安岡正篤先生の言葉  徳永圀典選

日本精神の妙所 

 日本精神の妙所は前にも説いたように、尊い感激の対象に没我になって参じてゆく点に在る。換言すれば、自分が飛び込んでゆける、ぴったり呼吸の合う相手が欲しいのが日本人の気質である。それがあると忽ち生活が活気づく。けれどもそんな感激が無ければ、これではならぬと知っていても、どうにも元気が出ない。面白くない。近代の日本人はつまりこの悩みに苦しんできたのである。

 学校にいっても、先生はもはや真実の籠もった心に響く講義をしてくれない。先輩を訪ねても、所謂スイートホームの殻を蓋じて、若者を喜んで迎え、共に飲み語ろうてくれることがない。上役と下役、同輩の間、いずれにしても事務的交渉、打算的社交以外興味策然たるものである。村に帰っても、お寺にも、お社にも学校にも、役場にも、一向話し相手になる面白い人物がいない。随って面白い事もない。世の中に知音(ちいん)のないほど淋しいことはない。 経世瑣言

人生が本当にわかって来た時 

 ある朝、今まで何やら分けが分からず闇の中に蠢いていたものが、だんだんわかるような気がして来た時でありました。私はふと、「暁」という字を思い出すと共に、この字を、あきらか、と読み、さとる、と読んだ、古人の心がしみじみわかるような気が致しました。あきらか、という字は外にも沢山ありますが、暁のあきらかは、夜の闇が白々と明けるにつれて静寂の中に物のあやめ・けじめが見えてくる、物のすがたがはっきり見えてくるという意味で、言い換えれば、それだけ物事がわかるということであります。

 誰でもそうでありますが、若い時は夢中になって暮らしてきても、或る年齢に達すると。丁度、暁を迎えたように、物事がはっきりしてくるものです。物事がはっきりわかるということは、つまり悟るということです。

 もう一つ、同じ、あきらか、でも少し趣の違うのか゜「了」という文字です。これは、あきらか、と同時に、おわる、という文字であります。

弘法大師の詩に「閑林独坐草堂暁。三宝之声聞一鳥。一鳥有声人有心。性心雲水?了々」という有名な七言絶句がありますが、この場合の了々は、あきらか、という意味です。また従って了には、さとる、という意味がある。漸く物事があきらかになり、人生がわかって来た時が、もうその生涯の終わる時でもあるのです。人間というものは実に微妙なものであります。了の一字、深甚な感興を覚えるではありませんか。          東洋思想十講