「天皇」 最高の危機管理機構 3  佐々淳行氏 

平成23年8月度

1日

皇后陛下の重み

さて、ここまで、天皇陛下について述べてきたが、忘れてならないのが皇后陛下の重みである。日本文化の保護者、体現者としての美智子皇后の歩みは、特筆に値する。
2日 養蚕

特に、皇后陛下が熱心に取り組まれているのが養蚕だ。これは近代では明治4年、昭憲皇太后(明治天皇妃)からの伝統だが、日本の純粋種の蚕・小石丸は御養蚕所でしか養育されていない。

3日 小石丸

この蚕は、昭和期に養育中止が検討されたが、美智子皇太子妃が継続を主張された経緯がある。小石丸は、正倉院の染色品復元に不可欠なことが分り、現在、皇后陛下が増産に協力されている。

4日 皇后陛下の御歌の世界

また、皇后陛下の御歌の世界は、「祈り」が込められている。そこには、報道では伝わってこない感性や思い、願いが刻まれているのである。その幾つかを挙げてみたい。

5日 秋蚕

「秋蚕」
時折に 糸吐かずをり 薄き繭の    中なる姿 疲れしならむ 

「道」 平成7

かの時に 我がとらざりし (わか)()れの片への道は いづこ行きなむ

6日

御結婚から36年を経て、「あの時に、別の選択をしておれば、」という思い・・・。そして「嫁ぐ日、何も言わずに私を抱きしめてくれました」という御母堂・正田富美様を慮って詠まれたのが次の作品だ。

「母」

子に告げぬ (かな)しみもあらむ (ははそ)()(すが)やかに 老い給ひけり

7日 毎月一日に行われる天皇御自身による神事・(しゅん)(さい)

次ぎは、古式ゆかしい直衣(のうし)で宮中三殿に向かう陛下を見送られる光景を詠まれた御歌である。 

「旬祭」平成2

神まつる 昔の手ぶり 守らむと 旬祭に()たす 君をかしこむ

 月の冴え渡る未明、年頭の儀式に出発される天皇陛下を見送られる皇后陛下の姿が鮮やかに浮ぶ御歌も詠まれている。

8日 旦祭

「月」平成19

年ごとに 月の在りどを 確かむる

(さい)(たん)(さい)に 君を送りて 

9日 硫黄島

両陛下の慰霊の旅で詠まれた歌も、われわれの心を捉えて離さない。

平成6年、硫黄島にて

慰霊地は 今安らかに 水をたたふ

如何ばかり君ら 水を()りけむ

10日 サイパン

平成17年、サイパンにて

いまはとて 島果ての崖 踏みけりしをみなの()(うら) 思へばかなし

皇室と火炎ビン
11日 昭和50

皇太子殿下と皇太子妃の沖縄行啓

警察の警備・危機管理畑を歩んできた私にとって忘れられない年がある。それが昭和50年である。この年は、先帝陛下在位50周年であり、左翼過激派が「天皇制打破」、「天皇訪米中止」を標榜して激しい反対闘争を繰り広げていた。その真っ只中の同年7月、皇太子殿下と皇太子妃が沖縄を行啓されることになった。

12日

難波大介の「虎ノ門事件」以後、戦後の荒廃の時代にも、天皇や皇太子に対する暗殺や傷害のテロは一度も起きなかった。

13日 嘆かわしい沖縄の火炎ビン

処が、ベトナム戦争や中国の文化大革命、紅衛兵暴動の余波を受けた。いわゆる、第二次反日米安保条約反対闘争の嵐と共に、再び天皇戦犯論など反皇室闘争が極左過激派によって勃発し、坂下門突入事件、昭和天皇訪米阻止闘争、沖縄返還阻止闘争など、天皇皇太子を狙っての爆弾・火炎ビン闘争が多発した。特に、昭和50年は最悪の年になった。

14日 逃げた沖縄県警の卑怯

この年、皇太子・同妃殿下を狙った火炎ビン投擲(とうてき)事件が、717日、沖縄海洋博覧開会式に際し、昭和天皇の御名代として皇族として戦後初めて沖縄に行啓された皇太子・同妃殿下に対する「ひめゆりの塔火炎ビン事件」と、915日、第30回三重県国体夏季大会に御臨席の、同じく皇太子・同妃殿下に対する「伊勢神宮(かぜ)日祈宮(ひのみのみや)火炎ビン事件」と、僅か2ヵ月前の間に二回「平成の虎ノ門事件」と呼ぶべき大事件が起きた。奇しくも私は「戦後二回しかない「大逆事件」の警備責任者(724日警察庁警備課長 915日三重県警本部長)だったのである。

15日 皇族初の沖縄訪問

私は警察庁から沖縄へ、その警備責任者として派遣された。國際海洋博開催に伴う沖縄訪問であり、昭和天皇の名代としての行啓だった。そして大東亜戦争後、皇族としては初の沖縄訪問であった。

16日

逃げた沖縄県警

当時、沖縄の本土に対する敵対感情は強く、過激派の活動も活発だった。私は、ひめゆりの塔の行啓に際して、事前に塔の前にある岩穴の安全確認を求めた。鬱蒼とした昼なお暗い壕であり、不穏分子が攻撃的な行動を起こすには最適の場所だったからである。当然のこととして、事前検索する予定にして沖縄県警に指示を出した。

17日 安全確認を行えないまま行啓とは、怪しからぬ屋良朝苗知事と沖縄県警本部担当者

処が、沖縄県警本部担当者や屋良朝苗知事からは「ひめゆりの塔」を事前検索せよ?あそこは沖縄戦で女子挺身隊の女学生が殺された聖域です。それを警察庁が土足で踏み荒らすことは、県民感情を逆なでする行為です」と強い反発を受けた。何とか事前検索だけはしないと、と手を尽したが全て却下され事前の安全確認を行えないまま行啓の日を迎えた。 

18日 沖縄県警の怠慢


沖縄解放同盟と
赤ヘル過激分子が
火炎ビンを投げつけた

悪い予感は的中した。沖縄解放同盟(黒ヘル)と戦旗派(赤ヘル)の過激分子2名が、数日前から壕内に潜んで攻撃を準備していた。そして同月17日、ひめゆりの塔を訪れた皇太子・同妃殿下御夫妻をめがけて火炎ビンを投げつけた。幸い、火炎ビンはそれて献花台を直撃して炎上。皇太子妃が警官にかばわれて避難される途中で打撲傷を負われたものの、それ以外の被害は起こらなかった。

19日 皇太子御夫妻のご胆識、見習え民主党政治家ども

そして皇太子御夫妻は、一言の文句もおっしゃることなく、スケジュールを、まるで何事も無かったように微笑を絶やすことなく全て予定通りこなされたのである。

20日 美智子妃殿下

当時ご不例だった美智子妃にとって沖縄行啓がどれ程お辛いものだったか、お傍に供奉(ぐぶ)した私は本当に頭の下がる思いだった。

21日 屋良知事以下、沖縄県側からの返答の酷さ

これが日本人か!

また慰霊碑・健児の塔の御訪問も、酷暑の炎天下、百段近い階段を上って頂くのは余りに酷なため、私は、車で丘の上まで上った後に階段を数段下りるルートを提案した。しかし、屋良知事以下、沖縄県側からの返答は「これは贖罪である。車を使うことなど、まかりならん」という苛酷なものだった。

22日 皇太子御夫妻の感動的な御態度に感涙

それに対しても、何の不満も漏らされぬことなく行啓され、18万柱が眠る()()()の丘では、「深い悲しみと痛みを覚えます」という天皇陛下のお言葉を代読されたのである。

23日 その時、皇太子殿下

ひめゆりの塔事件のように、いきなり火炎ビンを投げつけられれば、男性でも後ずさりするのが一般的だろう。実際、沖縄県警は退避してしまい、残ったのは皇宮警察本部の警衛官17名のみだった。その時、皇太子妃は皇太子殿下の前に半歩進まれ片手を殿下の前に差し出し、身を挺して暴漢から守ろうとされたのである。その光景は今も私の目に焼きついて離れない。

24日 異例とも言える談話

「伊勢神宮(かぜ)日祈宮(ひのみのみや)火炎ビン事件」は両殿下が内宮御参拝を終え、別宮でご休憩の隙を狙い、内宮の(かぜ)日祈宮(ひのみのみや)に火炎ビンをぶつけた事件で幸い御近辺は御安泰だった。折々の記者会見などにおいては、抑制のきいた表現や発言を心がけていらっしゃる皇后陛下だが、平成141020日、拉致被害者5人の帰国に際して、異例とも言える談話を発表された。

25日 ご自身の至らなさを叱責されるような厳しさが滲み出るような皇后陛下の談話

「なぜ私達みなが、自分たち共同社会の出来事として、この人々の不在をもっと強く意識し続けることができなかったかという思いを消すことはできません。今回帰ることのできなかった人々の家族の気持ちを察するに余りあり、その一入(ひとしお)の淋しさを思います」。
ご自身の至らなさを叱責されるような厳しさが滲み出るような談話に接し私は粛然とする思いだった。皇后陛下は、国民に対してはその安寧を祈られる慈母、国母陛下として臨まれているが、御自身に対しては極めて厳格に対されていらっしゃることが浮き彫りになってくる感じがした。

26日 ヴ・ナロード

昭和天皇の全国行脚に発揮された、日本的「ヴ・ナロード」(人民の中へ)の帝王学は、明らかに今上(きんじょう)天皇に受け継がれた。それは、天災地変の自然災害国日本では避けることの出来ない何年に一度かの地震・台風などで被災した日本国民に対する皇室のお見舞いのための行幸啓である。

27日 ゆさぶられるような感動

昭和50年、昭和天皇御在位50周年に行啓された皇太子・同妃両殿下が鳥羽観光ホテルにお泊りになられた折、鳥羽警察署長小谷警視がエレベーター脇に佇立(ちょりつ)していた。私が両殿下に「この小谷署長は、伊勢湾台風の警備中、妻子が水害を受けて亡くなられた警察官です」と囁いたところ、両殿下はわざわざ小谷署長に近寄り「御家族を伊勢湾台風の警備中に失われた旨、心からお悔やみ申し上げます」。とお声をかけられ、小谷署長は魂をゆさぶられるような感動で涙ぐんだ。このことは忽ち全警察官に伝わり、両殿下の御心に一同感激した。

28日 御不例は誠に痛ましい

これまで見てきたように日本文化の継承者であり、伝達者であられた今上天皇と美智子皇后の御不例は誠に痛ましい。

29日 弟君・秋篠宮文仁親王を「摂政宮」とし、

秋篠宮妃紀子殿下を「摂政妃」とし、

悠仁親王には、

当代最高の傅役(ふやく)

誠実無比なお人柄から、老躯病体ながら、なお懸命に御公務に勤められるお姿と美智子妃殿下の献身的なお心配りを拝見していると、いたたまれない思いだ。昭和天皇の大喪の礼の警備を司った私としては、生涯に二度も大喪の礼を見たくない。両殿下には休養して長生きして頂きたい。そのために可及的速やかに必要な法改正を行なって「立太子礼」を行って、弟君・秋篠宮文仁親王を「摂政宮」とし、秋篠宮妃紀子殿下を「摂政妃」とし、悠仁親王には、当代最高の傅役(ふやく)をつけ、幼いうちから「帝王学」をお教えして、男系の将来の天皇を傅育(ふいく)しなければならないと思う。

30日 「皇后学」を継承できる女性皇族

そして、今上天皇・皇后御静養と共に、皇太子妃雅子殿下の病気療養を本格化し、その早期治療を祈り、御静養中に76歳となられた美智子皇后が築き上げてこられた「皇后学」を継承できる女性皇族として徹底した傅育(ふいく)をすることが大切だ。皇室行事は宗教的祭主として極めて重要な公務であり義務である。被災民激励のための行幸も国母陛下の公務である。皇后は国母でなければいけない。

31日 秋篠宮文仁親王妃紀子殿下はその重責に耐えられる女性と皇族は見ている

国民は、沈黙しているが現状では秋篠宮文仁親王妃紀子殿下はその重責に耐えられる女性と皇族は見ているのではないだろうか。そして、国家危機管理の機関でもある天皇制を護持することは、日米安全保障条約堅持と共に、日本民族生存のために不可欠の国体ではないのだろうか。 
皇位継承の問題は、内閣総理大臣がその政治生命を賭して決断すべき内閣総理大臣の義務である。
必要があれば摂政制を採用するのか、しないのか、安倍内閣で成立した「国民投票法」を改正して国民投票に附しても可及的速やかになすべき一大政治課題である。
菅直人総理、果してその覚悟ありや?