雄略天皇から継体天皇

平成27年8月

1日 飯豊皇女

とどりつまり、雄略天皇から継体天皇までの間、はっきりした天皇になられる皇子が見つかるまで、飯豊皇女を立てて天皇の地位を継承させていたというのが実際ではなかったかと思われます。

2日 継体天皇 最終的には正統な皇位継承者がなく、越前の三国に男大迹(おおどの)(みこと)という皇子を発見し、その皇子を天皇に擁立することになつたという話になります。それが継体天皇です。
3日 大伴金村の功績

飯豊女帝が亡くなられたので、それに次いで新たに皇位継承者として大伴(おおとも)大連(おおむらじ)金村(かねむら)が見つけておいた継体天皇を越前の三国から迎えて皇位を継承させたのです。

4日

継体天皇は、「記紀」の系譜でみると応神天皇の五世の孫だと伝えられています。かって都に出ておられた妃のような方が生んで、国へ帰って育てられた皇子であるというわけです。

5日 系譜上の擬制

然し、応神天皇の系譜が持ち出されたのは、万世一系的な思想によって前の王朝と新しい王朝とを結びつけ、継体天皇が皇統を継承するに相応しい人であったことにする為、後から作った系譜上の擬制であると私は考えます。

6日 葛城氏をおさえた大伴氏

大伴氏による継体天皇の擁立は、新王朝の樹立を意味するとともに、前仁徳王朝で勢力を誇っていた葛城氏の勢力を大伴氏が封じ込んだということでもあります。

7日

仁徳王朝の始祖である仁徳天皇は、葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)(むすめ)である磐之媛(いわのひめ)を大后としており、葛城氏は以来、仁徳王朝を通じ外戚家(がいせきけ)として大きな力を持っていました。

8日 熾烈な抗争 最初、これに対抗していたのは平群(へぐり)()で、両者は皇位継承を巡って自分たちに有利な皇子を立て、相手の立てる皇子を暗殺するなどして天皇家を巻き込んで血で血を洗う熾烈な抗争を繰り返したのでした。
9日 「記紀」が記す生々しい住吉(すみのえの)(なかつ)皇子(みこ)の刺殺事件、大草(おおくさ)(かの)皇子(みこ)の事件、(まゆ)(わの)(きみ)の変などの伝説史的事件は、葛城氏や平群氏ほか有力豪族による勢力拡大、抗争を反映したものにほかならないのです。
10日 葛城氏

葛城氏は一時平群氏によって滅亡させられ、平群氏が大臣として権勢を奮いますが結局、葛城氏の勢力を一掃するために多くの皇子を抹殺した結果、雄略天皇の後に皇位継承者が断絶するという事態を招いたのです。

11日 平群氏 平群氏は雄略朝期に滅び、代わってその末年ごろには大伴氏が雄略天皇の信任を得て台頭してきます。処が雄略天皇亡き後、皇位を継承した飯豊天皇は葛城氏の血を引く皇女なのです。
12日 葛城政権

葛城氏は平群氏滅亡後も政権回復を企て、自らの系統の飯豊皇女を本拠地である(おし)(うみ)高木(たかき)(つの)刺宮(さとしのみや)に即位させ、いわば葛城政権を樹立したのでした。

13日 大伴氏
継体天皇を迎え皇位を奪取
この飯豊天皇の即位は、雄略天皇から後事を託されていた大伴氏にとっては焦慮すべきことです。そこで、大伴氏は葛城政権に対抗するため、八方手を尽くして各地に天皇に相応しい皇子を探し求め、やがて越前の三国から継体天皇を迎え、皇位を奪取することに成功したわけです。
14日 大伴氏が新王朝を樹立

こうして、仁徳王朝の皇統断絶後、天皇家の親衛軍の最高指揮官であった大伴氏が新王朝を樹立して新たな体制を整えたのです。 

15日

宮内庁

宮内庁
皇室関係の国家事務及び天皇の国事行為にかかわる一定の事務を司どり、御璽、国璽を保管する行政機関。

16日 宮内庁 総理府の外局。総理府の外局。長官官房、総理府の外局。長官官房、侍従職、東宮職、式部職、書陵部、管理部、京都事務所の各部局がある。
17日 平群氏 平群氏
武内宿弥の子、都久宿弥を本拠地とする。真鳥、鮪父子は五世紀後半の大和朝廷で活躍。

大伴氏の勢力圏河内に都を定めた継体天皇

18日 まず河内に都 大伴大連金村によって擁立された継体天皇は、越前の三国から直ちに仁徳王朝の都城のあった大和に移ってきたのでなく、まず河内に都を定められました。
19日 和泉・河内が擁立者大伴氏の勢力圏内であったのに対し、大和は葛城・物部などの古来の有力豪族たちの地盤だったからだと見られます
20日 葛城氏はいうまでもなく、大和の旧豪族たちは、大伴氏のような言わば、外様の豪族の台頭を喜ぶはずもなく、大伴氏としても自らの擁立した新しい天皇をそうした旧豪族の居する大和に直ちに入れることはできなかったわけです。
21日

そこで、まず自分の勢力圏内に天皇を迎えてその地で即位させたのだと考えられます。

22日 大和国内入り 継体天皇は、即位から五年後に(やま)(しろの)(くに)()城宮(つきみや)へ、さらに七年後に山背国の(おと)(くに)へ遷都をなされ、即位後二十年にして漸く大和の磐余(いわれの)玉穂宮(たまほみや)に都を移して大和の国内に入られたのでした。
23日

即ち、継体天皇はその治世の最終期において、初めて歴代天皇の都の所在地、大和朝廷の本拠地である大和国内に入ることができたのです。

24日 逆に言えば、大伴氏はそれだけ新しい天皇擁立について他氏族の動静に注意深い配慮をしていたのです。
25日

そして、継体王朝はその基盤を確立するにいたるまで、擁立者である大伴大連金村が権勢を掌握して他豪族を抑圧していたので薄弱だった新王朝の基礎が固められたともいえるのです。

26日 大伴氏の失脚

継体天皇の在位中、朝鮮半島における日本の植民地支配はより困難になりました。大伴氏は継体天皇擁立によって一時の繁栄を謳歌したのですが、それもこの朝鮮半島の情勢に起因する失政によって呆気なく失脚させられるのです。

27日

継体朝は新羅に侵された朝鮮植民地・任那(みまな)の再建のために近江(おうみの)()()(おみ)に六万もの大軍を与えて遠征に向かわせましたが新羅の工作によって国内で筑紫(ちくしの)国造(くにのみやつこ)(いわ)()の反乱が起こるなど、内外に複雑な問題が継起したのでした。この磐井の反乱は、長年の朝鮮半島経略の負担が九州北部諸国の豪族を圧迫し、その不満が爆発したものと考えられます。

28日 朝廷は物部(もののべのあら)鹿()()を将軍として漸く磐井の乱を平定し、近江(おうみの)()()(おみ)はかろうじて任那に渡ることができたのでした。
29日

然し、近江(おうみの)()()(おみ)は朝鮮において失政を行い、任那人の反感をかっただけで遂に帰朝を命じられるという失態を演じたのです。

30日

勢力を築き上げていた大伴氏ですが、最高責任者としてこの朝鮮問題での失政の責任を問われ、その為遂に失脚へと追い込まれたのです。

31日

もとより、これは単なる朝鮮問題への批判ではなく、豪族同士の勢力抗争が背景にあったことは言うまでもありません。