「この国を思う」3 安岡正篤  

平成21年8月   

 1日 屁理屈の多い日本の知識人 さて、前述のように近代日本の知識階級は非常に主知的で、理屈は多いのですが、その理知も形式論理的、概念的である。平たく言えば屁理屈が多い。 そうして深い直感というものがない、西洋人の言葉で言いますれば、ナレッジ(知識)は非常に進歩して来ておるのですがウイズダム(叡智)は衰えて来ておるのであります。
 2日 ジャーナリズムの氾濫は ジャーナリズムが氾濫しておるものでありますから、いかにもイデオロギーなどで世の中が動くように見えているのでありますが事実はそうではない。一体、東洋人、ことに日本人はそうなんですが 西洋民族と違って余り理知や論理を好まない。
早い話が西洋では政治的に成功する条件は雄弁ということであります。社会運動の牛耳を執るにも必要なことは雄弁であります。論理と雄弁であります。
 3日 沈黙寡言が日本人の美徳

処が、東洋の民衆から畏敬せられるような人物は概して沈黙寡言であります。俗にも向うは雄弁を重んずるが此方は文句を言うなと言う。文句を言うなということは喋るなということであります。

神ながらの道は言挙げを嫌うなどと言いますが、とにかく理屈を言うことを嫌う。それでありますから、恐らくヒットラーでもムッソリーニでも、あれが日本や中国であったら左程成功しなかったろうと思われる。別の形を執らなかったら成功しなかったろう。 

 4日 形式論理的

最初は面白いから政談演説でも聴くようなものでゾロゾロ聴きましょうが、しばらくすると、あいつはどうもいやに喋る奴だ、あれを三割程減らさなければというような結論になるだろうと思います。しかもその雄弁なり

理論なり情熱があり力が籠り我々の実践に犇々(はんはん)として迫ってくるようなものならよいが、それがまた近代の理論というものは先程も申しましたように、すこぶる概念的であり、形式論理的である。実生活の指導力に余りならない。非常に抽象的である。
 5日 三論の禍 かって操觚界(そうかくかい)の一方の雄であった若宮卯之助氏がよく言ったことに、現代の知識階級は三論の禍を受けている。 曰く、法学理論、曰く経済原論、曰く哲学概論、こういう概論、通論、汎論がすこぶる流行る。教育をやりましても、要するに教育概論、宗教をやりましても心理学を修めてもそういう本を読んでいる。
 6日 概論好きの日本人 処が、例えば倫理学概論式のものを何十冊読みましても、概論には何が書いてあるかと申しますと,人格とは何ぞや、行為とは何ぞや、良心とは何ぞや、目的とは何ぞや、というような人間の倫理現象を分析解剖して、これを系統的に解説したものに過ぎない。

宗教概論にしても、宗教とは何ぞや、人生に置ける宗教現象の説明、宗教の種類、宗教の特質云々というようなこと、つまり水は酸素と水素で出来ている、その割合は一と二でH2Oになつているというような具合で、それも大事な研究ではあるが、喉の渇きは止まらぬ。人体の栄養にはならぬ。 

 7日 操縦可能な理論 そういう我々の実践の力にならぬ形式論理、概念の遊戯に等しい抽象的理論が非常に跋扈している。 口は調法で、この抽象的理論というものは誰がどうにでも操ることができる。場合に依って反対になることがある。
 8日 反省要する理論万能 日本精神を盛んにしようとして猫も杓子も日本精神を論じて、却って日本精神に反感を挑発したことも痛切な体験です。己的本能丸出しにして虫の好い理屈と闘 争ばかり今日のように刺々しい利に耽っていて一体どうなるか、こんなことがわからぬ程、病的心理になっているこの近代の理知主義、抽象的な、ことに理論万能の行き方は強く反省されねばなりません。
 9日 利己的、物質的日本人 これを要するに近代日本人の一般の弱点は甚だしく利己的である。甚だしく物質的である。人間が小さい、滅私奉公、義勇奉公、人生や国家の大事に対する感激性や身を挺す道義に乏しい。 非常に気分本意であり理屈っぽく抽象的であって、どうも人間の情操(じょうそう)の練磨、叡智の涵養が乏しい。大学だの専門教育だというものが盛んになりながら、卑近な人間の常識や礼儀には甚だ(うと)い。これが案外、国際的反感、憎悪の原因になっている。
10日 破滅は当然の日本の現状 これから真に日本が独立自衛に乗り出してこの難局を打開し、国家百年の運命を(ひら)き、この難局を有利に導いて行こうというのには結局急がば回れでありまして日本人の教育というものに一大革新を加えねばならぬ。従来のような思想、従来のような教養では到底日本は世界に躍進することは出来ない。 こういうことが、心ある人々の頭痛の種になっているのでありまして、勿論、この教養の改革ということは政治、経済、百般の変革に伴って自ら行わるべきことでありまして、切り放しては出来ないことであります。ただし、あるゆる政治、経済、その他国政百般の革新の根底に人物と教養の問題がある。これを無視してしまえば日本は破滅するのも当然であります。
11日 民族の滅亡

ソ連も中国も学習とか洗脳とか、人間改造ということを非道(ひど)く行っておりますが、確かに精神革命を行わずに多少の法令を変革して見た所が、ないしは経済政策を左右して見た所が、

それはいわば砂上の楼閣のようなもので、侵略者の一撃で崩壊しさるでしょう。今こそ、日本人が本当に覚醒しなければ、有史以来の危局つまり民族の滅亡になるということを痛感せざるを得ません。
12日 エリートと大衆

低俗雑駁な大衆
結局、やはり、いかに人材(エリート)が奮起するか、或は人材を思い切ってどう政局に立たせるかより外ないことです。処が、困ったことに、現代は益々大衆の時代になって来ております。 大衆はその中に大きな意味も力もあります、然し、スペインの有名なオルテガがその名著「大衆の叛逆」に説いておりますが、大衆は畢竟(ひっきょう)低俗(ていぞく)雑駁(ざっぱく)で、そこから何ら勝れた見識も政策も生まれていません。
13日 国家の興隆 世の中が大衆的になればなる程、かえってエリート、人材を指導者に出さねばなりません。このエリートが大衆の尊敬と信頼とに値して、その指導の下に大衆が 良く結集し、行動する時、始めてその民族・国家は興隆するのです。このことはA・トインビー教授もその「歴史の研究」に解明しております。
14日 日本の指導層は政治的精神異常患者

その大衆の時代である現今世界の実情は、特に日本において著しいことですが、指導層の知識人が一般にケストラーのいわゆる政治的精神異常患者になっていて、現実の難問題を忌避し、大衆の政治的本能である「勝れた何ものかに属しようとする要求」を充たすことが出来ずに、却って大衆に迎合しようとして、人材が低級になる一方なのであります。

やはりこの時風を打破し、真に能く大衆の要望に応えて時代の革命を正しく遂行するエリートが出てこなければ、或は出すようでなければ、大衆は遂に救われないのであります。行けば行ける人々が、要するに自分の私生活にばかりかまけて、一向真剣に国家や民族のことを考えず、漫談や批評にその日暮らしをしておるばかりでは結局、混乱と滅亡の外ありません。やはりいつの世も多数の先覚者、先駆者の挺身斡旋から新しい時局が開けてゆくのであります。
15日

文化人・知識人

無知と野蛮

一体、昔から無知と野蛮の弊害もさることながら、口舌の徒といって、文化人・知識人を以て任ずる人々が、世を惑わし人を誤る悪弊もなかなか容易ならぬものがあります。

特に、
今日のようなジャーナリズム、マス・コミュニケーションの時代はなおさらです。
 

16日 徳的無関心 「無知と感情が民衆の道徳を危くするとすれば、道徳的無関心は極めて教養のある人々の病気と言わねばならない。 知識と徳性、思想と良心、思想的貴族と心がけの良い粗野な民衆との間のこういう分離疎隔は、自由にとって最大の危険である。
17日 利己主義

洗練された人、皮肉な人、繊細な人が多くなればなる程、それは社会の化学的分解を指し示すものである。

物に興味を失った嘲弄家(ちょうろうか)は、一般の義務に関心を持たず、少しの努力を避けるためにどんな不幸をも防ごうとしない利己主義である。
18日 文化という言葉の濫用

そのすれた点は、もはや気節を持っていないところにある。それによってこの連中は真の人間性から遠ざかり、悪魔的本性に近づいている」と日本人の好くスイスの詩人哲学者アミエルも直言しており

ます。
どうも日本人は文化という言葉を濫用しすぎる。いわゆる文化人などはその代表的なものです。
近頃、世に知られているイギリスのT・エリオットも「文化」について勝れた見識を語っております。
19日 文化とは 文化とはその全部が自覚にのぼせ得るものではない。また我々が全部自覚するごとき文化が決して文化の全体なのでもない。有力な文化とは自ら文化と自称してそれを玩弄しつつある人々の活動を却 って逆に矯正するもののことなのである。
我々は一つの包括的な名称としての「文化」という言葉をみだりに使用しないこととによって、着実に各々その道の仕事にいそしむことにしょうではないか。
20日 独断

何となれば、無造作に文化を口にすることによって我々はいかにも文化というものが計画され得るものであるかの如き独断に滑り込むからである。

文化は決して全面的に意識されるものでもなければ、計画されるものでもない。
我々の全ての計画の無意識の背景をなすものが、また文化だからである。
 
21日 いわゆる知識人文化人

日本のいわゆる知識人文化人は、ロシアが好きでドストエフスキーを愛読しますがドストエフスキーの次のような思想を知っているでしょうか。ハンス・コーンがその名著「預言者と人民」の中で語っておることですか

〔聖ペテルブルグの自由闊達な雰囲気の中で、ドストエフスキーは1861年始めに、彼の兄ミハイルや数人の友人と共に、「ヴレーミャ」(時代)という雑誌を創刊した。この雑誌の中に既に彼の後年の態度が明らかに現れている。
22日

ロシアの農民のみの話

このグループはポチヴェンニキと称したが、「土に根を下した人々」すなわち、ロシア固有の土に根を下した人々の意味であった。 彼らはただロシアの土からのみ、また土地と結びついているロシアの農民大衆からのみ、ロシアの知識人は生命力を得ることができると説いた。〕
23日 戯画的な存在 知識人は土から離れて浮浪化すれば、その本質を失い、全く戯画的な存在になってしまう。有名なプーシキン記念講演の中で、ドストエフスキーは「土地と民衆から遊離し、 スキターレッツ、即ち故郷を持たぬ放浪者になって、異国の伝統と(かん)(せん)を追い求める浮草同然の知識人を攻撃している」ということであります。 
24日

痛烈な批判

フランスの異色ある文士としてまた最近では「アメリカ紀行」を書いて現代アメリカに痛烈な批判を浴びせた有名なジャン・コクトーを朝日の小嶋通信員が訪問 した際の話がおもしろい。ー問ー、「映画や文学であなたの目標とする階層は知識人階級ですか」、「知識人?」コクトーは急に眉をしかめた。明らかに不満の表情だ。
25日 悲劇的存在はいわゆる知識人

「君、現在の一番悲劇的存在はいわゆる知識人という連中だということをよく覚えておいて下さい。この連中は学問をしたとか、少しばかり本を読んだとか言うだけで、何でも物が解り何でも物が批

判できると思い込んでいる「恐るべき人種」なのだ。その癖彼らには何にも解らない。それでいて何か判ったような顔をしなければ気がすまない。実に悲劇だ。僕はそんな連中の考えなどはどうでもいいのだ」
26日 心の距離

また曰く、「僕は今の世界を見つめてよく思うのだかが、交通機関が非常に発展した今日ほど、各国民の心の距離の大きいことはないのじゃないか。

シーザーはゴールから英国を征服するのに一年の日数を費やしているし、スタール夫人は有名な「ドイツ論」を書くために前後六年ドイツに旅行した。 
27日 昔の知識人 スタンダールがイタリアへ旅行する時は、いつも五百何冊の本を持って行ったそうだ。昔の知識人は中々元をかけたものだ。 処が、今パリーのオペラ座の前からトマス・クックのバスに乗ると、一週間でスイス、オーストリア、ドイツを要領よく回って帰ってこられる。
28日 文化人・知識人の軽さ この方法で欧州各国をかけのわるには三週間もあれば沢山だ。しかしこんなふうにして外国を見たって何にもならない。ことら民衆との接触なんて出来るものじゃない。みんな出る時の先入観や偏見をまた後生大事に持ち帰るだけだ。」。 これは政治と教育との力に待つこと大なるものがありますが、とにかく文化人・知識人というものをもっと真面目に重厚にせねばなりません。
祖国と同胞とに忠誠にせねばなりません。
29日

国境を超越した新しい忠誠はあり得るか

低級な利己主義者

国家とか民族などと言えば、すぐに夜郎自大的、排他民族主義、侵略的帝国主義と速断して反感を抱く者が多い。それらの人々は、そういう民族国家を超越した世界国家、あるいは世界政府の実現を要望する。これは是非とも次のような真実の言葉に自ら深省せねばなりません。

「一人の人間を熱烈に愛することも出来ないくせに、ちょっと見たところ全人類を愛するようなふりをする多くの人々がある。彼らの人類愛は非利他的な、無関心に殆ど近い程希薄なものであり、骨をも折れず、且つ実践され得ないものである。熱もなく、冷もなく、彼らは自己主義者と低級な利他主義者との境界線を占めている」。
30日

気分的空想的人道主義

「人間は自分がその一員であるところの集団に対して進んで自己を捧げようとする忠誠心が本能的基礎を持っていることを認め今日では出来ることなら民族国家の国境を超越する新しい忠誠を生み出すことが最大の重要事であるが、そういう

ことが果してどれほど出来るであろうか。共産主義者は無理な方法である程度強制し得たが、それは非共産主義者が許すものではない。もっと外の方法に依らねばならぬ。それにはまず第一に各国の指導的立場の人々、次いで民衆が長い再教育の過程を経ねばならない。 

31日 空想的人道主義はだめ 然し、こういうことが起こるのはまだまだ前途遼遠である。キリストが汝己の如く汝の隣人を愛せよといってから既に1900年余になる。いったい今後なおどれだけ多くの歳月を経たならば、人々はこの言葉こそ確かな助言だったと考え始めるであろうか」。

一片の感傷や観念や、遊戯に過ぎぬ気分的空想的人道主義はだめであります。
今日の現実はそれに対して甚だしく冷厳であり、苛酷であります。まず自国、自郷、自家から愛することができねばなりません。