傘寿」記念特集   雲斎の「回想」その八人生とご縁と宗教  

平和22年8月                       「岫雲斎の回想」−−総括索引

 1日 五蘊(ごうん)(くう) 執着なきはこの世の生き物に非ずだが。諸行とは因縁により造られた一切のもの。これらが連続して流れ、一瞬にして滅する。無常なるものは苦というから第四法印は一切(いっさい)()となる。諸法の法は行と同じで、心身環境を構成する五蘊を空と見る。物質、感覚、知覚、意志、認識のことである。我は存在せず、我々の生命は常に躍動してやまない。我々の生命は一息、一息、一呼吸の中にこそある。 常在(じょうざい)、不変化の実体(じったい)()は存在しない。これが諸法無我。
この原理の上に宗教的実践を行うのが涅槃寂静。現実的には無我であるべき我に執着するが、これを制し、律して自立自由になった時こそ、涅槃寂静である。
涅槃は本質的には煩悩の火を消すこと、解脱(げだつ)を意味する。この涅槃の状態を寂静(じゃくじょう)という。
自分を縛っているものからの解放、即ち心の浄土である。
 2日 在るがままに 無常の法は、思考や論理から出発したものではなく、在るがままの現実から把握したものでなくてはなるまい。滅びさったものに感傷を抱くことに仏教は無縁、地上にあるものが無常の劫火(ごうか)に焼かれて滅ぶ(すがた)を在るがままに見ているにすぎない。 苦とは生老病死、再び戻らぬから死を悲しむのは無益、[もう私の力の及ばぬもの]と悟り悲観を去らねばなるまい。霊魂は実在するかしないか、死後の世界が在るかどおかを推論するのが分別で、この分別を超えた世界を仏陀のみが観たのであろう。
 3日 無常を出発点に 仏は創造神ではない、現に存在しているもの、存在に着目し、目前の現象が縁によっていることを見極めるものではないか。仏法にとって真理とは在るがままの現実が無常であり 在るがままの現実を無常法と観ることを出発点とするのだ思う。宗教は証明や論証がなされるものではない、稀有(けう)な資質を持つ人のみが、厳しい長い苦行の後に体得するものなのであろう。
 4日 縁起について。 人生は苦であるのは無明(むみょう)に基ずく。無明がある限り、老死(ろうし)があり、苦がある。般若心経に[無明もなく、無明も尽きることもなく、老死もなく、老死も尽きることもなし]とある。仏陀の目指した人間苦の除去の為には無明、無苦を明らめねばならぬ。 それには人間の迷いの元である12縁起の連鎖を断ち切らねばならぬ。12項目を否定すれば悟りの生き方になる。生も死もすべて無常で、無我で、縁起したものにすぎないと観ることだ。すべてが無常で、無我であると体得した時、人は仏-覚者になる。
 5日 ()聖諦(せいたい)
(たい)とは優れた真理のこと。人生は苦であると説いたのが苦聖諦(くせいたい)、苦の原因は欲望や愛着の心にあるという真理を明らめたのが集聖諦(しゅうせいたい)滅聖諦(めっせいたい)は、 苦悩の原因である煩悩が無くなった状態をいい、仏教の目指す浄土は涅槃にあると言う真理である。道聖諦(どうせいたい)は、涅槃に到達するための実践方法を説き八正道を指す。仏陀や聖者は、このことを知識としてでなく体得したのだ。
 6日 欲望は無明 仏教は[不生(ふしょう)不滅(ふめつ)][生と死は別ではない][生死(せいし)一如(いちにょ)]などと説く。又、この世を無常なもの、泡沫の如きものと観る。事物は相互に関係しながら存在する。すなわち、他を縁として生起(せいき)し、他と相関しながら変動していく。 [人間の苦悩は欲望から起きる。欲望は無明、つまり、ことを明らかにできる智がない為に生じる。ものには縁によって起こる原因--縁起があるから、人間が安楽の境地(涅槃)に入るには無明に(とら)われている己を自覚し、欲望に執着せず、すべてありのままの姿で受け取る平静な心で生きることである。]という。
 7日 縁起の道理 つまり縁起の道理に基く中道(ちゅうどう)の実践により輪廻(りんね)の世界から解脱し、涅槃の境地を得るものだという。生身(なまみ)の体には欲望があるからこそ生きておられるという矛盾との相克(そうこく)だ。 更に言えば、涅槃とは執着を超越したこの世で実現すべき心の状態の謂いであり、それこそが救いの浄土もしくは極楽だと私の理に於いて確信する。
 8日 (くう)について。
すべての物に実体、自性がないことを[][般若(はんにゃ)](くう)なる真理をつかむ智慧を意味し、空と同義語。悟りの智慧で、般若(はんにゃ)(くう)とはとらわれないこと、側面的には[色即是空(しきそくぜくう)空即是色(くうそくぜしき)] 形あるものも認識がなければ空。般若の空に徹すれば生のはかなさを知り同時に生の貴さを知る。はかなさゆえに貴い生である。空に徹するとは石に(かじ)りついても生を立派に実現する事か。 人間の生死は無相(むそう)(くう)である。死を怖れず、死を求めず、は味わうべき言葉。
 9日 在るがままに 空は否定と肯定、無と有、の二つを弁証法的に統合している。在るがままにあるのが空であり、仏の(すがた)であろうか。 終わりに、空海は即身成仏(そくしんじょうぶつ)()において密教にとり生命は宇宙的生命であるとし大宇宙そのものを仏とみた。
10日 大日如来 一切を包容する宇宙を仏、大日如来とした。太陽を象徴した仏である。我々の生命は宇宙そのものでありすべて同じ生命を生きているとした。宇宙原理と人格原理の一致、(ぶつ)(ぼん)(いちにょ)である。大自然の中に仏を見る生命哲学で生命を讃美する。
大日如来は太陽の如くすべてを生み出す仏で虚無的な性格はなく肯定である。
大日如来は三ッの姿で秘密な姿を示す。(しん)()()である。(しん)(みつ)-身体、(こう)(みつ)-言葉、()(みつ)-心、で大生命の姿とする。山の体、獣の体、人間の体は身蜜、風の声、鳥の声、人間の言葉すべて口蜜、川の心、花の心、人間の心、すべて大日如来の意蜜という。
11日 自然崇拝は縄文以来の日本固有信仰 自然崇拝は縄文以来の日本固有信仰と一致する。鎌倉以後の祖師達はこの(さん)(みつ)を各自一蜜に専念した。道元は(しん)(みつ)を強調し、只管打座(しかんたざ) 口蜜の強調は法然と日蓮のお題目、()(みつ)、法然は口に出す念仏に重きを置いたが弟子である親鸞は信心だけで良いとし心を強調した。親鸞に近代性が窺える。
12日 仏の形は人間の形 空海は知を強調し五ッの知を配して体系化し物質原理と精神原理の一元化を果たした。科学の知恵はこの一ッに過ぎない。知恵と生の一致が密教の理想だが、生を上においている。密教は秘密仏教、なぜ秘密かと言えば、 おのれを隠し姿を現さぬのが生そのもので、生は解明されない何かを宿しているという。人間がそのまま仏となる密教では、仏の形は人間の形であり大宇宙の生命は人間の形となって現れると言う。空海の示した法は生きている。
13日 お釈迦さまに帰れ お釈迦さんの言葉と現在の仏教は大違いのように思える。お釈迦さんの言葉を、色々な人間が、色んな時代に自分なりに解釈して宗派を作ってきた。日本では鎌倉の仏教が原点であろう。私が不思議に思うのは、仏壇でもお釈迦さまの仏像でなく始祖の仏像が普及されて、始祖の見解が中心になり過ぎていることである。 極端な例があの世のことであり、葬式のことである。
お釈迦さまはこれらに就いて何も云われていない。
私は仏教を学ぶのに原点、即ちお釈迦さまに帰るべきだと主張したいのである。

形式的なものが庶民の無知の為に跋扈し蔓延してきたのではないか。
14日 自燈(じとう)(みょう)(ほう)(とう)(みょう) そこで私はお釈迦さんの言葉を大切にしたいのである。それは「法を光、燈明として仰いで学ぶことにより、自分も光り輝き他を照らすことができる。法を聞いて自分を光り輝かすことだけを頼って それ以外のことに依頼心を持ってはならない」と教えておられるのである。これを「自燈(じとう)(みょう)(ほう)(とう)(みょう)」と言うのである。
15日 「おのれこそ、おのれのよるべ、おのれを措きて、誰によるべぞ、よく調えし己こそ、まこと得難きよるべをぞ得ん」と法句(ほっく)(きょう)にある。 自己の調え方として、人間の感覚や意識を生ずる「(げん)()()(ぜつ)(しん)()」の六つの根元の「六根(ろつこん)」(六感覚器官)を正しい法(教え・真理)を学んで調えることなのである。これは理に適っている真理である。
16日 お釈迦さんの臨終の言葉 釈尊は八十歳で伝道の旅路で亡くなった。晩年に高弟の(しゃ)利子(りーし)と目蓮とを相次いで喪った。

釈尊は弟子に教えるというよりも、しみじみと自分に言い聞かせる。
「古木にあっては、幹よりも枝が先に枯れることもある。生あるものは必ず死に、会うものは必ず別れなければならない。故に人は依頼心を捨てて、自分が自分の頼りになるように自分を光とするがよい・・」、「自らを灯明とし自らを拠りどころとせよ」。自分を光とするということは、自分が光り輝くように自分の心や言動をよく調えて自分の心を豊かにすることだという。
17日 自己制御機 釈尊は、ある日王様に説法された。王は美食家の大食漢、肥満に悩んでいた。釈尊は「人は自ら心して、量を知って食をとるべし、さすれば苦しみ少く、老ゆること遅く、寿(いのち)ながく保つべし」(雑阿含経)と云われた。 釈尊の微笑ましい法話には均整のある「中道の道理」が籠められている。

精密な自己制御機を心中に備えて欲望を調える、「自ら心して」と自主的に自己調整を勧めている。
18日 般若心経に関心を抱いて久しい。高神覚昇師に傾注し私なりに開眼したと思っている。 そして平成16年、大胆にも徳永圀典の般若心経口語訳として公開した。
ご挨拶 岫雲斎の回想は幾らでもあるが、なまなましいのでここら辺で一応打ち切ることとした。有難うございました。 岫雲斎の独り言というのをものしているが、なまなましいので本欄には相応しくないのでここで中断とする。ご閲覧を御礼致します。