庶民は苦しい生活を余儀なくされていた」、明治維新とは「猛烈な富国強兵策と不平等条約のもと庶民は困窮していた」という考えに縛られているからである。

彼らは「封建制度は悪」という明治以来の日本を支配した欧米歴史学、あるいは「富国強兵は侵略戦争につながった諸悪の根源」という東京裁判史観に縛られているからである。

確かにヨーロッパを始め世界の封建制度とは、おしなべて専制君主が人民を圧政下におき農民を農奴の如くこき使い、搾り取れるだけ搾り取るものであった。国民のほとんどを占める農民はいかなる希望も持てず、どん底の闇を這いずり回るような生活をしていた。欧米流の歴史学を学んだ現代知識人にとって、幕末から明治初期にかけて来日した外国人の観察は矛盾に満ちたものに映るのである。

日本の封建制度が他国の封建制度とは似ても似つかないものであったとは考えずに、単なるオリエント趣味の発露に過ぎず珍しい骨董品を誉める程度の他愛ないものと思うのだ。

或は当時の西欧で流行していたジャポニズム、という眼鏡を通して形成された美しき幻影に過ぎず、日本や日本人の実像を示すものではないと考える。

人によっては、そういった観察の底には、抜き差しがたい欧米優位思想があり、日本を称えるのは愛玩動物を愛撫するようなもので日本蔑視の一形態に過ぎない、とまで考えるのである。 

実は、江戸末期に来日した欧米人と同じく、日本の封建制度を見て衝撃を受け歴史学の常識との矛盾を感じ悩んだのだ。

然し彼らには目の前の現実と言う「動かぬ証拠」があったから、日本の封建制度の異質を信じざるを得なかった。現代知識人には「動かぬ証拠」がないからいつまでも疑惑の目を向けるのである。

それに知識人にとって、自己肯定は無知をさらすことであり、自己懐疑こそが知的態度なのだ。と同時に物事を「白」と断ずるのは危険、「灰色」と言うのは安全、ということを知る知識人の本能的自己防衛でもあるのだ。

実は、このような態度は現代知識人に固有のものでもない。英詩人エドウィン・アーノルドが先述の、いささか褒め過ぎと思える絶賛を述べた翌朝の日本の各紙における論説は、アーノルドが日本のやり遂げた政治、経済、軍備の躍進に触れず、芸術、自然、人々のやさしさや礼節といったものばかりを賞賛したのは、日本に対する一種の蔑視ではないかと憤ったのである。 

また明治に長年にわたり日本に暮らしたジャパノロジストのチェンバレンはこう書いている。「新しい教育を受けた日本人のいるところで、諸君に心から感嘆の念を起させるような、古い奇妙な、美しい日本の書物について、詳しく説いてはいけない。・・・一般的に言って、教育ある日本人は彼らの過去を捨ててしまっている。彼らは過去の日本人とは別の人間、別のものになろうとしている」。

同様のことは明治9年に東大医学部創設期のお雇い教師として来日し日本人と結婚、30年近くにわたり日本に滞在したドイツ人ベルツもこう書いている。「現代の日本人は自分自身の過去については、もう何も知りたくないのです。それどころか、教養ある人たちはそれを恥じてさえいます」。

彼が教養ある紳士達に日本の歴史について尋ねると、ある人は「いや、何もかもすっかり野蛮なものでした」と答え、ある人は「我々には歴史がありません。我々の歴史は今からやっと始まるのです」と断言したのである。 

明治の頃にせよ、何か新しい価値観に立って進もうとする時、日本人は過去を完全に捨て去り猛進しょうとする性行があるようである。終戦後大ヒットした「青い山脈」に「古い上衣よさようなら、さみしい夢さようなら」とあるようにだ。

無論それは或る意味で仕方ないことだ。その時代に潮流にのり国民一丸となって突き進むことも時には大切だからだ。然し、かっては、そのようなバランスを欠きがちな国民性に歯止めをかける精神、古くは「和魂漢才」、明治には「和魂洋才」などがあった。処が戦後のアメリカ化の過程ではついぞ、「和魂洋才」は耳に入らなかった。あたかも米魂米才を理想として目指しているかの観があった。 

外国人を魅了した日本文化の美徳とは何か

それはともかく、幕末から明治にかけて来日した外国人の言葉によると、日本は江戸時代に、今日に至るまで日本以外の世界のどこにも存在しなかった、貧しいながら平等で幸せで美しい国を建設していたのである。

こういった見聞録に対する現代知識人の冷笑主義に私は(くみ)しないが、百歩譲ってその言い分を認め、そのような印象が単なる幻影だったとしても、少なくとも当時来日した殆どの外国人に、そのような幻影を抱かせるような現実が当時の日本にあったことは間違いない。 

その現実とは何か。明治4年に来日したオーストリアの長老外交官ヒューブナーはこう断言する。「封建制度一般、つまり日本を現在まで支配してきた機構について何と言われ何と考えられようが、兎も角衆目の一致する点が一つある。即ち、ヨーロッパ人が到来した時からごく最近に至るまで、人々は幸せで満足していたのである」。

貧しいながら人々の顔に表れた幸せと満足感が余りにも著しかったから、全ての来日外国人がこの想像しにくい状況に瞠目し書き記したのである。

無論、幸せとか満足感に基準はない。当時の欧米は産業革命の真っ只中でありその歪みも出始めていたが、その頃の自国の人々の表情と比べての印象であることは否めない。

それにしても、表情に表れた幸せや満足感ほすべての人々が健康そうで礼儀正しく正直だったこと、鍵のない部屋や机から何も盗まれなかったこと、街頭や農村で見た人々が子供から人足、車夫に至るまでみな、冗談を言い合っては笑いころげていたこと、これらは現実ではないのか。

苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)(あえ)いでいた筈の当時の農村で、人々が貧しいながら皆幸せそうにしていた、と多くの外国人が言う時、「苛斂誅求に喘いでいた」の真偽を疑うことが先決ではないのか。

 

日本をよく見て歩き、将軍家定に謁見するまでしたハリスが「将軍の服装は質素で、殿中のどこにも金メッキの装飾はなく、柱は白木のままで、火鉢と私のために用意された椅子とテーブルの他にはどの部屋にも調度の額の類が見当たらなかった」と書いたのはハリスの幻だったのか。

彼が、「日本には富者も貧者もいない。正直と質素の黄金時代を他のどの国よりも多くここに見出す」と書いたのは錯覚だったのか。 

世界のどこの地域でもなし遂げられなかった、かくも素晴らしい社会を作った日本人の、卓越した特性をなぜ日本人は誇りに思わないのだろうか。

日本以外の国であったら、世界が目を見張った日本文明に関し、歴史教科書で誇り高く詳述するであろう。

世界の中で品格をもって生きて行く為にどの国民にとっても必要な「祖国への誇り」を育むために活用するだろう。 

現代日本の教科書では無論ほとんど一切触れられていない。前述のように歴史家がそれを嫌い、知識人がそれを忌むからである。自らを自慢することはしたくない、という日本人の謙遜もそこには働いている。

祖国への誇りを子供に育むのは軍国主義につながりかねない、愛国教育ではないのか、などと本気で心配したり、近隣諸国条項を考慮したりする。

近隣諸国条項とは、1982年に教科書検定基準として定められたもので、平たく言うと、「中国、韓国、北朝鮮ほ刺激しかねない叙述はいけない」という政治的なものである。歴史的あるいは国際的な客観性より外交を優先するという代物だ。無論、これら三国にそのような滑稽な規定はない。 

昨春、私は御茶の水女子大学を定年退官下が、定年前の約十数年間、専門の数学以外に、「一年生対象の読書ゼミを年に一コマか二コマ担当していた。よく新入生にこう尋ねてみた。「日本はどういう国と思いますか」。彼女達の答えには、表現の差こそあれ「恥ずかしい国」「胸をはって語れない歴史を持つ国」などと否定的なものが多かった。 

理由はほぼこういうものだった。

「明治、大正、昭和戦前は、帝国主義、軍国主義、植民地主義をひた走り、アジア各国を侵略した恥ずべき国。江戸時代には士農工商の身分制度、男尊女卑、自由も平等も民主主義もなく庶民が虐げられていた恥ずかしい国。その前はもっと恥ずかしい国、その前はもっともっと」。そう習ってきたのである。そう理解することでやっと大学合格にまで漕ぎ着けたのである。 

私は彼女達がかくも酷い国に生まれた不幸に同情した後、必ず聞くことにした。 

「それでは尋ねますが、西暦500年から西暦1500年までの10世紀間、日本一国で生まれた文学作品がその間に全ヨーロッパで生まれた文学作品を、質及び量で圧倒しているように私には思えますがいかがですか」。 

これで学生達は沈黙する。私はたたみかける。

「それでは、その10世紀間に生まれた英文学、フランス文学、ロシア文学、をひっくるめて三つでいいから挙げて下さい」。

学生は沈黙したままだ。私自身、「カンタベリー物語」くらいしか思い浮ばない。 

私は学生に更に問う。

「この間に日本は、万葉集、古今和歌集、新古今和歌集、源氏物語、平家物語、方丈記、徒然草、大平記・・・と際限なく文学を生み続けましたね。それ程恥ずかしい国の恥ずかしい国民がよくぞ、それほど香り高い文学作品を大量に生んだものですね」。

理系の学生がいれば更にたたみかける。「世界中の理系の大学一年生が習う行列式は、ドイツの大天才ライプニッツの発見ということになっていますが、実はその10年前、元禄年間に関孝和が鎖国の中で発見し、ジャンジャン使っていたものですよ」。学生は完全に沈黙する。毎春の授業風景であった。

これは私の学生のみに見られる傾向ではない。世界数十ヶ国の大学や研究機関が参加する「世界価値観調査」によると、18歳以上の男女をサンプルとした2000年のデーターだが、日本人が「自国を誇りに思う」の項で世界最低に近い。「もし戦争が起こったら国のために戦うか」は05パーセントと図抜けて世界最低、ちなみに韓国は74パーセント、中国は90パーセントである。恥ずかしい国を救う為に生命を投げ出すことなど有り得ないのである。