清貧(せいひん)に就いての考察 その四 


  平和22年8月              岫雲斎圀典「清貧に関する考察」索引     

 1日

光甫の言葉がある。本阿弥家は智慧のある者はいなかったが先祖に心がけの良い者がいたためか、今日まで神仏の冥加に適って参った。天命を恐れ、善悪の報い必ずあることを恐れる故に非道を行わず決して間違ったことをしてこなかったと。

 2日

更に続く、わけても家業である刀剣の扱いは我が家の一大事であって、その目利き穿鑿(せんさく)の厳しく厳格なことは、心に曇りあるような人には到底推量できぬくらいである、と。

 3日

「天命恐れる心」がまずあって、その「見えぬ存在」を恐れる故にわが心に叶わぬ非道は決して行わない。この自らの律に従って生きてきたのである。

 4日

ゼントルマンには「名誉」は欠くべからざるものである。名誉とは、世間の評判のことではなく、自尊心をー従って高潔、無欠、自足をー意味したのである。金は軽蔑すべきもので本質的なものではないと考えていたのがフィリップ・メイソン。無形の人格の方が金よりより重要だと考えていたのである。

 5日

紳士というものは、社交の席では絶対に金銭の話などしない。日本人にはそのようなものが流れていた。私などの世代には残っている。利得しか考えない者は軽蔑されていたのである。

 6日

日本人は嘗っては、人前では金銭の話をするのを卑しんだ。何よりも名誉を重んじ、高潔に振舞うことを尊んだ。天下国家を論じる時、見識ある人物を重んじ利得しか念頭に無い人物を軽蔑したのである。人間として大切な「無形の人格」にかかわる事柄と信じていたからである。

 7日

人の心が豊かであるか、貧しいかは、その人が大邸宅に住んでいるかとか富貴であるとかではない。まして権勢を誇ることでもない。専ら、その人の心持の高雅であるか卑陋であるかであるという考え方し、矢張り仏教に由来するものではあるまいか。 

 8日

人間には大事な価値があると最初に教えたのが仏教であろう。現世の価値―他人より多くの富や権力を持つものが崇められるーに対して、目に見えないもう一つの価値の世界がある、それは仏陀の教える心の救済に関わる世界である。

 9日

即ち、人が本当に幸福になるかなからぬかは現世の成功や失敗によってではなく、心という誰もが与えられてはいるが日頃は欲望に覆われて曇らされている世界にかかわることだと、形而上的な体系を教えたのが日本では仏教である。

10日

仏教は現在は、見る影もなく堕落しており、葬式坊主と言われるくらいである。鎌倉時代の僧侶は、「魂の救済者」なのであった。現世の中に彼岸の価値体系を披露し人に「心の世界」を教える使徒であったのだ。

11日

往生要集という十世紀の源信という僧侶の書いた書物がある。
「足ることを知らば(ひん)といへども()と名づくべし、財ありとも欲多ければこれを貧と名づく」と云っている。

12日

日本仏教の始祖である法然、親鸞、道元、日蓮、空海など、その影響力はヨーロッパ社会の於けるキリスト教のそれに匹敵するものであろう。

13日

これらの日仏教の始祖たちにより、当時の人々は、欲望の支配する現世の価値観以外に、もっと人間にとり大きな魂の救済にかかわる一大世界があることを知り目を開いたのだ。

14日

日本人が形而上的な世界の価値を知ったのは仏教によってであった。日本人の精神世界の革命であり中世から近世にかけて人々は最も熱烈に、犠牲になることを恐れず仏教を信じたのであった。

15日

神仏と言う目に見えない存在に絶対的価値を置き信じたとは実に大変なことであった。その垂直な関係、その役割こそ宗教であるが現代宗教はそれを失い、形骸化させてしまつたままだ。「目に見えぬ存在」を畏れる心を失った現代人の悲哀を見る。ここに不幸の源泉があるのではないか。

16日

この垂直で、絶対的な存在を喪失した現代人は、法律とか評判とかの関係のみとなり、「内に自から律するもの」を持たなくなり社会が荒れてきたのであろう。 

17日

鴨長明(かものちょうめい)という歌人が「方丈記(ほうじょうき)」を書いている。50歳で出家遁世し、戦乱の世の中で隠者となり世を捨てて生きた記録である。人間の本音がよく表現されており戦前の日本人によく愛読されてきたものである。

18日

方丈(ほうじょう)とは、一丈四方の意味で、その程度の住まいのことである。彼は、めんめんたる未練と恨みをもって出家した。ぎりぎりの最後まで現世に執着し抜いてから世を捨てたのである。それが、どうして方丈の暮らしを良しとしたのか。

19日

長い文章だから要点のみとする。――(それ)三界(さんがい)(ただ)心ヒトツナリ。心(もし)安カラズハ、(ぞう)()(しち)(ちん)モヨシナク、宮殿・楼閣モノゾミナシ。――長明はこのように、この世で一番大事なの心が安らかであるかどうかであるとしている。

20日

続けよう。――ワレ、今、身ノ為ニムスベリ。人ノ為ニツクラズ。――住まいは自分の為に作ったと言っているのだ。自分の心の満足のためにである。――タダ、仮ノ(いおり)ノミ長閑(のど)ケクシテ、恐レナシ。――と、満足している。

21日

(それ)三界(さんがい)(ただ)心ヒトツナリ。人間が活動する世界では「心ひとつ」の持ち方如何で、価値感が逆転するのである。その自分という人間を真っ直ぐに支える為には、目に見えない存在に対する畏れが必要なのではあるまいか。現代人はそれを持ち合わせていないから本当に幸せは得られないのではないか。

22日

戦後の社会に、社会として規範がない、一人の人間にも規範が抜けている。そして「損得」のみがあらゆる価値の「尺度」として跋扈しているから社会が乱れていると私は思う。全てが数字で計られ、あからさまなる実利主義一辺倒に原因がある。清貧など見向きもされない、何時になればこの清らかな生き方に目が覚めるのか。

23日

良寛さんの代表作がある。
生涯 身を立つるに(ものう)騰々(とうとう) 天真に(まか)嚢中(のうちゅう) 三升(さんしょう)の米炉辺(ろへん) 一束(いっそく)(たきぎ)誰か問わん(めい)()の跡 何ぞ知らん名利(みょうり)(ちり)()()

24日

口語的意訳をしてみると。
自分は、立身出世とか金儲けだとか栄達だの、そういう事に心労するのが嫌で全て天のなすままにしてきた。いま自分にはこの草庵の頭陀(ずだ)(ぶくろ)の中には(こつ)(じき)をして貰ってきた米が三升(さんしょう)あるだけだ。炉辺には一束(ひとたば)(たきぎ)があるだけ。そういう極限の不安な状態にあるのだけど、これだけあれば充分だ。迷いだの悟りだのと言うことは知らん。まして名声だの利得などは問題ではないわい。私は、夜の雨がしとしとと降る草庵の(うち)にあって二本の(あし)をのどかに伸ばして満ち足りているよ。

25日

戦後文明に甘やかされた人間の脆弱さはとてもこんな環境では生きてゆかれない。到底こんな心境にもこんな環境にもなれるわけがない。だが、この世界は、どこか我々を惹きつけてやまないものがある。一つの理想世界が見事に描かれている。飽食時代にいるから却ってこのような境涯に惹かれるのであろうか。

26日

然し、私の年代は、戦時中に、この嚢中(のうちゅう) 三升(さんしょう)の米を経験している。米は配給制で一日、一合五勺の生活を強いられていた。だから精神的に強いものがあるのかも知れない。 

27日

敗戦前後の物の無い時代を生き抜いてきた経験があるから、寒い夜に暖かい寝床に入ることが大層有難く感謝するのである。戦前はそれなりの素封家でも決して現在の庶民より上の生活ではなかった。現代の人々には感謝の心に実感が薄れた。

28日

だから、身辺を常に欠乏状態近くにしておけば、それが感謝の気持ちで生きることの工夫となるのではないか。

29日

悠々たる良寛さんは「常ニ黙々トシテ、動作閑雅、(あまり)()ルガ。心広ケレバユタカナリトハ、コノコトナランであったらしい。 

30日

最低限の生存環境にある良寛さん、だが心が自由で囚われないから、身体もゆたかで、立ち居振る舞いの動作は洵に閑雅、ゆったりと内から溢れてくるものがあるようなのでしょう。

31日

色々と書き連ねたが、高雅な心事とでも呼ぶべき良寛さんの姿が彷彿として浮んでくる。来月からは更に良寛さんに打ち込んでみたい。