第28講 仁徳天皇稜と古墳黄金時代
          仁徳王朝の巨大古墳世界一の古墳を二つも造った仁徳天皇

平成26年8月

1日 巨大すぎる応神天皇稜

応神天皇稜の全長は420-430米、全長では日本第二位の巨大古墳ですが、驚くべきはその墳丘の容積です。墳墓の規模を知る指標として、墳丘の容積がありますが、応神天皇稜のそれは、何と1433960立方メートルに及ぶのです。

2日 世界一の
超巨大古墳

これだけの土を積み上げるには、毎日1000人の人間を動員しても約4年もの歳月を要するとみられ、これ以上に大量の土を盛り上げた墳墓は他に例があろうばすもなく、墳丘の容積という点では間違いなく世界一です。而も、内湟(ないこう)()の外提に幅40メートル、高さ3メートルの提が築かれ、その外側にもう一つの外湟が巡らされており、二重の(ほり)で囲われています。

3日

つまり応神天皇稜は、平地に二重の周湟(しゅうこう)を以って隔離されて造られた世界一の容積をもつ超巨大古墳なのです。
墳丘と二重の外提の工事だけでも相当な仕事量ですが、墳丘には土砂の流出を防ぐための葺石も敷かれています。葺石に使われた石は和泉砂岩ですから、近くの大和川や石川から持ってきて積み上げているのです。

4日 労働力と技術が並大抵のものではなかった

さらに、円筒埴輪を並べて土留めに使っていますが、この円筒埴輪の数が実に12800個あったと推定されます。これだけの工事を完成させるために要した労働力と技術が並大抵のものではなかった事は誰の目にも明らかです。

5日 註  砂岩
堆積岩の一。石英、長石などの砂粒が水中に沈殿固結したもの。

大和川
奈良県北部から大阪府の中央へ流れる川。笠置山
地に発源、大阪湾へ注ぐ。

6日 想像を絶する
仁徳天皇稜

応神天皇稜一つを構築するだけでも驚くべき権力ですが、仁徳天皇はさらに応神天皇稜を凌ぐような寿陵を造っています。普通は一人の天皇は前天皇の古墳を造営したとみられますが、仁徳天皇は父親である応神天皇の超巨大な古墳ばかりか、生前に自分のための超巨大古墳まで造っているのです。こうした寿陵は仁徳天皇以に記録なく、二つの巨大古墳を造った仁徳天皇の権力の大きさは想像を絶するものであつたと言わねばなりません。

7日 想像を絶する
仁徳天皇稜
その二

寿陵である仁徳天皇稜は、周囲が一里=4キロ米にも達します。墳丘の主軸の長さは475米、前方部の幅は305米、前方部の高さは27米、後円部の円墳の方の直径が245米、高さ30米という巨大さです。

築造当時の土量は、計算によると1405866立方メートル。もし一立方メートルの土を運搬する距離を平均250米とみて(大半を周囲の三重の周湟から掘りあげたと見る)、これを一日一人で運ぶとすると、全土量運搬に要する人員は1406千人に近いものとなります。応神天皇稜と同じく一日1000人で約4年、5トン積みトラックに換算すると、なんと562千余分ということになります。

8日 想像を絶する
仁徳天皇稜
その三

さらに、円筒埴輪が墳丘に四重、周湟(しゅうこう)の外提に三重に巡らされており、円筒埴輪の総数は優に2万個を超える数になります。

しかも、墳丘には応神天皇陵の場合と同じように葺石が用いられており、葺石には和泉砂岩と花崗岩が用いられておりますので、やはり付近を流れている大和川や石津川、あるいは石川から採取して運搬してきたものだと見られます。その量たるやトラックに換算すれば、数千台分になると言われています。

9日 エジプトのピラミッドも秦の始皇帝の御陵も、基底面積では仁徳天皇稜の相手にならない

陵墓の面積には、三重の周湟(しゅうこう)を含めて、全面積464千坪。墳域の基底面積では正に世界一の大墳丘です。エジプトのピラミッドも秦の始皇帝の御陵も、基底面積では仁徳天皇稜の相手にならないのです。 

註 花崗岩

深成岩の一。石英・成長石・斜長石・雲母などを主成分とする岩石。 

10日 中期古墳の典型的巨大前方後円墳 応神・仁徳両天皇の御陵は、ともに中期古墳の典型的な大前方後円墳とされています。中期古墳の一つの特色は、平地もしくは台地上に悠然と巨大古墳が構築されていることです。平地ですから、全景を見ることができるわけで、古墳の驚異的な規模は人の目を見開かせ、王朝の権威を大きさを人々に認識させたものと思われます。
11日

私自身も堺におりましたが、堺の海岸から泳ぎながら眺めると、丘陵の上に大きな墳丘が小山のように見えました。子供の時からよく巨大な中期古墳を見ていたわけですが、兎に角大きいとしかいいようがありません。

12日 二つの大規模古墳の権威

応神・仁徳両天皇稜、この二つの大規模古墳を築き上げた仁徳天皇の実力、人民を支配し膨大な労働力を投下することの出来たその権威の大きさは、形容し難い程に偉大なものであったと見るしかないでしょう。

13日

副葬品の変化が意味するもの

応神・仁徳両天皇稜を典型例とする中期古墳は、前期古墳に対してその外観の巨大さが目立ちますが、史学的には副葬品の変化も注目されます。

14日 莫大な数量の石製模造品を埋葬

仁徳王朝の天皇陵を中心とする中期古墳群は、金冠・耳飾り・(たい)(こう)その他の装身具、青銅・金銅・鉄製の甲冑、金銀製の刀剣、その他の武器と利器、乗馬の慣習を示す馬具類、それに大量生産されたと見られる莫大な数量の石製模造品を埋葬しています。それらのものを見ますと、前期古墳にみられる、宝器的な器物から実用器具類の副葬への顕著な変化を指摘することができます。総じて、副葬品は宗教的な色彩を薄め、葬られている大王の権力、富力、武力を象徴するものへと変化しているのです。

15日 仁徳天皇陵からの出土品

ちなみに、仁徳天皇陵は正式に発掘されたことはないのですが、明治の初めに台風の影響で一部が崩れて石室が出てきた時、当時の県令が盗掘し、出土品を大阪の骨董具屋に売ったと言われています。その経緯はともかく、実際、骨董具屋には仁徳天皇からの出土品とみてよい目録が残っていたのです。出土品はすぐに売り出されて、現在はボストンあたりの博物館にあると言われ、少なくとも日本にはありません。然し、目録を見ただけでも副葬が前期古墳時代のものとは一変したことがはっきり分るのです。

16日 註 
帯鉋
中国の戦国時代から漢代にかけて行われた帯金具。革帯の端につけてかけ合わした鋳造有文の鉤。
17日 甲(鎧)

板甲と小札を綴り合わせた札甲に大別され、板甲 は歩兵用、札甲は騎兵用として騎馬民の間に盛行。日本では古墳時代に短甲と挂甲の二種の鉄甲がみられ、短甲は前期に出現。

18日 頭部から頚部を防禦するもの。鉢と(しころ)からなる。古墳中期はじめに(しょう)(かく)付冑が、中期中頃から()(ひさし)付冑が出現
19日 馬具 乗馬用具の総称。騎馬・(ばん)()などの用途に応じた装具一式。付属装飾具を含む。
20日 県令 1871年、明治4年、廃藩置県により任命された県の長官。86年知事と改称。
21日 仁徳王朝が行った社会変革 これまで見てきたような前期古墳と中期古墳との規模・副葬品における差異、そこには両時代の一線的な発展・つながりは希薄で政治・文化・経済を包括する社会状態に変革があったことを見てとれます。
22日

即ち、平野もしくき台地上に膨大な封土を盛り上げて構築されている小山のような中期古墳、それを取り囲む周湟の美しさ。

23日
--31日
強大な権力と統制力を獲得・維持

そして当時としては最高級の実用器具類からなる膨大量の副葬品、それらは全て専制君主化した天皇の権力と統制力の象徴とみるべきものです。 
そして、そのような強大な天皇の権力を支えたのは何かと言えば農業生産高の飛躍的な増大を主軸とした社会的変革だと考えられるのです。 
中期古墳時代、つまり仁徳王朝が支配した第五世紀という時代は、鉄製農具の普及によって水稲耕作技術が発達し、大規模な河内平野の開拓が行われ、農業生産高が著しく向上したことが知られています。 仁徳王朝は、そうした農業生産高の増大策を積極的に推進し、豊富な農業生産物を掌握することによって、強大な権力と統制力を獲得・維持したのです。 
巨大な中期古墳の構築という大土木工事を完遂する為には、当然、莫大な労働力の収奪があったわけですが、それが可能だったのは農業生産高の向上があったればこそだったのです。