日本、あれやこれや その52

「美しい日本の私」  川端康成

平成20年8月

 1日 春は花 春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて(すず)しかりけり」。

道元禅師の「本来ノ面目」と題するこの歌と、
雲を出でて我にともなふ冬の月 風や身にしむ雪や()めたき」。

明恵上人(みょうえしょうにん)のこの歌とを、私は揮毫(きごう)を求められた折りに書くことがあります。
 2日 歌のこころ

明恵のこの歌には、歌物語と言へほどの、長く詳しい詞書(ことばが)きがあって、歌のこころを明らかにしています。

「元仁元年十二月十二日の夜、天くもり月くらきに花宮殿(くわきゅうでん)に入りて座禅す。やうやく中夜にいたりて、出観の後、峰の房より下房へ帰る時、月雲間より出でて、光り雪にかがやく。
 3日

歌のこころ

狼の谷に吼ゆるも、月を友として、いと恐ろしからず。下房に入りて後また立ち出でたれば、月また曇りにけり。かくしつつ後夜の鐘の音聞こゆればまた峰の房へのぼるに

月もまた雲より出でて道を送る。峰にいたりて禅堂に入らんとする時、月また雲を追ひ来て、向ふの峰にかくれんとするよそほひ、人しれず月の我にともなふかと見ゆれば、この歌。」
 4日 山の() それにつづけて、山の()(かた)ぶくを見おきて峰の禅堂にいたる時、 「山の()にわれも入りなむ月も入れ 夜な夜なごとにまた友とせむ
 5日 澄める心 明恵は禅堂に夜通しこもっていたか、あるひは夜明け前にまた禅堂に入ったかして、禅観(ぜんかん)のひまに(まなこ)を開けば、(あり)()けの月の光 、窓の前にさしたり。
我身は暗きところにて見やりたれば、澄める心、月の光に(まぎ)るる心地すれば、「(くま)もなく澄める心の輝けば 我が光とや月思ふらむ」
 6日 月の詩人 西行を桜の詩人といふことがあるのに対して、明恵を「月の歌人」と呼ぶ人もあるほどで、 「あかあかや あかあかあかや あかあかと あかやあかあか あかあかや月」と、ただ感動の声をそのまま連ねた歌があったりしますが、
 7日 月の詩人 夜半(よは)から、暁までの「冬の月」の三首にしても、「歌を詠むとも実に歌とも思はず」(西行の言)の趣きで、素直、純真、月に話しかける言葉そのままの三十一文(みそひと)(もじ)で、 いはゆる、「月を友とする」よりも月に親しく、月を見る我が月になり、我に見られる月が我になり、自然に没入、自然と合一しています。暁前の暗い禅堂に座って思索する僧の「澄める心」の光りを、有明の月は月自身の光りと思ふだらうという風であります。 
 8日 日本人の心の歌

「我にともなふ冬の月」の歌も、長い詞書きに明らかのやうに、明恵が山の禅堂に入って、宗教、哲学の思索をする心と、月が微妙に相応じ

相交わるのを歌っているのですが、私はこれを借りて揮毫しますのは、まことに心やさしい、思ひやりの歌とも受け取れるからであります。
 9日 日本人の心の歌 雲に入ったり雲を出たりして、禅堂に行き帰りする我の足もとを明るくしてくれ、狼の吼え声もこはいと感じさせないでくれる「冬の月」よ、風が身にしみないか、雪が冷めたくないか。 私はこれを自然、そして人間にたいする、あたたかく、深い、こまやかな思ひやりの歌として、しみじみとやさしい日本人の心の歌として、人に書いてあげています。
10日 日本人の心の歌 そのポッティチェリの研究が世界に知られ、古今東西の美術に博識の八代幸雄教授も「日本の美術の特質」の一つを「(せつ)(げつ)()の時、最も友を思ふ」という詩語に(つづ)められるとしています。 雪の美しいのを見るにつけ、月の美しいのを見るにつけ、つまり四季折々の美に、自分が触れ目覚める時、美にめぐりあふ幸ひを得た時には、親しい友が切に思われ、このよろこびを共にしたいと願ふ、つまり、美の感動が人なつかしい思ひやりを強く誘ひ出すのです。 
11日 最も友をおもふ この「友」は、広く「人間」ともとれませう。また「雪、月、花」といふ四季の移りの折々の美を現す言葉は、 日本においては、山川草木、森羅万象、自然のすべて、そして人間感情をも含めての、美を現す言葉とするのが伝統なのであります。
12日 そして日本の茶道も、「雪月花の時の、最も友をおもふ」のがその根本の心で、茶会はその「感会(かんかい)」、よい時によい友どちが(つど)ふよい会なのであります。 ちなみに、私の小説「千羽鶴」は、日本の茶の心と形の美しさを書いたと読まれるのは誤りで、今の世間に俗悪となった茶、それに疑ひと(いまし)めを向けた、むしろ否定の作品なのです。
13日 無造作 春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて冷しかりけり
この道元の歌も四季の美の歌で、古来の日本人が春、夏、秋、冬に、第一に愛でる自然の景物の代表を、ただ四つ無造作にならべただけの、月並み、常套、平凡、この上ないと思へば思へ、歌になっていない歌と言へば言へます。
しかし別の古人の似た歌一つ、僧良寛の辞世、
形見とて何か残さん春は花 山ほととぎす秋はもみぢ葉

これも道元の歌と同じように、ありきたりの事柄とありふれた言葉、ためらひもなく、と言うよりも、ことさらもとめて、連ねて重ねるうちに、日本の真髄を伝へたのであります。まして良寛の歌は辞世です。
 
14日 良寛の歌 霞立つ永き春日(はるひ)を子供らと 手毬(てまり)つきつつこの日暮らしつ 「風は清し月はさやけしいざ共に 踊り明かさむ老いの名残りに」
15日 日本古来の心情

世の中にまじらぬとにはあらねども ひとり遊びぞ我はまされる」。
これらの歌のやうな心と暮らし、草の(いおり)に住み、粗衣をまとひ、野道をさまよひ歩いては、子供と遊び、農夫と語り、信教と文学との深さを、むづかしい話にはしないで「和顔(わげん)愛語(あいご)」の無垢(むく)言行(げんこう)とし、しかも、詩歌と書風

と共に、江戸後期、十八世紀の終わりから十九世紀の始め、日本の近世の俗習を超脱、古代の高雅に通達して、現代の日本でもその書と詩歌をはなはだ貴ばれている良寛、その人の辞世が、自分は形見に残すものはなにも持たぬし、なにも残せるとは思はぬが、自分の死後も自然はなほ美しい、これがただ自分のこの世に残す形見になってくれるだろう、といふ歌であったのです。日本古来の心情がこもつているとともに、良寛の宗教の心も聞ける歌です。
16日 素直に満ちて いついつと待ちにし人は来りけり 今は相見てなにか思はん」。
このやうな愛の歌も良寛にはあって、私の好きな歌ですが、老衰の加はった六十八歳の良寛は、二十九歳の若い尼、貞心とめぐりあって、うるわしい愛に恵まれます。
永遠の女性にめぐりあへたよろこびの歌とも、待ちわびた愛人が来てくれたよろこびの歌とも取れます。

「今は相見てなにか思はん」が素直に満ちています。
17日

末期の眼

良寛は七十四歳で死にました。私の小説の「雪国」と同じ雪国の越後、つまり、シベリアから日本海を渡って来る寒風に真向ひの、裏日本の北国、今の新潟県に生まれて、生涯をその雪国に過ごしたのでしたが、老い衰えて死の近いのを知った、そして心がさとりに澄み渡っていた。 この詩僧の「末期(まつご)()」には、辞世にある、雪国の自然がなほ美しく映ったであろうと思ひます。

私に「末期の眼」という随想がありますが、ここでの「末期の眼」といふ言葉は、芥川龍之介の自殺の遺書から拾ったものでした。
18日

芥川の末期の眼

その遺書のなかで、殊に私の心を惹いた言葉です。「所謂生活力といふ」、「動物力」を「次第に失っているであろう」、「僕の今住んでいるのは氷のやうに澄み渡った、病的な神経の世界である。
 (中略)
僕がいつ敢然と自殺出来るかは疑問である。唯自然はかういふ僕にはいつもより一層美しい。君は自然の美しいのを愛ししかも自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであろう。けれども自然の美しいのは、僕の末期の眼に映るからである。 
19日

自殺

1927年、芥川は三十五歳で自殺しました。私は「末期の眼」のなかにも「いかに現世を厭離(おんり)するとも、自殺はさとりの姿ではない。いかに徳行(とっこう)高くとも、自殺者は大聖の域に遠い」と書いていまして、芥川やまた戦後の大宰治(だざいおさむ)などの自殺を賛美するものでも、共感するものでもありません。しかし、これも若く死んだ友人、日本での前衛画 家の一人は、やはり年久しく自殺を思ひ「死にまさる芸術はないとか、死ぬることは生きることだとかは、口癖のやうだつたさう」(末期の眼)ですが、仏教の寺院に生まれ、仏教の学校を出たこの人の死の見方は、西洋の死の考へ方とはちがっていただろうと、私は推察したものでした。
「もの思ふ人、誰か自殺を思はざる。」でせうが、そのことで私の胸にある一つは、あの一休禅師が、二度も自殺を企てたと知ったことであります。
20日

一休さんの真実の姿

ここで一休を「あの」と言ひましたのは、童話の頓智和尚として子供たちにも知られ、無碍奔放(むげほんぽう)な奇行の逸話が広く伝はっているからです。「童子が膝にのぼって、ひげを撫で、野鳥も一休の手から餌を(ついば)む」という風で、これは無心の極みのさま、そして親しみやすくやさしい僧のやうですが、 はまことに峻厳深念(しんねん)な禅の僧であったのです。
天皇の御子であるとも言はれる一休は、六歳で寺に入り、天才少年詩人のひらめきも見せながら、宗教と人生の根本の疑惑に悩み、「神あらば我を救い給へ。神なくんば我を湖底に沈めて、魚の腹を(こや)せ」と、湖に身を投げようとして引きとめられたことがあります。
 
21日 一休の狂雲集 また後に、一休の大徳寺の一人の僧が自殺したために、数人の僧が獄につながれた時、一休は責任を感じて「肩の上重く」、山に入って食を絶ち、死を決したこともあります。一休はその「詩集」を自分で「狂雲集」と名づけ、狂雲とも号しました。 そして「狂雲集」とその続集には、日本の中世の漢詩、殊に禅僧の詩としては、類ひを絶し、おどろきに胆をつぶすほどの恋愛詩、閨房(けいぼう)の秘事までをあらわにした(えん)()が見えます。
22日 人間実存への志 一休は魚を食ひ、酒を飲み、女色を近づけ禅の戒律、禁制を超越し、それらかに自分を解放することによって そのころの宗教の形骸に叛逆し、そのころ戦乱で崩壊の世道人心のなかにも人間の実存、生命の本然の復活、確立を志したのでしょう。
23日 魔界入り難し 一休のいた京都紫野の大徳寺は、今日も茶道の本山ですし、一休の墨蹟も茶室の掛け物として貴ばれています。私も一休の書を二幅所蔵しています。その一幅は「仏界入り易く、魔界入り難し」と一行書きです。私はこの言葉に惹かれますから、自分でもよくこの言葉を揮毫します。意味はいろいろに読まれ、またむづかしく考えれば限り がないでせうが、「仏界入り易し」言ひ加へた、その禅の一休が私の胸に来ます。
窮極は真・善・美を目ざす芸術家にも「魔界入り難し」の願ひ、恐れの、祈りに通ふ思ひが、表にあらわれ、あるひは裏にひそむのは、運命の必然でありましょう。「魔界」なくして「仏界」はありません。そして「魔界」に入る方がむづかしいのです。心弱くてできることではありません。
24日

逢仏殺仏(ほとけにあへばほとけをころせ) 逢祖殺(そにあへば)(そをころせ)

逢仏殺仏(ほとけにあへばほとけをころせ) 逢祖殺(そにあへば)(そをころせ)」 これはよく知られた禅語ですが、他力本願と自力本願とに仏教の宗派を分けると、勿論自力の禅宗にはこのやうに激しくきびしい言葉もあるわけです。

他力本願の真宗の親鸞の「善人往生す。いはんや悪人をや」も、一休の「仏界」「魔界」と通ふ心もありますが、行きちがふ心もあります。その親鸞も「弟子一人持たず候」と云っています。「祖に逢へば祖を殺し」、「弟子一人持たず」は、また芸術の厳烈な運命でありませう。
25日 禅の「無」

禅宗には偶像崇拝はありません。禅寺にも仏像はありますけれども、修業の場、座禅して思索する堂には仏像、仏画はなく、経文の備へもなく、瞑目して、長い時間、無言、不動で座っているのです。

そして無念無想の境に入るのです。「我」をなくして「無」になるのです。この「無」は西洋風の虚無ではなく、むしろその逆で、万有が自在に通ふ空、無涯(むがい)無辺(むへん)無尽蔵(むじんぞう)の心の宇宙なのです。
26日 真理は「不立(ふりふ)文字(もんじ)」であり「言外(げんぐわい)にある 禅でも師に指導され、師と問答して啓発され、禅の古典を習学するのは勿論ですが、思索の主はあくまで自己、さとりは自分ひとりの力でひらかねばならないのです。そして、「論理」よりも「直感」です。他からの教へよりも、内に目ざめる「さとり」です。 真理は「不立文字」であり「言外」にあります。維磨(ゆいま)大師は「面壁(めんぺき)九年(くねん)」と言ひまして、洞窟の岩壁に向って九年間座りつづけながら、沈思黙考の果てに、さとりに達したと伝へられています。禅の坐禅はこの達磨の坐禅から来ています。
27日 東洋画の精神 「問へば言ふ問はねば言はぬ達磨どの 心の内になにかあるべき」 (一休)。また、同じ一休の道歌、「心とはいかなるものを言ふならん 墨絵に書きし松風の音」。 これは東洋画の精神でもあります。東洋画の空間、余白、省筆も、この墨絵の心でありませう。「能画(よくいちまい)一枝風(をかきてかぜに)有声(こえあり)」です。
28日

道の妙術

道元禅師にも「見ずや、竹の声に悟り、桃の花に心を明るむ」との言葉があります。日本の花道、生け花の名歌の池坊専応も、その「口伝(くでん)」に、

「ただ小水(こすい)尺樹(しゃくき)をもって、江山数(こうざんすう)(てい)勝機(しょうき)(おもむき)を現はし、暫時傾刻(ざんじけいこく)のあひだに、千変万化の()(きょう)をもよほす。あたかも仙家(せんか)妙術(みょうじゅつ)と言ひつべし」と言っています。 

29日 日本造園の不均整は 日本の庭園もまた大きい自然を象徴するものです。西洋の庭園が多くは均整に造られるのにくらべて、日本の庭園はたいてい不均整に造られますが、不均整は均整よりも、多くのもの、広いものを象徴出来るからでありませう。 勿論その不均整は、日本人の繊細微妙な感性によって釣り合ひが保たれての上であります。日本の造園ほど複雑、多趣、綿密、したがったむづかしい造園法はありません。 
30日 わぴ・簡素の意味するもの

「枯山水」といふ、岩や石を組み合わせるだけの法は、その「石組み」によって、そこにない山や川、また大海の波の打ち寄せるさまを現はします。その凝縮を極めると、日本の盆栽となり、盆石となります。「山水」といふ言葉には、山と水、つまり自然の景色、山水画、つまり風景画、

庭園などの意味から「ものさびたさま」とか、「さびしく、みすぼらしいこと」とかの意味まであります。
しかし「和敬(わけい)静寂(せいじゃく)」の茶道が尊ぶ「わび・さび」は、勿論むしろ心の豊かさを蔵してのことですし、極めて狭小、簡素の茶室は、かへって無辺の広さと無限の優麗(ゆうれい)とを宿してをります。
31日 一輪の「つぼみ」 一輪の花は百輪の花よりも花やかさを思はせるのです。開き切った花を活けてはならぬと、利休も教へていますが、今日の日本の茶でも、茶室の床にはただ一輪の花、しかもつぼみを生けることが多いのであります。 冬ですと、冬の季節の花、たとへば「白玉」とか「侘助」とか名づけられた椿、椿の種類のうちでも花の小さい椿、その白をえらび、ただ一つの「つぼみ」を生けます。