礼儀作法・躾の喪失
生徒は作文の好きな子供には作文を勝手に作らせる。読書の好きな者には勝手に読書させる。習字の好きな者には習字、子供は雑然紛然として騒いでいる。校庭に出て見ると、いたいけな子供が先生に対して「おい君」と云って飛びついている。何にも礼儀作法というようにものがない。
それを先生が頭を撫でて、うちの学校の子供は自由主義教育に養われてこの通り無邪気でなんら咎められておらない。すくすく伸びている・・・泥棒にも三分の理といいますが、口は調法なもので何とでも理屈はつくものです。そういう教育をやっていた。今日もそれを蒸し返しているのです。そこで大正頃からして「礼儀作法・躾」というものが欠け始めた。
逆転した礼儀作法
ヨーロッパ、アメリカに参りましても、マナー、エチケット、ジェントルマンシップというようなことは厳しいですが、中国でもことに厳しい。
処が、それに較べると日本の知識階級、日本の紳士階級は甚だ礼儀作法がない。むしろ礼儀作法を屈辱のように考える。甚だ無礼です。これが為に、日本人が軽蔑した大陸民族、南方民族に逆に軽蔑された。
身言書判の中国
中国では人を見るに、あれは大学出であるとか専門学校出であるとかいうようなことはない。身言書判と言いまして、これが古来「人を見る四つの原則」でありました。
身は言うまでもなく「風采人相」であります。中国人くらい人相をやかましく言うものはない。例え資格試験に及第したとしても人相の悪い者は中国人はなかなか許さぬ。中国人の知識階級の生活を支配するものは想像以上に「人相」と「易」です。人相から始まって、風采、態度。
身それから「言」は言うまでもなく「言辞弁舌」であります。
書は「筆跡」、判は、今日で言うと「知識」や「見識」です。
自由主義のだらしなさ
この身言書判のようなことを全く時代錯誤的なもの、反自由主義、反デモクラティックなものとして日本人は軽蔑した。今日は一面書道なども盛んになって来ましたが、大体明治末期から、大正、昭和にかけて育った者は、文字なんというものを書ける人は幾らもない。皆、折釘みたいな字しか書けない。
文字そのものを粗末にしてこれを悪む。すべてこうしたわけでは、この時代に育った者は一様にだらしがない。それは、この自由主義思想デモクラシー思想の変質され、歪曲されたもの、及び共産主義と資本主義とに通ずる唯物主義、金儲け第一主義、経済至上主義というようなものの影響であります。
安岡正篤先生の言葉