徳永の「世界史観」−−日本の立場から見直す
世界史は西欧から始まったとか、人間はアダムとイヴから始まった、と言うような漠然とした認識を抱いて成人となった人々が多いのではあるまいか。それは近眼視的見解である。
なぜか、以下に所見を開陳する。
平成25年8月1日

1日 西洋の歴史・文明が世界史だとは言わせぬ その認識は、明治以来の欧米希求の精神と教育から培われたもので極めて近視眼的な視野からの認識と言える。世界史は日本としての立場から見なくてはなるまい。西洋の国家としての勃興は中世からに過ぎない。日本など、平安時代には絢爛たる日本文明を開花していたのだ。技術のみ先進的なものを18世紀に開発したことのみを以て西洋の歴史・文明が世界史だとは言えぬ。認めるわけには参らぬ。
2日 日本以外は、全て一貫していない 世界の八大文明を指摘したハンチントン教授を引用するまでもなく、地球には古い時代からの文明がある。然し、日本文明のように一貫した文明の国は存在しない。日本以外は、全て一貫していない事に重点を置かなくてはならぬ。 
3日 日本史こそ世界史の主流 世界最古の文明と言われるものに四大文明と称するものがある、黄河文明、メソポタミヤ文明、エジプト文明、インダス文明であるが、何れも河川文明であるが、自然破壊をして消滅していると見る。処が同時代以前の日本の“縄文文明”は現代日本に連綿と存続している。かかる観点から、日本史こそ世界史の中心をなすと考える。
4日 開闢以来一貫して繁栄 開闢以来一貫して繁栄の原因はその日本、幾多の国難を経験したが、何れも乗り越えて今日に至っている。何故、開闢以来一貫して繁栄してこられたのか、これはやはり、森林を大事にしてきた事と大いに関係がある。その森林は日本の神様の住まいであり、森林の原理の主・天皇を中心としたからこそだと、世界史を俯瞰して見れば合理的に理解される。
5日 日本人は賢明に洞察した結果 コロンブスのアメリカ大陸発見の西洋から始まった世界植民地化と同時に、彼らはクリスチャンによる選民思想を持ち世界を宣教しつつ植民地化を狙った。幕末から日本に危機到来が到来したとの前提では大局的な認識はできない。日本人は15世紀からの色々な動きを日本人は賢明に洞察した対策をしてきて成功しているのである。
6日 世界植民地化の思想的法的元祖 例えば、最初に渡来したスペインとポルトガルはカトリック国である。カトリック勢力はローマ法皇に条約により布教の形式を取るが、意図は侵入と侵略、征服、収奪だと徳川幕府は的確に洞察していたと思われる。幕府は賢明な政策を取っていたと判断すべきである。江戸幕府の外国窓口となったオランダはプロテスタントの国でカトリックとの違いも知悉していたのであろう。カトリック・ローマ法皇こそ世界植民地化の法的元祖であった。
7日 他国の開国状況 広く世界史を回顧しても、中国には連綿たる国家と言うものは無い。例えば、唐の皇帝は鮮卑族、元はモンゴル族、清国は女真族である。開国も、イギリスは600年前、アメリカは200年前、ドイツ、フランスとて中世以前はローマ帝国であった。
8日 真柱が確りしているから危機には強い 我が日本のみ、縄文・弥生時代から一貫して連綿たる民族が続いているのだ。以下に述べるように、その後2000年間、国難は幾度もあったが、見事に聡明にこれを撃退して今日に至っている。これはこれから縷々説明するが、国家の中枢である一貫した皇室が存在していることが大きな要因となっている。真柱が確りしているから危機には強いのである。
9日 国難の時に先祖還りを 国難の時に先祖還りをしてきたからこそ国民は一つとなり危機を超えることが出来た。皇室は大和民族の精神の主柱なのである。一つになり得る大和民族は世界一の求心力を得るのである。
10日 日本の国難的危機回顧 戦争のみが危機ではない。日本開闢以来2600年間、巨視的視野から見た、日本の国難とその対応措置を点検し、回顧し、列記してみよう。
11日 1.
世界大国「元」
世界大国「元」の二度の侵攻に勝利。1274年の文永の役、1281年の弘安の役。世界一の軍隊「元」に勝ったのは単なる神風的暴風雨だけでなく、鎌倉武士の組織力が元軍を上回ったと解釈できる。
12日 2.
「鉄砲」の製造
日本製第一号「鉄砲」の製造は1544年、これはポルトガル人が種子島に来航し鉄砲を伝えたのが1543年、翌年の1544年に曲がりなりにも日本製鉄砲を作ったことが特筆大書される。
13日 3.
織田信長の鉄砲隊
何故なら、その30年後、織田信長は鉄砲隊を作るまでになっており、宣教師達もこれを見ていたのである。これが基礎となって武器が発達し、他のアジア諸国、非欧米諸国の民と違うものであり、欧米諸国の日本植民地化意欲を後退させたと考える。そして、秀吉の追放令となる。
14日 4.
豊臣秀吉のバテレン追放令
豊臣秀吉のバテレン追放令1587年。
これは思想的なもので、極めて適切な処置であった。コロンブスが1492年アメリカ大陸発見し、ローマ法皇決裁による条約で世界が切り取り自由の植民地分捕り合戦が開始された。その尖兵が宣教師であった事を見抜いた措置であった。日本は神国なりと再認識している。
15日 5.
徳川幕府の長崎と平戸の措置
1616年、外国貿易を長崎と平戸の限定したこと。支倉常長の帰国のそれなりの欧米情報を得ていたとも推定される。欧米諸国の植民地化を狙う本質を見抜いた措置だと認識する。
16日 6.
スペインと国交断絶
1624年徳川幕府のスペインとの国交断絶も西洋諸国の意図を見抜いたものであろう。1639年にはポルトガル船の来航禁止もしている。世界植民地化の尖兵は南蛮人スペインとポルトガルであり幕府の措置は評価できる。1641年には長崎出島にプロテスタント紅毛人の国のオランダ人商館を移動しており対策の万全さが感じられる。
17日 7.
ロシアとは軍事的な緊張関係の国 1.

ロシアは、本能的に南下政策の国であり、先の大戦後の軍人抑留と言い、歴史的に侵略の意思明白な「油断してはならぬ国」である。対ロシアで日本は終始一貫した態度を取り続けている。これは今後も堅持しなくてはならぬ。日本とロシアの領土的関係の基礎となるのは、1875年、樺太千島交換条約である。それは千島列島全部を日本、樺太全島をロシアとするものだ。条約の筋から言えば、千島列島全部の返還を主張してよいのだ。四島のみとしたのは日本の大きな譲歩である。これ以上の譲歩は許すことが出来ぬ。

18日 8.ロシアとは軍事的な緊張関係の国2. 日露戦争勝利後、日本は中国の遼東半島の割譲を受けた。之に対しロシアが主導して干渉し清国に返還せしめられた。(三国干渉)さらに清国と結び日本に対抗する行動も起こした。日本人の敵愾心を煽り日ロ戦争の大きな背景とさせた。中国、韓国とも不遇の時は黙っているが調子がよくなると開き直る、信を置く能わず。常に油断は禁物である。
19日 9.
ソ連は日本の社会主義化を狙う
日本共産党の加担は歴史的事実
ロシア滅亡後のソ連は日本を社会主義化しようとする形を取った。戦前、コミンテルンがその方針を取り日本共産党がその指令を受けて行動した。これは現代日本人が決して忘れてはならぬ紛れも無い事実である。後述するが大東亜戦争開戦時のアメリカのルーズベルト大統領はロシアコミンテルンの影響を受けてロシアと内通していたと思わざるを得ない。日本は彼に嵌められて戦争に突入させられた事は事実である。
20日 10.
満州国建国の不可避
満州問題、それはロシアでありソ連問題であった。日本防禦の生命線であった。ロシア、ソ連の南下政策がなければ不要な満州建国であった。日本が進出しなければロシアが進出したであろう。これは日本の生命線と考えてよい場所であった。ロシアや西洋が満州に進出したならば中国さえ餌食となったであろう。それは日本としても許すことの出来ない事であった。第一次的にはソ連の社会主義進出をどう防止するかが背景にある。
21日 11
武器を持つ日本の強み
種子島で銃を輸入した翌年自前の銃を開発し保有した日本人。植民地にされた世界の諸国は銃が無かったのである。日本は種子島に銃が到来した20年後の織田信長時代に鉄砲隊の編成をするまでになっていた。実態的には、西洋諸国も簡単には日本に手が出せなくなっていたのである。
22日 12.
幕末の国難到来 1 
アメリカの手法
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1787年、アメリカの憲法が出来た。その四年後、ジヨン・ケンドリツクというアメリカ人が日本に来た。ケンドリツクは紀伊半島の南にある大島に11間停泊した。ケンドリツクはアメリカ国旗を押し立てて紀伊半島大島の領有権を主張した。行き着いた土地の領有を主張する、渡り着いた土地を自己のものとする。かかる感覚は日本人には存在しない。それは、日本人は農耕民族であり移動しないかで、ケンドリツクは狩猟民族の資質通りしたのである。これが、ここ500年間欧米人が日本を除く世界の国々を植民地化した資質的源泉である。
23日 13.
幕末の国難到来
2
.交渉には武力が必要の態度
1846年、自由貿易を求めてジェームス・ピドル提督が来航した。アメリカ政府の命令を受けており船には17門の大砲で武装していた。東京湾に碇泊しての交渉は合意しなかった。1848年ジェームス・グリン艦長が長崎に来航し交渉は成功した。彼は記録に「交渉には武力が必要だ」と述べている。
24日 14.
幕末の国難到来
3
1853年遂にペリー提督の黒船登場である。武装した艦隊を率いて浦賀水道に姿を現した。通商を求めるには商船でなく、武装した艦隊で臨み、イザとなれば占領し植民地化するぞと言う欧米人の狩猟民族的威嚇の意図の明確な手法である。この年は、頼んで頼んで一年交渉延期してお引取り願った。
25日 が、翌年アメリカの黒船が来航した時には浦賀水道以北の東京湾には入れなかった。現在のお台場に大砲を海に向けて並べていた。前年は江戸城を砲撃できるまでの沿岸にこられたのだ。黒船一行は指定されて下田港を拠点とした、ここは天城山の要害を越えねば江戸に入れぬ。
26日 15
黒船来航
これにより幕府は、国家にとって軍事力の行使がいかに重要で決定的なものであるかに気付いた。軍事力が無ければ占領とか植民地化になると気づいたのだ。これが明治維新へと繋がってゆく。
27日 16.
長州、薩摩と英国・フランスなどとの戦い
最初は薩摩と英国の戦い、次ぎは四国・英国、フランス、アメリカ、オランダと戦った長州。 これで薩長は敏感に植民地主義に脅威を覚えた。目覚めた、そしてそれが明治維新の原動力となるのである。
28日 17
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明治維新
明治維新は、如何に欧米列強から日本の独立を守るかと言う問題の結論であった。欧米の列強に並ぶくらいの軍備拡張をしなくては外国の餌食になるという当然の認識であった。現代の甘い国防意識ではない民族防衛であった。これは日本の必然性である。
29日 18
日清・日ロ戦争
これは近代最大の国運賭けた戦争であった。間違いなく日本防備の戦争である。西洋列強に対する戦いとも言える。日ロ戦争は、ロシア革命という歴史的転換点を引き起こした。社会主義勢力が非常に強くなり日本の対処が重要になってくる。治安維持法を定めて社会主義を取り締まりだす。
30日 .19
戦前戦後一貫している対ソ警戒
戦後日本は、ソ連とアメリカの左翼が画策した日本社会主義化の動きに呼応して社会主義に対して無知な国民を扇動し、好意傾向が強まった。これは中国、韓国の本質が暴露されるにつれて次第に冷却化してきた。これは戦後米ソによる日本の社会主義化促進の連携があったからだ。然し、国民は、戦前戦後と一貫して対ロシア、対ソ連警戒をしている。
31日 20
.アメリカの戦争仕掛け
アメリカは日本を戦争に引き込む為にハル・ノートの難題を突きつけた。それはルーズベルト大統領だが彼はソ連寄りの人事であった。ソ連を助けるために様々な政策を採用していた。中国共産党支援もしておりアメリカはソ連と近い位置にいたのである。