公明党に告ぐ「安倍総理は謙虚だ、心得違いをするな」

評論家、拓殖大学大学院教授・遠藤浩一 産経2013.7.31

 

 ■公明は「安倍暴走論」利用するな

 ほんの7、8カ月前には「決められない政治」からの脱却が叫ばれていたのに、いざ“ねじれ”が解消して、「決められる政治」の枠組みが実現すると、今度は安倍晋三首相の“暴走”を心配する声が散見されるようになった。某週刊誌には「さあ、やりたい放題」という見出しが躍っていた。

 ≪首相は改憲問題でも自制的≫

 大方の見るように、これで3年間は国政選挙が行われない可能性が高くなった。首相は腰を据えて政策課題と取り組むことができるわけで、この時間を活用すれば、「やりたい放題」も、あるいは可能なのかもしれない。

 しかし、筆者から見ると、安倍首相は自制的である。最重要課題の憲法改正についても「そもそも3分の2に達しなければ参院、衆院で発議できない。前に進めていこうと思ってもできない。まず国民投票ができる状況をつくる。その中で国民的な議論を深める」(7月22日の記者会見)と、謙虚かつ冷静な方針を示している。

 自ら言動を抑制している首相に対して、ことさら“暴走”と論(あげつら)うのは、なんらかの政治的意図があってのことに違いない。要するに「やりたい放題」はさせないぞ、と言いたいのだろう。

 それにしても、週刊誌はともかく、連立与党の党首が、自ら支える内閣の“暴走”を心配し、その抑止役たらんとする姿勢を外に向かってアピールしてみせる事態は不健全である。

 山口那津男公明党代表は参院選挙後、自身のブログで、「大勝して大所帯となった自民党が先祖返りして国民の期待に外れた動きをとらないよう、適切にコントロールする役割」を果たしていく旨、強調している(7月24日)。

 尤(もっと)もらしく聞こえる議論だが、いくつかの点で疑問を禁じ得ない。

 ≪山口代表の「不適切」発言≫

 第1に、「国民の期待」という紋切り型の表現だが、それはいったい誰が認定するのか。山口氏自身か。新聞の社説か、テレビのコメンテーターか。それとも支持団体の意向か。今回の選挙で自民党は「国民の期待」を一定程度吸収して「大所帯」になったわけで、連立政権を支える政党の党首たる者、そうした大多数の「期待」を無視して、別方向からの「期待」を誇張するのは危険である。山口氏が心配すべきは、むしろノイジー・マイノリティー(声高な少数者)の暴走だろう。

 第2に、「適切にコントロールする」とあるが、20議席の政党が115議席の政党をコントロールするとは如何(いか)なることを意味するのか。自分たちが認める法案は通すが、そうでないものはその限りではないとでも言うのか。

 集団的自衛権の行使にしても、憲法改正にしても、公明党はことごとく消極的な姿勢を示している。首相の靖国神社参拝についても牽制(けんせい)している。公明党の思想や政策が自民党と異なるのはいい。内閣や与党の会議で自らの信ずるところを主張し、政策に適切に反映させるのもいい。しかし、野党の如(ごと)く自民党との違いを声高にアピールしてみせるところに、ある種のいかがわしさを感じるのである。

 公明党が本気で閣内の抵抗勢力として自民党をコントロールすることが自らの役割だと信ずるのならば、それは心得違いというものである。この際、連立政権に参加することの意味について再検討する必要がある。

 政権に参与するということは、野党的なスタンドプレーで満足することではない。決断し、実行することである。時には、国家と国民のために重い決断を迫られる場面もある。閣内、与党内での熟議の積み重ねはその前提条件である。

 ≪自公の枠組みに満足するな≫

 安倍首相はそうした議論を国民的に深めていくと言っているのに、議論以前にあの手この手でコントロールしようとするのは、如何(いかが)なものか。こちらの方がよほど(陰湿な)“暴走”ではないか。公明党内には党首の“暴走”を抑止する機能はないのだろうか?

 こうした公明党の姿勢は、自民党内の(政権維持そのものを目的とした)守旧派を勢いづかせることになるだろう。国政選挙のない3年という期間は、安倍首相にとって政策を遂行するための貴重な時間だが、同時に、閣内・与党内の反対派にとっても安心して暴れることのできる時間となりうる。

 首相は、こうした一見安定しているかに見えて、実は微妙な政権基盤の上に立って、複雑かつ重要な諸課題と取り組み、成果を挙げていかなければならない。この3年(そしてその後の数年)を実のある政治的時間とするためには、現状の自公政権の枠組みに満足することなく、政権基盤の一層の強化に着手すべきである。憲法改正に関する国民的議論の深まりは、おのずと再編強化の動きを加速させることになるだろう。もちろん公明党も堂々と議論に臨んだらいい。開かれた熟議の場においてこそ、政党というものは、自らを鍛え上げることができるのである。(えんどう こういち