社会を良くする為の「一考察」
誰しも、自分が生活している地域の社会を良くしたい、それに異議を唱える人はいまい。
その為には、地域住民の全てが同じ主義主張とか生活感覚を持たねばとても難しい。
処が、親子・兄弟と雖も意見や主義主張は異なる。と言うことは「全ての人間の数だけの主義主張が存在する」ということである。
日本で言えば、一億二千万人の主張があると見て差し支えない。それらが構成している社会や国家を良くしようと思うことは、途轍もない遠大な理想論となる。神様でも無理なのである。
そのような人間集団、そして自分独りでは絶対に生きて行かれぬ人間、その人間が構成する社会を、より良くする為には、
「一人一人の人間」が「自分勝手な事」を主張していては絶対に社会は良くならぬということとなる。
社会・組織全体のために「個の制約」が不可欠なのである。
最低限の社会的ルールである「法」があるが、これはズルイ人間の生み出す「悪」の後追いをするもので、「法」のみでは決して「いい社会」は生み出せない。
一人ひとりの「個」が「倫理という法」を持たねば全体が巧く機能しないのが人間社会なのである。
現代の日本人には「もう一歩」の踏み込みが絶対に「社会をよくする為」に必要なのである。
戦前までの過去の日本民族の中には、その「仕組み」が存在した。戦後は、「個人の自由」はしたい放題で、「個人の社会全体に対する義務を放棄」したままである。
これでは社会全体が歪なものになるのは明白であり、動物以下の社会へ進む、現実にそのような社会現象が日々発生している。
個人の社会に対する義務的なものは、人間一人一人の「心の中」に「それなりに自己完結した法体系」を成人までに身につけ、保有する仕組みが存在しなくてはならないのである。
それを「倫理とか道徳」と言ってもいいが、「一人一人が社会的最低限の心得」として身につけていないから社会が劣化し悪化しているのである。
と言うことは、人間一人一人の個人がその社会に存在し、生かせて貰う為に「絶対必要不可欠なルール」を確立しなくてはならぬということになる。
戦後の社会は、その努力も教育も完全に放置し、人間は「気随気ままに大人になってしまった日本人ばかり」となっているのである。
「個の社会に対する義務が完全に放棄されている」。
「個」の制約がなく、放縦な社会になっている。原因があるから結果が生じているにすぎないのである。
社会を良くしようとの教育も努力も真剣にやらないでいるから今日の日本の社会のような、先祖に申し訳ないような社会を招いたのである。
大分県の「教員試験」など、民主主義・人間平等の観点から「最高に悪質」で絞首刑ものである。
倫理とか道徳というと頭から毛嫌いする思想は完全に間違いなのである。共産主義とか社会主義とかリベラルとかは、「決して現実の生活社会を良くしようとしない欺瞞が存在する」と言えるのである。
私のこの主張の延長線上には、「個」の制約、即ち、「人権も当然制約されるべきだ」という事になるのである。
当然なことである。
全体社会をよくする為には「個の適切な制約が不可欠なのである」。
このような「意見」が澎湃として出でこなくては日本は四等国民のままなのである。社会も人間も益々劣化し、悪化するてであろう。
平成20年8月1日
徳永日本学研究所 代表 徳永圀典