安岡正篤先生のこと

この24年間、この会で、私は、安岡先生の著作をそのまま伝えてきていました。それは、巨人を語るのに間違っていてはならない、私見を入れてはならぬ、

群盲、象をなでる事になってはならないからであります。

群盲象を撫でる

また、小人物はスケールの大きな人を理解することができないと言うこと。

然し、私も傘寿となりました、この年まで生きて、言志録を読み直しましても、佐藤一斎先生と異なる見解も持てるようになりました。

そこで、安岡先生に就いて、色々と別の角度でお話して参りたいと思います。

安岡老師の教学は一口で申せば「人間学」であります。

人間には、利己と利他の二相、二面があります。この人間の本質を明らかにする教学が安岡先生の「人間学」だと思います。

人間は60兆もの細胞で作られた生き物の一員。

1.   全ての生命あるものの特色は「自己の為にのみ生きる本能」。動物は一時的な母性愛を除きこれだけ。

2.   人間にのみ与えられた「他に尽くす」精神・心霊がある。この発動を人間の本質としている。

この二相を人間は備えている。

この「人間の本質を明らかにする学問が即ち、安岡先生の人間学であります。

先生の教えの根本には「天命」に対する切実な思いがあったと思えるのであります。

8月ですから。

地球やら生命の発生に思いを致してみましょう。

太陽系の諸惑星の中で、唯一つ地球だけに生命の存在が許され、その造化・大自然の創造化育の作用は、地球上に無数の生命を生み、それは1000万種とも2000万種、それ以上と言われております。地球人口は69億人、人間は何千万種の中の一つの種に他ならない。

これは大きな驚きであります。そして現実には、それらの生物が、激烈な生存競争の中、いささかの違いもなく、夫々の生命本能の赴くままに、30数億年に渡り生命の新陳代謝をして粛々と歩み続けてきて現在に到っている。

この驚異的な事実は、人間の知恵、人間の力の到底及ぶものではないのであります。

天地自然、造化の偉大なる働きよるのであります。

安岡先生は、よくこう語っておられました。

「万物は、次第に、感覚・意識・精神・心霊を生み、人間に到って、それが高度に発達した」。

精神とか心霊は、人間だけのもので、他の生物には無いと思うのは、人間の慢心であり、不覚であり、無学である」とは言われていました。

勿論、人間の精神・心霊がそのまま他の動物にあるという意味ではない。そうではなく、人間の精神・心霊を、そうあらしめておる本質的なもの、即ち、太極が万物にあるということだ」と。

中国の思想・易であります。「太極は万物の根源であり、ここから陰陽の二元が生ずるとする」。であります。

8月であります。今日は、大宇宙の空に思いを馳せてみたいのであります。

46億年前、太陽系の一惑星として誕生した地球。灼熱の無機物時代、徐々に変化し膨張を続け、やがて有機化合物を生成して生命が誕生した。

それは、地球の直径が約13000キロに固定し、太陽の周辺を回る公転軌道の半径が15000千万キロに安定した頃と言われる。

地球は、やがて気温、水、大気に恵まれ、生命の誕生に必要な環境が整ったのであります。約24時間かけて自転しつつ365日かけて公転する。その結果、1000万種とも2000万種とも言われる無数の生物が生まれた。

その中から高等に属する幾つかの生物には、精神・心霊が付与され、特に我々人間には抜群に与えられたのであります。

このように考えますと、人智、人力を超えた、天地・造化の神秘は驚き以外には何も無いのであります。

我々は論語をやりました、陽貨篇にありました。

子曰く、われ言う無からんと欲す。子貢曰く、子()し言わずんば、則ち小子何をか述べん。子曰く、天何をか言うや。四時行われ、百物生ず。天何をか言うや

菅直人クン見れば、理解が早いですが、

人間は、知識人と言われる程、嘘のつき方が上手になり、不誠実なこと、心にもないこと、など、言葉を飾り、糊塗するばかり。

孔子は、これを慨嘆されたのです。われ言う無からんと欲すと。

それを聞いた弟子の子貢は驚いた。「子貢曰く、子()し言わずんば、則ち小子何をか述べん。」ですね。

「先生が、もし何も言われなければ、我々は先生の教えを何と伝えればよいのでしょうか」と、率直に尋ねた。

子貢は、孔子の死に、墓所に庵を建て6年の喪に服した高弟です。孔子の答えは

子曰く、天何をか言うや。四時行われ、百物生ず。天何をか言うや

天は、何一つ言葉で説明しておらない。それなのに、春夏秋冬の四時は、一瞬も、たゆみなく順行し、百物は少しも狂いなく生まれては、成育し、消長もする。盛衰の変化を遂げておるではないか。

この厳然たる天地自然の運行に就いて、天が一語も説明しなくても、人間は、天の現実を見て、四季の移り変わり、四時のたゆみない運行に同調して、田畑を耕し,作物を作り、花を観賞し、その実を収穫し、豊作を祝っているではないか。

要するに、万物が生成化育、消長変化する現実の姿を正しく受け止めて、この大自然の運行と、和することが出来るのは、

人に心があり、その精神活動が、それを感得するからであって、人々が天地自然の運行に敬虔に従い、自然と相対する時は、天も地も、人間の心を嘉することであろう」と、

天命に対する自分の心を表明したのであります。

安岡先生の教学の根底にも、このような考えがあったと思う者であります。

論語の顔淵篇に、「民、信無ければ立たず」があります。現在の政治家に教えてやりたい言葉です。

子貢、政を問う。子曰く、食を足し、兵を足し、民之を信にす。子貢曰く、必ず已むことを得ずして斯の三者を去らば、何れをか先にせん。曰く、兵を去らん。子貢曰く、必ず已むことを得ずし斯の二者を去らば、何れかを先にせん。曰く、食を去らん。古より皆死有り。民信無ければ立たず」

子貢が孔子に「先生、政治の眼目はどこにあるのでしょうか」と。これに対し、孔子は三つの道筋を示した。

一つは、「食を足し」、経済政策の充実であります。

二つ目は、「兵を足し」、自衛力です。独立国であれば、

堂々と国民にアピールすべき問題であります。

つまり、国家は、国民生活の安定、国民の安全の為の

防衛力を指摘しています。

孔子は、「民、之を信にす」と言いました。道徳を確

立して、国家も国民も、誰も信頼し安心して暮らせるようにすることだとの指摘です。

子貢は、更に突っ込んできます。

「然し、どうしようもない事情の為に「食と兵と信」の三つの中から、一つだけ止めるとすれば、どれですか」

孔子は「その時は、兵を止めましょう」

子貢は、続けて「残りの「食」と「信」で、已む無い場合、どれを止めますか」と更に聞いてくる。

孔子は「その時は「食」を止めましょう。古来から、人間が生まれてから今日までを考えると、いずれ人間は死ぬ。生まれた以上は死ぬ。だから食を止めても仕方ない。但し、信を止めることは出来ない」と。

信は、天が人間にのみ与えた徳であると云うのでありましょう。真心です。これは人間が作れるものではない。数千万種の地球上の生物の中から、ただ一種、人間に対して天が与えてくれた心であり精神であると云うのです。

つまり、信は天命だと安岡先生は言われました。

現代は、信と食と兵を同列に並べて考えている。

兵がダメなら、食がダメならば、信だけ残すの孔子の道徳はコチコチだと言うのでありましょう。

真意は、そうではない。安岡先生の解釈は、信とは人間が作ったものではない、絶対の力を持つ造化が人間に与えたものであり、食とか兵とかは人間が作れるものだ。人間世界のことに過ぎないと。

処が、人間の生命、精神、心霊の世界は、人間が作れるものではない。人間はこの天命に従わなくてはならない。

天命とは、即ち、「性」の働きです。生ではありません、心のついた、リッシン偏の性です。

つまり、人間としての、本質的なものは信だと言うことであります。この信が無ければ、生物の一員であっても、人間ではない、と云うのであります。

それが、人間の利他の精神、他に尽くす精神であります。安岡先生の人間学も、ここにあります。

この「性」の働きは人間が勝手に作ったものではなく、人間の力の到底及ばない天命のしからしむ所のものであるから、人間は忠実にこの天命に従わなくてはならないと云うことであります。

そして、天命は、人間の踏むべき道であるから、人間社会に於ける「仁・義・礼・智・信」に代表される人間の本質である道徳的活動の主体とならなければならないというのであります。

これらの人間の徳性は、その「性」に従って発現するものでありますが、この道は、安岡先生が教えておられるように、自分以外の他のものを大切にする「自他顧憐(じたこれん)情緒(じょうちょ)」に生きることだと言うのであります。

生物学的には、人間も自然の中の一生物です。従って、

「生きとし生ける一切の生物と同様に、肉体に宿る生命が消える時が人間の個体も終る時であります」。

然し、「性命」を持つ人間は、天命により精神的・心霊的な生活をして、永遠に生き続けることが出来ることを知らなくてはならぬ。

これが本日の結論であります。政治家諸君に聞かせてやりたいものであります。