安岡正篤先生「東洋思想十講」
         第六講 仏教について()続編


平成25年8.月

1日 折中

立体的或はダイナミックな創造を意味する場合は、相対立するものをよく観察し検討して、正しいものを正しいとし、曲っているものを曲っているとして、即ち正邪曲直を明確にして、少しでも高い次元へ持ってゆきことです。この「中」に「折」の字をつけて「折中」という語があります。折中というと、一般には真ん中をとる、妥協するちと言う意味に使っておりますが、決してそんな簡単な意味ではあありません。

2日

例えば、資本家と労組との争いを解決しようという時に、よく折中案などと申しますが、これは両方の真ん中をとると言う意味ではありません。よく両方を観察し協議して、労組が正しければ資本家側を挫き、資本家が正しければ労組側を挫いて、一段と会社を進歩発展させてゆく、これが折中でありまして、この場合の折は挫くであり「さだむ」です。

3日 恕と女

それに対して「恕」は如プラス心と書いてあります。如は女の領域・分野(口は口=くちではなく境界・領域・本文を現す)、言い換えれば造化・自然であります。その造化の心、限り無き生成化育の働きを持った造化そのままの心を「恕」というのです。なぜ造化を表す如が女偏かと言うと、女は造化そのものだからです。男はいかなる英雄・豪傑と雖も子を生むことはできませんが、女はどんな女でも子を生みます。

4日 女の天分

その「子を生む」ということは大事なものであります。そこで「如」には女の天分という意味があるのです。造化は万物を生み育て、これをどこまでも化して進歩向上させてゆく、それは偉大なる包容であると同時に、偉大なる進歩育成であります。

5日 夫子の道は

そこで忠の方は進歩向上という意味が主体で、包容・含蓄が本意になる。どちらもその二つの意味を併せ持っているけれども、強いて分ければそういうことになるわけです。夫子の道は大自然・造化そのものであり、偉大なる包容と無限の創造・進化であります。孔子はその道-忠恕の道を会得して一貫して生きてこられた。「お前、わかるだろう」、「はい、わかります」という、内容豊かな深遠高邁なこれは問答であります。

6日 一貫しなければいけない

中国の人々は伝統的に儒教を学んでおりますから、人物の評価も忠恕ということが一番の標準になります。その人間が、どれだけ包容力を持っておるか、どれだけ育成力を持っておるか、そしてどれだけ一貫性を持っている人間であるかをみます。つまり途中で投げ出すようなことをしない当てになる人間かどうかを見るわけであります。それを論語では「(かく)」と言うております。「お前は力が及ばぬのではない、汝・自らを(かく)自分自身に見切りをつける、ということはよくない、一貫しなければいけない」と孔子は弟子に教えております。

7日 没法子の真意

これは前にお話したことですが、「没法子-メイファーヅ」という語にしてもそうです。日本人はこれを「もう、だめだ、仕方ない」と言って諦めてしまうことだと思っております。処が向うはそうではなくて、「仕方がない、よ-しっ、やり直しだ」と言う意味に使っておるわけです。彼等は歴史的に絶えず侵略・征服・内乱・革命を体験してきておりますから、財産だの、地位だの、名誉だの、時には命さえも、非常の場合には実に当てにならぬものだと言うことを知り抜いております。

8日 常に始めに反る

だから如何なることがあっても、「もうおしまいだ」と云って諦めてしまうようなことはしない。常に「さあ、やり直しだっ」と言う心構えが出来ておる。常に始めに反るわけです。つまりall ways to begin don‘t grieve to endで、終わることを悲しまず、終わることは即ち始まることだということです。向うの没法子は非常に明るくて能動的・積極的であります。

9日 常に積極的・創造的

これは中国を知り中国人と交わる上に於いて、よく心得ておくべきことです。常に積極的・創造的であると云うのが忠恕でありまして、向こうの人は、こういう精神・人物を本能的に会得します。日本人は直ぐに地位だの財産だのと言ったもので人を評価します。勿論中国でもそういうものは必要に応じて大切にしますが、本来は人間そのものを見ます。

10日 本能的に人相見 従って中国人は、或る年齢・地位までゆくと、本能的に人相見になるわけです。それも日本人とは違って、彼らは先ずその相が吉であるか、凶であるかを見ます。いくら勝れた人間でも、運が悪いとか根性の悪いのがおります。こういうのは凶人であります。
11日 福人吉士 福人吉士というのは、単に人柄が良いだけではなくて、運もよく伸びる芽出度い人を言うのであります。従って福相と貧相をよく感じとるばかりでなく、清濁の相もよく見分けます。これは俗物であるか君子人であるかもよく見分けます。だから幾ら名誉や財産があっても、その相が悪ければ、寧ろ相手が有力な人間であればあるほど、表面は慇懃丁重に接しても、心の中では警戒を強くするわけです。
12日 日本人の悪い癖

日本は長い間、中国で戦争をして、中国大陸は馴染みになったわけですが、向こうへ行って帰って来た人で「俺は中国が好きだ。平和になったらもう一度行きたい。そして向うの朋友と付き合いたい」と言うのは、大体向うの人間から見込まれて厚遇された人物です。その反対に「もうあんな所は懲り懲りだ。二度と行こうとは思わない」と言うのは先ずこちらが悪い場合が多いのです。

13日 義交

中国では古来裸のつき合いが非常に重んぜられて、文学や演劇などにも義兄弟の誼に関するものがよく扱われておりますが、現実面に於いても義交--義の交わりが強く行われております。これが華僑の成功している所以でもあります。彼等は同じ商売をしていても、日本人のように相手を商売仇などと言いません。同業者がみんな結束して助け合うのです。これは全て中国の歴史とその間に養われた産物であります。

14日 人物評価の標準

そういう風に忠恕は、中国人にとって人物評価の一番の標準になっておるわけでありますが、これを別の語で表すと「仁」ということになります。 

15日 儒教は仁の道・仁の教 儒教は、「仁の道」「仁の教」であると云うことができます。仁とは天地・自然の生成化育の人間に現れた徳のことを申します。「医は仁術」というのは、患者を憐れんで無料で診療してやるということではなくて、患者の命を救う術と言うことです。謝礼を取る取らないは問題外でありまして、いくら無料診療をしてやっても患者を殺してしまったのでは仁術になりません。また「仁政」とは、人を生かす政-まつりごとでああります。景気を好くしたり、所得を多くしたり、或は享楽施設を発達させたり、レジャー、バカンスを楽しませたりするだけでなく、国民が限りなく生成発展し、進歩向上してゆくように導く政治、これを仁政と言うのであります。
16日 仁義

また仁と義を結んで「仁義」と申します。「われら如何に為すべきか」という規範・規則が義であります。これに対して欲望を満足させるのを利と言います。従って仁は必ず義と結ぶ。儒教は思想の道であると共に仁義の教えであります。この仁義と対立するのが功利でありまして、これは仕事や利益です。そこで儒教から言うならば、功利を如何に仁義に従わせるかということになります。仁義に背いて功利に走ると必ず失敗や災禍があります。儒教では歴史というものは、人間の大切な根本的原理・原則を実証するものとして大きな意義があるとみております。

第九講 儒教について()
17日 儒教 前回に続き儒教が人間というものを如何に解明しているか、特に我々の人と為り、人物、人生、世界というものの内容をどういう風に把握し、解釈しているかということを纏めて、皆さんの認識を確かにしたいと思います。
18日 儒道仏三教の流行

さて、儒と申しますと、やはりこれは孔子に始まるとせねばなりませんが、その孔子の系統には大きく別けて二つの流派があります。一つは孔子の理想主義的な面を主とする孟子派。これに較べて多分に客観的・実証的・現実的な面を強調する、つつまり孟子のアイディアリスティックに対してリアリスティックな面を説くのが荀子でありまして、この二つの大系統に分かれます。

19日

中国にはこの儒家系統ともう一つ、一般によく知られている語で老荘系統というものがあります。この系統は漢代以前は老荘と言わずに黄老と言い、漢代の末頃から老荘と呼ぶようらなりました。老荘とは老子と荘子の学問の系統であることは言うまでもありません。これがやがて儒家に対する道家となります。

20日

孔子の弟子に曾子(そうし)(曾参)という人があってこれが荘子と音が紛らわしいので、日本では荘子の方をそうじ(○○○)と読む慣わしになっています。この老荘系統と孔孟(或は孔孟荀)系統が中国の二大思潮でありますが、その後、後漢の時代になってインドの仏教思想が入って参りまして、やがて儒・仏・道の三教が中国文化の本流をなすようになったわけであります。

21日

そしてこの三教は互いに融合し、影響しあっておるのでありまして、例えば孔孟と黄老の場合でもそうです。戦国から特に漢代になると著しいものがありまして、五経の一つである礼記とか中庸などを読むと、両教の渾融することが明瞭に現れております。この三教の渾融ということは大切な問題でありまして、我々はこのことを通じて彼等が人間というものをどういう風に考えてきたかと言うことを理解すると共に、日本の思想・学問の源流―思潮というものが、叉よくわかって参ります。

22日 人物とは何ぞや

そこで始めに返りまして、一体われわれは人間というものをどう把握したか。よく「あれは人間が出来ておる」とか、「人間が出来ておらぬ」とか、「もう少し人間を練らねばだめだ」などと言うのでありますが、さて、人間が出来ておるとか出来ておらぬ、とすいうことの具体的内容は如何となると、どうも余りよく分っておらない。然し、そういうことをハッキリと把握しておくことは我々にとって大切なことであります。

23日 骨力

そこで話が繰り返しになりますが、改めて叉、人物の内容、或は要素というものを温習致しますと、やはり第一に挙げねばならぬ最も根本的な要素は「骨力」であります。骨力は平たく申せば「元気」、よく元気があるとす無いとか言うあの元気であります。日本人が日常生活の中で平気で使っておる語の中に、実に大変な専門用語・学術用語が沢山ありまして、普通なら到底民衆用語にならないような専門用語が、それこそ痕跡も留めぬほどに民衆によって使いこなされております。この頃の文化人のよく使う語で言えば、つまりマスターされておるわけです。これは、日本文化の一つの大きな特徴でありますが、勿論ひとり儒教に限らず、仏教においても同様であります。例えば「摩訶不思議」などという場合のマカは仏典の用語でありますが、みなん平気で使っております。

24日 挨拶

或は「挨拶」という語にしてもそうです。随分むづかしい熟語で、恐らく今の大学生達に書けというても書けるものは少ないでしょう。況や、挨とはどういう意味だ、拶とはどういう意味だと聞かれたら相当な人でも説明ができないと思います。その難しい熟語を日本の民衆は平気で日常生活の中に使っておるのであります。

25日

「元気」という語もその一つであります。「易」のお話をした時に説明したことですが、これは易学の根本的な熟語であります。易は算木(さんぎ)筮竹(ぜいちく)のいわゆる易者を通じて広く民衆に親しまれておりますが、然し易学というものは専門的にはなかなか難しいものであります。民衆はその難しさは別として如何にも民衆らしくマスターして、その専門用語である元気という語を自由に使っておるのは全く感心の外ありません。

26日

「元」という字は、宇宙的な意味においては大きいとか普遍的という意味です。そこから空間的にはもと(○○)、時間的にははじめ(○○○)と言う意味になります。一切のもと(○○)なりはじめ(○○○)となると大いなるもの、それが元です。

27日

「気」はエネルギーであり、クリエイトする力、即ち創造力であります。従って元気は一切の造化の本質・根元でありますから、元気があるかないかが人間、人物の一番基本的な要素ということになります。処が元気は往々にして「客気」と混同されます。客気というのは、ちょっと見たところは結構元気そうに見えるが、すぐ挫折する、続かない。お客のように今来ていたと思ったら直ぐいなくなると言う意味で客気と言うのです。これに対して元気は途中でぺしゃんこになったりしない、何事があっても常に溌剌として変わらぬ創造力・活動力を持続する。そこが元気と客気との違いです。

28日

処が、東洋では、日本も含めて中国もそうですが、学問・思想を余り抽象化することを好みません。なるべく具体的に把握しようとします。この東洋文化を通ずる一つの特質を西洋の学者は西洋的な表現で、インカーネート(incarnate)とか、エムボディ(embody)とかいう語で表現します。つまり学問・思想を概念的・論理的・抽象的思惟に止めないで、これを具体化して把握する、身につけるわけです。

29日 人間の神秘的な働きは殆ど骨の中

元気もそういう風に具体的に把握して、これを「骨力」と言うております。骨力とはよく言うたものでありまして、骨は我々の骨格を作ると共に、身体の中の一番大切な機能であります。栄養を初め造血、酸アルカリの調節、いろいろのエネルギーの維持と言った人間の神秘的な働きは殆ど骨の中で行われているのです。いわゆる骨と髄、骨髄によって行われているのです。

30日

我々が大切なものは必ず奥深い場所、或は堅固な金庫や蔵の中へしまいこむのと同じ様に、人間の身体・生命の最も大切な機能は身体の一番奥の一番堅固な骨の中にしまいこんでいるわけです。よく「あいつは中々の人物だ」などと言う時の、そもそも人物であることの第一義は何であるかと言うと、要するに骨力があるということに外なりません。骨力と骨っぽいと言うのとは違います。骨っぽいと言うのはごつごつしていることで、骨力は元気・気力のあることです。ぐにゃぐにゃしたのや、吹けば飛ぶようなのは、人間として第一段階において落第です。

31日 骨力と老荘思想

骨力は創造力・限りない生みのエネルギーでありますから、ここから色々の道徳が出てくるわけで、骨力はその根元をなすものであります。それでは骨力し柔和と反するかというと、決してそうではありません・それは骨力の表現の問題であります。骨力が練れてくると、剛が柔になる。その柔を把握したものが老荘思想であります。儒教はどちらかと言えば陽的方面、即ち剛と柔の剛の方に特徴を持つものであります。