日本、あれやこれや その64
平成21年8月
1日 | 昭和天皇 |
「私の健康について皆が心配してくれてありがとう。どうか今年もよい年であるように希望します」(昭和天皇)。 |
このことばから約1年後、昭和64年、東京・吹上御所で昭和天皇は崩御された。20年前にもかかわらず闘病の間の国民の祈り、そして御崩御当日の悲痛とあわただしさの記憶がいまなお鮮明に残っている人も多い。 |
2日 | 天皇と国民が尊び合う世界 |
いまいちど、昭和天皇を偲び、考えるためにある先人のことばを紹介する。 |
「天下より視れば人君(天皇)程尊き者はなし。人君より視れば人民(国民)程貴き者はなし」。幕末の志士、吉田松陰の胸には、天皇と国民が同じように尊び合う世界が広がっていた。 |
3日 | 天皇は人民に無害でした |
また、司馬遼太郎は言う。「マッカーサーが、天皇様に、『私は人間である』といってもらったのはきわめて政治的なことで史的真実からいえばやはり神です。 |
神であるがために人民に無害でした。天皇の日常は、今でもそうですが、いかなる神主より神主で、神に仕える祭事がじつに多く、どんな神主より忙しいですね。少なくとも(平安時代中期の)摂関政治以後は、神もしくは神主である性格がより濃厚になった」 |
4日 | 昭和天皇 |
2人が説くところの象徴、それゆえの苦悩と悲劇を併せもった巨大な存在。 |
それが昭和天皇だったのである。 |
5日 | 空海 |
「境(環境)、心に随つて変ず。心垢しければ境濁る。境、閑なるときは心朗かなり」 (空海「性霊集」)。 |
835年、真言宗の開祖空海が高野山奥院で没した。彼自身は詩文・手紙文集である『性霊集』に「能書(字の上手な人)は必ず好筆を用ゐる」と記した。が、それとは逆の意味のことわざで有名な「弘法大師」は死後に醍醐天皇から贈られた諡だ。 |
6日 | 日本最初の思想小説家 |
さて、驚くなかれ。空海は「日本最初の思想小説家」だった。その作品とは23歳のときにつづった三教指帰である |
「学問をすれば高給が約束される。きれいな妻に山海の珍味のごちそうも夢ではない。しかも親孝行にもなるのだ」と記している。 |
7日 | 佐久間象山 |
「士は過ちなきを貴ばず、善く過ちを改むるを貴しとなす」(佐久間象山)。 |
洋学から漢学、自然科学まで精通した俊才。しかし、学者であるよりも、幕末を開国と公武(朝廷と幕府)合体で救おうとした非常の人。 |
8日 | 象山門下の二虎 |
そんな佐久間象山は旧暦で1811年、信州に生まれた。 「象山門下の二虎」といえば悲劇の志士、吉田松陰(寅次郎)と越後長岡藩を立て直した教育者、小林虎三郎だが、勝海舟(象山にとっては年下の義兄にあたる)や坂本龍馬も門下である。 |
「東洋の道徳と西洋の技術をあますところなく吸収することによって民を豊かにし、国恩に報いる」。象山の主著『省●録(せいけんろく)』には明治時代の「和魂洋才」を先取りした記述がみえる。 |
9日 |
不撓不屈の気概 |
だから「省侃」(侃の下に言)とは「過去の罪を反省する」という意味だが自分がいかに有能かを例証した内容になっているのはこの人らしい。 |
冒頭は、象山から松陰、そして“孫弟子”の高杉晋作にも伝わった名言。『省侃(侃の下に言)録』にはまた、不撓不屈の気概がのぞく。 |
10日 | とるべき道は自分で決定 |
こんなことばもある。 |
罪の有無は我の心にある。他人から押しつけられた罪など気にすることなどあろうか」 |
11日 | 吉田松陰 「真心ある天性の教育者」 |
吉田松陰はいたる所、人々を感化せずにおかぬ人であった。アメリカに渡ろうとして失敗、伊豆の下田の牢獄の中で牢番に一心に語ったことを松陰はこう記している。 「皇国の皇国たる所以、人倫の人倫たる所以 |
夷狄(欧米)の憎むべき所以を日夜高声に称説(説明)す。 獄奴蠢爾(無知)といえどもまた人心あるもの、涙をふるって吾輩の志を悲しまざるはなし」 |
12日 | 天性の仁者 |
わが国が建国以来、国家の中心に天皇をいただく理由、人間の守るべき道、日本を侵略、支配せんとする欧米を嫌悪すべき理由を懇々と説いたところ牢番が |
涙を流して話を理解し、松陰に同情を惜しまなかった。ほかの人なら牢番相手にこんな話をしたりはしない。松陰はいかなる人にもこのあたたかい情愛と真心をもって接した天性の仁者であり教育者であった。 |
13日 | やむにやまれぬ大和魂 |
下田から江戸に送られる途中、泉岳寺のそばで詠んだ歌が、 「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」である。 赤穂義士の心をうたったが、それはまた国難に命をささげて立ち上がった |
松陰のやむにやまれぬ大和魂であった。 やがて松陰は松 |
14日 | 坂本龍馬 |
天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ニ出ヅベキ事 |
古今を問わず、激動期には政局の転機が何度か訪れる。 慶応3(1867)年、土佐藩の代表、後藤象二郎が幕府の老中、板倉勝静のもとを訪れた。幕府が朝廷に政権を返上するという“秘策”をすすめる書状を提出するためだった。 |
15日 | 大政奉還の建白書 |
後世この書は「大政奉還の建白書」と呼ばれた。しかし官製文書の通弊だろう非常に婉曲な表現を使っており、作家、大佛次郎は未完の遺作『天皇の世紀』で |
「大政の奉還とも返上とも、どこにも明らかに言切ってない」と皮肉っている。その点、建白書のたたき台となった龍馬の『船中八策』は明解だ。8つの献策の筆頭に、「天下の政権を朝廷に奉還させる」(冒頭参照)とある。 |
16日 | 歴史の皮肉 |
15代将軍、徳川慶喜の決断は早かった。わずか11日後、大政奉還を朝廷に申し出た。実務能力のない朝廷は再び徳川家に政権を任せざる |
を得ない、と慶喜は読んでいた。「死中に活」の一矢が功を奏したのもつかの間だった。 2カ月後、倒幕派によるクーデター「王政復古の大号令」という一大転機が訪れる。 |
17日 | 歴史的人物の身長推定 |
坂本竜馬169センチ、武田信玄162センチだという。肖像画などで人物とともに描かれている着衣や所持品をヒントに、解剖学的に身長を推定する手法を、北里大の故・平本嘉助講師と山梨県甲州市の郷土史研究家、矢崎勝巳さんが開発した。 |
2人は、ほとんどの和服の襟幅が当時から6センチか6.5センチのいずれかであることに着目。竜馬の全身写真で身長を計算したところ、156〜169センチとなった。竜馬はかなり身長が高かったともいわれているが、平本さんが計算した江戸時代の男性の平均160センチ弱より、やや高い程度だったようだ。 |
18日 | 武田信玄 |
肖像画で扇子を持っている戦国武将の武田信玄については、徳川将軍が使用したとされる扇子の長さなどから、紙が張られた部分を17センチと推定。 |
上腕骨と身長に相関関係があることから、左上腕骨の長さを約31.5センチと見積もったところ、身長は約162センチとなった。ただし、この肖像画については信玄とは別人との説がある。 |
19日 | 淀の方、 樋口一葉 |
このほか、豊臣秀吉の側室「淀の方」は着物の襟幅と肖像画から約168センチと推定。小説家の樋口一葉は写真の襟幅から、戦国武将の加藤清正は肖像画の扇子から、それぞれ140〜146センチ、159センチと計算した。 |
肖像画から推定する場合、没後に描かれたものや写実性に乏しいもの、腕の長さが分かりにくい衣服を着たものは不適当という。矢崎さんは「推定身長なので誤差があるが、歴史を楽しむ方法としては面白いと思う」と話している。 |
20日 | 伊藤博文 |
「陛下の聖断は殆ど常に進歩の思想に傾きたまひしを以て、我が国民は遂に現在の憲法を仰ぐことを得る」(伊藤博文) |
明治22(1889)年、紀元節(新暦における神武天皇の即位の日)。皇居で厳かに大日本帝国憲法の発布式が、全国各地でも祝賀式が大々的に行われた。 |
21日 | 明治帝のご判断は進歩的 |
当時、枢密院議長だった伊藤博文は制定作業の中心人物。冒頭は「陛下のご判断がほぼ常に進歩思想を選択した結果、わが国民はこの憲法をいただくことになった」の意だ。 |
明治天皇は枢密院での制定会議には欠かさず出席した。「討論の自由」を尊重し、自ら発言することはなかったが、伊藤は会議後、明治天皇から直接質問を受ける一方、側近の話からその意向を推察したという。 |
22日 |
聞しに優る良憲法 |
東アジア初のこの憲法を「プロシア(ドイツ)の写し」「絶対主義的」とする批判はあたらない。たとえば伊藤は「議会の権限はできるだけ制約すべし」というドイツ人顧問の意見を却下して議会の法案提出権を条文化しているし行政の中 |
心は天皇ではなく、内閣総理大臣にある−という理念を譲らなかった。 「帝国憲法は日本固有法の近代的発展」とは起草者の井上毅の自賛だが、「早大の育ての親」である高田早苗は記している。「良憲法と思ふなり、聞しに優る良憲法と思ふなり」 |
23日 | 若槻礼次郎 |
「もし自分の尽力によって、なんとか纏まりがつくならば、自分の生命と名誉の如きは、何とも思わない」(若槻礼次郎)。昭和初期、日本が主役となり、最も世界平和に近づいたときではなかったか。 1930(昭和5)年、日米英を中心としたロンドン海軍 |
ドン海軍軍縮条約の調印式が行われた。22年のワシントン条約が主力艦(戦艦)や空母の保有比率を定めたのに対して、ロンドンでは補助艦(巡洋艦や潜水艦)が中心議題だった。同様の趣旨のジュネーブ会議(27年)は米英の対立で失敗に終わったが、今回は日本と米英の主張が平行線をたどり、会議は2カ月以上も空転した。 |
24日 | 共存共栄 |
冒頭は、全権の元首相、若槻礼次郎が事態の収拾にあたったときの覚悟を回想した一文にある。もちろん、代表団だけで決めることはできない。本国の浜口雄幸首相が妥協案の受諾を決定した。「今や各国互に相信頼して共存共栄を計る所の『安定時代』に到達して居(お |
)るのであります。 |
25日 | 新井白石 |
むかし人は、いふべき事あればうちいひて、その余はみだりにものいはず(新井白石『折たく柴の記』) |
の無官の老翁」として自叙伝『折たく柴の記』の序文の筆をとりはじめた。 冒頭はその書き出しである。 意訳すると、「昔の人は言うべきことがあればはっきりとものを言うが、それ以外はことばを浪費することはない」。 |
26日 | 仁愛の政治 |
白石は仏文学者、桑原武夫が「日本の百科全書家」と呼ぶほどの学者であり改革者でもあった。前将軍・徳川綱吉が「100年ののちも続けよ」と遺言した悪法「生類憐みの令」 |
の廃止を進言し、財政再建に努めた。 明治維新の150年前にあって白石は「将軍は天皇の下位」という意見をはばからなかった。また「天下には富める者は少なく、貧しい者は多い」と説き、仁愛の政治を実現しようとした。 |
27日 | 黄泉の国で白石 |
『折たく柴の記』にはそんな姿が率直に、ときには激しい筆致でつづられている。この自叙伝は、子孫たちに内々に読み聞かせるために書か |
れたのだが、刊行され、現在も読み継がれている。黄泉の国で白石はいまごろ、「しまった。少しものを言いすぎた」と顔を赤らめているかもしれない。 |
28日 |
小村寿太郎 |
「外交官は嘘をいってはなりません。どうせ一度は素晴らしい大嘘をつかんけりゃなりませんから、平常嘘が多いと効目がなくなります」(小村寿太郎) |
豪放磊落だが博覧強記で頭脳明晰。後進に冒頭のことばを残し、明治44(1911)年、56歳で死去した小村寿太郎は時代を支えた名外相だった。 |
29日 |
苦しいのは平気 |
九州の小藩の出身。文部省の第1回留学生として米ハーバード大で学んだが、父の事業の失敗を背負い込んで高利貸に追われ、勤め先の外務省では出世競争に後れを取った。 |
しかし、「苦しいのは通り越してしまって平気です」と豪快に笑いとばし、明治26年、当時は閑職だった清国臨時代理公使に就任。翌年の日清戦争前後から頭角を現し、10年後の日露戦争では外相として米ポーツマスで行われた講和会議の全権代表となった。 |
30日 | 小村には回想録的な著作がない。今回の小欄は主に次男、捷治氏の著書『骨肉』によるのだが、中にこんなエピソードがある。 |
日露講和会議への出発のさい、盛大な見送りが行われるなか、日清戦争の講和会議で全権を務めた伊藤博文は「小村、帰りは斯うは行かんぜ」とニヤリと笑う。 |
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31日 | 国民にその位な元気がなくちゃ |
その通り、賠償金を伴わない条約締結に怒った暴徒が外務省や警察を襲うのだが、帰国直後、捷治から事情を聞かされた小村の答えがふるっていた。 |
「なァに、国民にその位な元気がなくちゃいけない」 |