徳永「近現代史」

米騒動        シベリア出兵に伴う投機買いが起こり米価は暴騰した。大正7-1918年、米の高値に不満を抱いた富山県の漁民の主婦などが米穀商におしかけたのを機に各地で70万人もの労働者・農民が米屋や高利貸を襲った。京都・神戸では軍隊の出動があった。寺内内閣は米を廉売して事態の沈静化をはかった。

初の政党内閣   大正7-1918年、わが国初の政党内閣が原敬内閣である。外相と陸海軍大臣を除く全員が政友会党員。絶対多数内閣である。あとで政友会に関する汚職・腐敗事件が続出し政党政治へ根深い不信感が残った。原は大正10年暗殺された。

原敬           平民宰相と言われたが祖父は南部藩家老。内務大臣時代に中央・地方の官僚組織を掌握し薩長出身者の藩閥脱出に挑戦した。道路・河川の改修、鉄道建設と公共投資に積極果敢で地方の党勢拡大に成功した。この利益誘導政治は薩長藩閥解体に有効であったが利権政治の体質を方向づつけた。

パリー講和会議     大正7-1918年ドイツは破れ世界大戦は終わる。ヴェルサイユで講和条約締結しドイツは全植民地を失い軍備制限と多額の賠償を課せられた。アメリカのウィルソン大統領により国際機関の提唱があり大正9年国際連盟が発足。日本はイギリス・フランス・イタリアと共に常任理事国となる。日本は山東半島のドイツの権益の譲渡を受けドイツの領有していた南洋諸島の委任統治権を得た。国際連盟発足にあたり日本は人種平等案を提出し、人種や国籍による差別撤廃を規約に盛り込む事を主張し実は多数の賛成を得た。アメリカとイギリスが反対し人種平等案は否決された。これは重大な歴史的事実である。日本のこの提案は21世紀の今日の人権を先取りしたものである。日米戦争は根本的には欧米の人種差別が根幹にあり、彼等の優越的態度が黄色人種といわれるアジア人を受け入れず戦争勃発の根源的原因であろう。日本の提案は人間として差別のない世界を作ろうとしたものであり、この後の世界的混乱は彼等に在ると言えるのである。
中国・朝鮮半島       中国はドイツの保有した権益を直接返還を求めた。これは当然であろう。中国では日本が権益を得たために日本人と日本製品排斥運動が起き中国は講和条約締結を拒否した。学生の反日運動が各地に広がった。半島でも独立運動が根強く、示威運動は全土に拡大警察と衝突の軍隊の出動もあり流血も起きた。他国の領土に進出した日本も実は当時の生きる手段であったが是認されるものではない。今日の如く貿易の発達、科学技術と石油化学が当時あればと見るは虚しい。

ワシントン会議       世界大戦後、内向きであった独り勝ちのアメリカは漁夫の利を得て゛世界一のイギリス海軍を抜く海軍増強計画を進めた。興隆中の意気軒昂たる日本は、これに対抗しようとしたのは当然であった。八八艦隊の建造計画を推進した。恐らくは日本の対外勢力膨張と軍隊の強靭な資質に内心に恐れを抱いたのであろう、アメリカ大統領ハーディングの提唱により海軍軍備制限と極東・太平洋に関する国際会議-通称ワシントン会議が開かれた。これは平成当初のマネー敗戦をしたマネー大国日本攻略の手法と似ている。アメリカの世界戦略的意図からイギリス・アメリカ・フランスが組み日本をターゲットに四カ国条約を結ばせ太平洋諸島の現状維持を認めさせた。同時に大戦で弱体化の姉妹国イギリスを唆して日英同盟を廃棄させた。これは白人の日本に対する包囲網であり既に対日戦争の匂いが感じられる。日英同盟の破棄は世界の屋台骨との連携から外れることでありその影響は計り知れないものであった。

ワシントン海軍軍縮条約 これは軍備制限条約であり極東の興隆国、日本への拘束である。世界戦略のある国との相違は現代でも明白に違う。そして白人との世界観の違いを明白に認めざるを得ない。主力艦の保有トン数をイギリス・アメリカ5、日本3、フランス・イタリア1.67に制限、西太平洋の防備制限等である。幕末の開国から一挙に世界へ進出した日本はここまで白人に拮抗するまでに至っていた。客観的に見れば、これは日本の行き過ぎであろう。そこに内外に矛盾が起きても不思議ではないし当時の先進国から見て不安が生じたのも無理はあるまい。

九ヶ国条約 ベルギー・中国を加えた9ヶ国がアメリカの提唱した中国の領土と主権の尊重、経済活動の為の中国の門戸解放、機会均等原則を国際条約として成分化した。日本は、それに従い山東半島の旧ドイツ領の権益を中国に返還した。アメリカの主張は尤もらしいが要するに日本の出すぎの防止であり、近年の日本経済力削ぎ落としの米国の作戦と酷似している。その恐れの背景に日本人の資質の優秀性と国民の集中力の高さがあるのを見落としてはなるまい。

ワシントン体制       縷縷述べたものは、要するに東アジアと太平洋地域の国際関係を当時の列強間で協調をめざした、即ち日本の力の抑制である。これをワシントン体制といい第一次世界大戦後の世界秩序を形成した。これにより日本は言うまでも無くアジア政策が強烈に欧米列強から制約を受けた。アジア人でないヨーロッパ諸国がなぜアジアに嘴を入れるのかと言いたいがアジアは植民地ばかりで独立国は日本のみであった。アメリカでは急速に勃興してきた日本へ風当たりが強く、排日運動が激化した。

アメリカの排日運動        対日感情の悪化したアメリカでは第一次大戦中の下火が再び燃えはじめた。日本人のみの移民土地保有制限や入国拒否である。大正13-1924年には日本人排斥移民法が成立した。その排日の原動力であるが、世界各地から米国へ移民してきた民族と比べると、明治以来急速に世界の列強国に仲間入りした日本人は米国に於いても極めて質実剛健で勤倹振りが強く脅威を感じたとも言われる。

第一次世界大戦総括1.    1914年、即ち大正14年、資本主義の極度の不均衡の発展が世界再分割の期待を惹起した。日本も新規興隆国としてその意識があって当然であろう。世界大戦勃発で英国政府は日本に参戦を要請した。日英同盟は参戦の義務は無かったが日本政府は直ちに参戦を決定している。この大戦を機会に日本はドイツの中国の根拠地を一掃して国際的地位を高めたいとした。

第一次世界大戦総括2.    大正14823日宣戦布告をすると直ちに青島を攻撃、南洋群島を占領。英国とかは日本の軍事力をヨーロッパ戦線にと期待していたが、日本は寧ろこの機会に中国大陸で対列強対策として地歩を固めたいとした。済南島、山東鉄道の領有を宣言。ドイツの権益のみならず中国の主権を著しく侵すものがあったと指摘されても致し方ない。当然世界各国から批判された。日本の対外的野心を露骨に示したものと言え日本を列強が警戒する決定的端緒となった。

第一次世界大戦総括3     世界大戦中、日本はアジア市場を独占し参加諸国への商品供給などの好条件もあり日本の貿易収支は入超から出超へと転換し未曾有の好景気に沸いた。特に紡績業は97倍も増加し英国を抜いて綿織物では世界第一位を占めるに至った。然し大戦終了後バブルは崩壊し大不況となり更に関東大震災により不況は慢性化した。その上に世界恐慌や金融恐慌に見舞われ深刻な経済的困難に直面した。この過程で独占資本の集積が進んだ。

第一次世界大戦総括4     この間、国民生活は苦しく農村が疲弊し失業者の増大と社会問題が発生する。ロシア革命・米騒動が起きるがこの社会問題に政党政治が対処能力を欠いた。このような不信感の中で勢力を伸張してきたのがファシズムでありやかで軍部による政治支配が実現して行くのである。そして軍部の統帥権問題から独走と、破滅への道を日本は進み始める。

世界恐慌1. 1918年世界大戦終結後、日本経済は好景気から恐慌へ突入した。大正91920315日株式、綿糸、生糸の大暴落に始まり、株式の立会停止、銀行取付67銀行、支払停止21銀行となる。政府は525日、国債償還、日銀融資に12千万円を放出し財界救出を実行したが物価下落、貿易減退など行き詰まる。大正111921年第二次恐慌へ突入し株価は下落、不況慢性化は深まった。

世界恐慌2. 銀行取付29行を見た日銀は22千万円を放出したが翌1923年大正12年関東大震災により国富百億円と一府四県で48億円の財貨損失を見た。政府は支払い猶予令を施行したが金融は逼迫し株価も暴落、入超53千万円となり正貨は激減。このまま昭和に入り昭和21927315日、震災手形の処理から金融恐慌が発生。

世界恐慌3 この根本原因はそれまでの日本経済の矛盾の集積であり21世紀の今日の実情と瓜二つのものがある。即ち、戦後の反動的恐慌と大震災での打撃がある度に政府が財界の動揺を防止してきたが企業の整理と淘汰が進まず不況から立ち直らなかったのである。これは今日の現状と全く同様である。

世界恐慌4 政府は7億円の補償救済措置により恐慌を食い止めようとしたが震災手形の処理に関して一部銀行の不良経営が暴露され取り付けが発生し銀行休業が続出した。内閣は3週間のモラトリアムを出したが不況は更に慢性化した。

世界恐慌5 この恐慌の結果、中小銀行の預金は一流銀行か郵便預金に移動した。三井・三菱・住友、安田・第一の五大銀行は救済資金8億円の大半を吸収した。このため五大銀行の制覇が確立し独占化が進むこととなる。1929年大正4年、アメリカウオール街の株式大暴落は次々と資本主義国を巻き込み4年間に亘る恐慌は全世界5千万人の失業者を発生せしめた。日本も物価下落、企業倒産、銀行破産、貿易は昭和4年対比、輸入40パーセント。輸出47パーセントの減少であった。この大恐慌が、経済的危機の日本をして大陸進出を求めた背景である。

大陸進出1. 日本が大陸に進出して中国と戦火を交え侵略した事は決してよくない事であるのは間違いない。当時の列強諸国の白人は全てやっていたと言っても他民族の領土の侵略は特に現時点での感覚では局悪に近い。ここに至る迄、実に複雑な事情が対欧米、対中華民国、そして中国共産党現政権、日本の軍部、と一筋縄では説明できない事実が多々ある。それは日本の国内事情だけで侵略が進んだものでもない、相手の挑発もあり、なかんずく米国との複雑な経緯と推移をへて足を抜くことが不可能の泥沼に嵌まったのである。戦争とは所詮双方に理がある相対的なものである。私見としては矢張りアメリカのプロットに嵌まった国際感覚音痴、島国の白人音痴の結果が齎した面が強い。

大陸進出2. 第一次世界大戦のあと、中国は軍閥の抗争が激しく続いている。中国国民党は国民革命を目指しているが1924年共産党と提携した。これが第一次国共合作である。蒋介石を指導者とする国民革命軍を創立、軍閥・帝国主義打倒のため北伐を行う。1926年、大正157月に北伐開始、10月漢口、翌年上海にいたる。然し、列強の圧迫と浙江財閥の要求をのみ共産党と絶縁した。そして南京政府を蒋介石が樹立する。

大陸進出3. 1928年昭和34月、最後の軍閥張作霖打倒に進む。北伐のこの成功は中国に利権を持つ日本にとり、大戦後恐慌に苦しんでいた日本経済に深刻な影響を与えた。これを食い止め更に大陸の利権を確保する必要が起きた。日本は山東出兵を断行し、張作霖爆死事件を起こした。大恐慌の矛盾を外にそらすために中国の国共内戦に乗じたのであろう。1931年柳条溝事件を契機に満州事変を起こした。

満州事変1. 満州事変の導火線からはじめなくてはならぬ。1931年、昭和6918日の柳条溝事件勃発の電信が日本外交年鑑主要文書下巻にある。これは林奉天総領事の報告である。
625(至急極秘)・・各方面の情報を総合するに、軍に於いては満鉄沿線各地に亘り、一斉に積極的行動を開始せむとするの方針なるが如く推察せらる。本官は在大連内田総領事を通して軍司令官の注意を喚起する様措置方努力中なるも、政府に於いても大至急軍の行動差し止め方に付適当なる措置を執られんことを希望す。

満州事変2. 630(至急極秘)参謀本部建川部長は18日午後1時の列車にて当地に入り込みたりとの報あり。軍側にては極秘に附し居るも、右は或は真実なるやに思われ、又満鉄木材木村理事の内報によれば、支那側に破壊せられたりと伝えらるる鉄道箇所修理の為、満鉄より線路工夫を派遣せるも、軍は現場に近寄せしめさる趣にて、今次の事件は全く軍部の計画的行動に出たるものと想像せらる。
以上の報告の通り、当時、公式には中国兵の満鉄爆破にあったことになっていたが、この資料は実際には関東軍と中央政府の計画的行動が伺える。

満州事変3. 中国に於ける日本の利権の最大のものは、関東州-旅順・大連-の租借権と南満鉄とその付属地などである。1930年頃から満州でも排日運動が盛んとなり、中国が満鉄に平行して、二つの鉄道を独力で建設したため、北満大豆がこのルートで流れ満鉄は大打撃を受けた。国内では「満州は日本の生命線」として獲得せよとの叫び声が起きた。

満州事変4. このような情勢下にあり、関東軍を中心とする満州占領計画がめぐらされていた。閣議でも問題となったが、陸軍は参謀本部の建川少将を説得に派遣し、918日夜奉天に着いたが元々同調者でもあり、関東軍の参謀板垣征四郎大佐や石原莞爾中佐らの計画を黙認したと言う。関東軍は武力で満州を中国から切り離す事を企図したのである。

満州事変5. 柳条溝の満鉄線路爆破は、その夜の1030分、奉天独立守備隊河本末広中尉ら数名によってなされた。関東軍は、これを中国側の行為であるとし、中国軍の兵舎北大営を攻撃し、ここに運命の「15年戦争」の発端となる満州事変が起きた。半年で満州を制圧した。若槻内閣は参謀本部と共同で不拡大方針を表明したが関東軍はこれを無視し事変は拡大の一途をたどる。軍の行動は日本の権益を守るためだとして世論はこれを支持した。若槻内閣は総辞職した。国民世論はこぞって満州の軍の行動を支持した、これをどう判断するか、国民が断固として反対しなかった、時の政府は不拡大の方針であった。

満州事変6. 中国の対日感情は極度に悪化し排日運動も激化。上海で日本の海軍陸戦隊が中国軍と衝突した。然し列国の調停で紛争が収拾されると日本軍は即時撤退した。満州で関東軍により新国家建設が強力に推進されていた、昭和719323月、日、朝、満、蒙、漢の諸民族-五族協和-を理想に掲げて満州国建設が宣言された。清朝最後の皇帝溥儀が執政となり、二年後皇帝となる。犬養内閣は満州国承認に消極的であったが、昭和7年の5.15事件で殺害されて内閣が倒れ次の斎藤実内閣は両国に日満議定書を締結して満州国を承認した。軍部が新国家を建設するというのは実に納得のいかないものである。そして軍部が益々野望を膨らませて行くのである。関東軍と中央政府の意思疎通、関東軍の行動は恰も独立政府そのものであり、理念は兎も角として許しがたい独走であり日本を破滅に導いた原点である。

大陸政策の転換       田中義一内閣は中国への不干渉政策を改め、欧米諸国と同様な権益擁護外交へ転換した。遅まきの欧米模倣である。親日的な中国の北方軍閥の巨頭、張作霖に満州の東三省を支配させ、中国本部を蒋介石に任せて日本の権益を維持しようとした。然し張作霖は中国のナショナリズムと北伐の勢いに押され、援助を受けてきた日本に抵抗するようになつた。所詮、外国本土でのやり過ぎは禍根を産む。

リットン報告   国際連盟日華紛争調査団は英国のリットン卿を委員長としてフランス・イタリア・ドイツ、オブザーバーとして米国の代表5人である。1932年に来日して精力的に現地調査し極めて詳細なものである。ここにその第四章を披露する。「918日午後10時より10時半の間に、鉄道線路上若しくはその付近に於いて爆発ありしは疑いなきも鉄道に対する損傷は若しありとするも事実長春より南行列車の定刻到着を妨げさりしものにて其れのみにては軍事行動を正当化とするものに非ず。同夜に於ける如上日本軍の軍事行動は正当なる自衛手段と認めることを得ず。尤も之により調査団は現地に在りたる日本将校が自衛の為行動しつつありと信じつつありたるなるべしとの仮説を排除せんとするものに非ず」。事変は日本の正当自衛権の発動でないとし、満州に於ける中国の主権を認めている。

5.15事件1.     海軍の青年将校を中心とした一団が首相官邸などを襲撃し犬養首相を射殺した。ここに檄文がある。「日本国民よ、刻下の祖国日本を直視せよ。政治・外交・経済・思想・軍事、何処に皇国日本の姿ありや。政権、党利に盲ひたる政党と之に結託して民衆の膏血を搾る財閥と更に之を擁護して圧政日に長ずる官憲と軟弱外交と堕落せる教育、腐敗せる軍部と、悪化せる思想と、途端に苦しむ農民、労働者階級と而して群居する口舌の徒と、日本は今やかくの如き錯綜せる堕落の淵に既に死なんとしている。革新の時機、今にして立たずんば日本は亡滅せんのみ。国民諸君よ武器を執って立て、今や邦家救済の道は唯一つ「直接行動」以外の何物もない。農民よ、労働者よ、全国民よ祖国日本を守れ。 陸海軍青年将校 農民同志」である。

5.15事件2.     犬養総理の次の斎藤実内閣は、穏健派と言われて世論の支持を受けた。昭和6-1931年、陸軍の中堅将校による軍部内閣樹立のクーデター計画が発覚した。3月事件、10月事件と言われるもので、翌年2月、3月には、血盟団員が前蔵相井上準之助、三井財閥幹部の団琢磨を暗殺している。いずれの事件も橋本欣五郎を指導者として陸軍中堅将校を構成員とする秘密結社、桜会に係るもので、これに大アジア主義の思想家大川周明が加わり引き起こした。その目的は政党内閣を倒して軍部政権を樹立するものであった。軍部の組織的猪突猛進。

2.26事件1.      この頃、陸軍内部では、皇道派と統制派が激しく対立、昭和10年、統制派の陸軍省軍務局長永田鉄山が皇道派に殺害されている。昭和11-1936年、226日未明、皇道派の来年将校が首相岡田啓介、蔵相高橋是清、内大臣斎藤実、侍従長鈴木貫太郎らを襲撃とした。高橋是清、斎藤実は殺害された。東京は戒厳令が敷かれ、天皇の命による反乱軍討伐体制がとられ事態は収拾されたが皇道派は力を失い統制派が主導権を握った。

2.26事件2.     皇道派は、国体を明白に唱える荒木貞夫、真崎甚三郎ら将軍中心の勢力、統制派は陸軍省や参謀本部の軍の統制を基礎に大陸経営を進める勢力であった。大陸進出勢力が主導権を把握した事で事後の日本の大陸進出が本格的になる。ここらに敗戦を招いた路線が既に見られる。それは昭和10年であり、これから支那事変が起き抜き差しならぬ道へ進むのである。青年将校の義憤を私は日本に、真のノブレスオブリージュの欠如を見てとるものである。戦後は更にプア−であるし今後の日本に空恐ろしい悲哀さえ覚える。日本に真のエリート教育が絶対必要である。

国際連盟脱退   日本の大陸進出は、満州国独立承認、熱河省への侵入など次第に露骨となる。これは国際連盟を刺激した。国際連盟は、一連の行為は侵略であるとして対日勧告案が提出された。総会で421で採択された。日本は連盟脱退を提出した。日本の大陸進出を正当化し連盟諸国から離れ国際的孤立への道を進んで行く事となる。

日本ファシズム       ファシズムは第一次世界大戦後、イタリアで起こった民族主義的社会主義運動で尖鋭な反革命集団を推進力として既存の国家権力の反動的独裁を強化するものである。日本の場合ファシズム運動は満州事変を起点として進展した。日本の場合は大衆運動ではなく、軍閥などの上層部の運動が特色である。政党政治の腐敗に対する不満を利用して急進的な国家改造運動である。資本主義の行き詰まりを打開するため、侵略、排外をして天皇中心の国家改造をめざし、武力によるアジア解放を目的として急進的運動が起こったのである。

大アジア構想-大東亜共栄圏   日本のような小領土の国は、その発展の為に大領土を保有している英国やロシアと戦う権利があるということから、英国・ロシアをアジアから排除して日本を盟主とする大アジア構想である。これは21世紀の現時点で考えても、白人の五百年の世界的侵略の事実からして極めてアジア人としては正しいと言える。残念ながらアジアで日本以外は全く国家として力のある国は皆無であった。日本のみが白人に対抗し猪突猛進して崖淵に落ちた歴史の悲劇だが、結果は人類史に残る偉業を打ち立てているのを堂々と記憶してよい。

世界恐慌と日本1.   1929年、ニューヨークのウオール街における株式大暴落に端を発したアメリカの恐慌は翌年欧州に波及し世界恐慌へと発展した。危機を乗り越えるため、各国は夫々独自の政策を進めた。英国は1932年、カナダ・ニュージーランド・オーストラリア・インドなど連邦諸国を動員しオタワ会議を開き自由貿易を棄て排他的なブロック経済体制を作る。アメリカは高関税により輸入を抑え1933年大統領ルーズベルトがニューディール政策をとる。これは外国に投資していた資金を国内公共投資にあて、政府指導の不況乗り切り策である。

世界恐慌と日本2.   巨額な賠償金に苦しむ敗戦国ドイツはヒットラーのナチスがベルサイユ条約破棄と植民地の再分割を要求する政権を獲得したのが1933年である。疲弊していたイタリアはムッソリーニが既に政権に在り領土の拡張を策謀し1935年にはエチオピアに侵入した。いずれも他国を振り向く余裕が無く国内不況を対外膨張策で克服しようとしている帝国主義策が当時の姿である。

閑話休題  満州事変前後から、国内外の深刻な経済恐慌、そして政治、軍部の確執があり又、国民世論の満州進出賛同の背景から対外進出は当然の風潮であった。さらに満州軍部の独走が加わり、日本は抜き差しならぬ対外膨張へと大きく進んで行く。