安岡正篤先生「一日一言」 そのJ

平成25年8月

1日 人物としての失格 いかなる素質、才能があっても、志が無ければ人物としては失格である。言葉を変えて言うなら理想だ。理想を持たない人間は、これはもうしようがない。志は自然に「志気」というものになるが、然しその志気も刹那的、一時的ではダメであります。永続的でなければ生命にはならぬ。
2日

真の生命から出ている志気は必ず永続的なものであり、同時にその過程において色々の矛盾や迫害がある。その如何なる矛盾、迫害にも堪えていかなければならん、維持していかなければならん。そして、色々に変化、困難にもめげない堪える力であります。そういう志気を終始一貫して把握していくことを「志節」といい、「節操」「気節」というものが生まれる。これが「元気」「骨力」に次いでの人物の重要な能力であり性能であります。(この師この友より) 

3日 腹の尊さ

今日の人間は、なにかと言えば頭が善いとか、悪いとか、頭で人間を評価する。もう我々の先祖が言うたように「腹」と言うことを余り言わぬ。頭とは何であるか。それは浮世三分五厘的生き方に過ぎない。世の中を深刻にわたること、人間を真実ならしめること、人生を尊くすることなどに役立つ力ではない。そこに腹の尊さがある。腹とは世の中を深く洞察し、人生にどっしり落ち着いて、自己、他人、世間、国家、すべてを真に血あり涙ある尊いものにしてゆく力である。これからの世は殊に頭の人間では救われない。今までの教育で腹のある人間が出来ようはずはないではないか。  (天地有情)

4日 五倫五常から一倫時代へ 胡蘭成と言う思想家・文章家として名高い中国人が過去にいた。氏曰く「この頃はどうも世の中が一倫時代になった」と嘆息した。東洋思想には昔から「五倫五常」と言う人間を成立させる筋道があった。「君臣・父子・夫婦・朋友・長幼」と言う五つの関係から人間が成り立ってきた。処が今日の世の中を見ると「まず君臣関係というものが分らなくなってしまい、父子関係が怪しくなり、朋友、長幼なんていう関係は乱れてしまって夫婦関係だけになってしまった。即ち五倫が一倫になってしまったようです」と言うのである。 
5日 一倫も怪しい近年 なるほど、これは見事な見識です。さらに彼曰く「残っていると思っていたその一倫もこの頃は怪しくなって夫婦なんていうものは、段々男女関係になってしまつた。これはもう人倫というものじゃありません。獣倫であり鳥倫である」鳥獣と同じだと言って慨嘆しておる。極端に言えば、当にその通り。そこで我々は改めて五倫を確かめ、特にせめて残されている一倫をよく考えなければならん。儒教でも「君子の道は(たん)を夫婦に()す」という。夫婦関係から人間生活が始まると力説しておる。        (この師この友)
6日 個と全体 すべての物には、その物独自の立場と全体の一部分としての立場とがあって、個は他の個及び全体との関連において初めて存在することができる。例えば人間は存在するものの最も代表的なものであるが、その人間はそのもの自身、自己と同時に全体の部分として、他の己と共に存在しておる、つまり分在である。そこで、これを結んで自分と言う。 
7日 自分という言葉 我々は自己・自分として自在であると共に、全体に対して分在するのであるから自らそこに守分と言うものがなければならない。この自分自身と他己、及び全体との関係を礼と言うのであります。そういう意味から言って,Iだとか、Ichとか、と自称を表す語は世界にたくさんあるけれども、自分という語ぐらい意味のあるよくできた語はありません。 
8日 大臣の資格 為政三部書の「三事忠告」の一つ、「(びょう)堂忠告」、大臣学十章の中に、任怨(にんえん)という章と分謗(ぶんぼう)という章がある。大臣のように要職にある者が、大事を断行しようという場合、どうしても怨みというものは免れない。必ず誰かが怨む、どこからか怨まれる。それを恐れていたのでは何も出来ない。だから甘んじてその怨みに任ずる者でなければ到底大臣の資格はないわけです。
9日 廟堂忠告 また大臣のような重要な地位におると、訳のわからぬ連中や反対派の連中から必ず色々と非難や謗りを受けるから、そういう時はその非難や謗りを分け合って決して自分だけ善い子になろうとしてはいけないと云う誠に頭の下がる一文であります。
10日 分謗(ぶんぼう)

学生騒動などを見ておりますと、よくわかりますが、大学の先生を初め、政府の人々に至るまで、学生やこれをけしかける連中から怨まれたり謗られたりする事を恐れて、断固取り締まるどころか、何とかかんとかと意識的に、これを迎合しようとさえする者が意外に多い。実際に取り締まるとなると難しいことはよくわかるけれども、やはりやるべきことはちゃんとやらなければ益々徒にのさばらせるだけです。          (陰隲録を読む)

11日 知非 昔、衛の国の偉い人に(きょ)(はく)(ぎょく)という人がおった。論語の中の一節で孔子はこの人を礼讃しております。老計学の有名な言葉として「行年50にして、49の非を知る」。50になってそれまでの49年間が間違っておった、駄目だったと言うことを、しみじみ悟った人であると「淮南子(えなんじ)」では言っております。これを「()()」と申します。 
12日 知命は知非 皮肉に言いますと、人間は50になる頃、いや最近は寿命が延びておりますので、10年くらい違っておるのかもしれませんが、ともかく昔は、この年齢に達しますと、その人なりに自分というものが分ってくるのです。もっと通俗に言えば、50という声がかかると、人間は野心というものに見切りをつける。「俺もここまでやってきたが、いよいよ定年が近づいた。自分も大体来る所まで来た。もうなんぼ焦ってもいかん。これからは一つ倅を立派にしよう」という風に考える。これは一番通俗な「知命」であります。同時に「知非」であります。
13日 本当の老 処が、先に述べましたように「淮南子(えなんじ)」を見ますと「行年(こうねん)五十にして四十九の非を知り」の後に「六十にして六十化す」とあるのです。これは、六十になっても、六十になっただけで変化すると言う意味です。即ち、人間は生きている限り、年を取れば取るほど良く変わっていかなければならぬと言うことです。悪固まりに固まってしまっては駄目である。動脈硬化だけではない、大脳硬化、精神硬化、何でも硬化してしまう。硬化したのでは本当に老ではないのであります。          (人生五計)
14日 (りく)(ぜん) その一

超然

人処藹

 崔銑(さいせん)の「崔後渠集(さいこうきょしゅう)」にある有名な言葉の(りく)(ぜん)のことである。自処(ひとにしょするに)超然(ちょうぜん)」、これは自分のことには超然としておりなさい。人処藹(ひとにしょするにあい)(ぜん)、藹然というのは、春になって木々が一斉に青々と伸びる。春万物の新しく栄える姿です。人に処するに藹然と言うことは、つまり人に対しては、いかにもその人が活き活きといい気持ちを感ぜしめるような雰囲気を言います。人によっては、いかにもその人に接すると、いい気持ちにさせられる人と、粛然として引き締まるような感じをさせられる人とか、色々あります。この(あい)(ぜん)と言うのは、いかにも春のような気持ち、春、草木が気分よく青々と伸びる、栄える、そういう誰にもいい気持ちさせることです。

15日 その二

有事斬然

無事
それから「有事斬(ゆうじざん)(ぜん)」というのは唐代の俗語です。すっきりしている、何か問題があるときに、うろたえたり、へこたれたりしないで、すっきりしているという言葉です。「無事(ぶじ)(ちょう)(ぜん)」は、無事の際には、ちょうど水が澄んでる、住み切ってる状態のこと。
16日 その三

得意澹然

失意泰然
得意澹然」とは、得意のときには、あっさりしていること、いかにも得意満々というようなことがなく、あっさりしている。「(たん)」は「淡」という字と同じです。六番目は「失意(しつい)泰然(たいぜん)」。失意の時にも泰然自若(たいぜんじじゃく)としていること。失意のときにあっても何でもないように振舞う。これなかなか難しいことで、これが本当に体得、体現することができれば大した人物であります。これこそ真の自由人であります。
17日 六中観 
第一「忙中観
私は年の初めにいつも六中観と言うものを反省してみる。
第一は「忙中観」である。真の閑は忙中にある。唯の忙は価値がない。文字通り心を亡うばかりである。忙中閑あって初めて生きる。
18日 六中観 
第二「苦中楽」
第二は「苦中楽」である。苦を唯苦しむのは動物的である。いかなる苦にも楽がある。
19日 六中観 
第三「死中活」
第三は「死中活」である。窮すれば通ずということがある。死地に入って意外に活路が開けるものである。うろたえるからいけない。
20日 六中観 
第四「壷中天」
第四は「()中天(ちゅうてん)」である。我々は、どんなうるさい現実生活の中にあっても、心がけ一つで随分と別の世界に遊べるものだ。詩歌でも音楽でも、信仰でも学問でも、何でも壷中天はある。神仙はこの現実にあるのである。
21日 六中観 
第五「意中人」
第五は「意中人(いちゅうひと)」である。病んだ、どの医者にかかるか。事業を興す、誰を重役にするか。それが平生意中になければならない。
22日 六中観 
第六「腹中書」
第六は「腹中書」である。愛読書を持っている。信念・哲学を持っているということである。(醒睡記)
23日 天人一体観 
その一
西洋の思想学問は、特殊なものを除いて通例「自然」と「人間」を分けて考えておりました。しかるに東洋の方では、自然と人間を一貫して考えておりまして、別のものとは思っておりません。と言うよりは、むしろ自然の中から発達してきた最も偉大な貴重な自然が人間であるという考え方、これを東洋では「天人一体観」と申します。
24日 天人一体観 
その二
これをヨーロッパに戻しますと、例えば、誰知らぬ者のないアインシュタインを半円とすると、合わせて一円になる他の半円は、タイヤール・ド・シャルダンだといわれます。古代生物学、地質学等のオーソリティで、東洋研究家であります。そしてまた、天主教の司祭でもあります。
25日 人間は偉大な自然 この人などは、全く東洋の「天人一体」を、その西洋学的立場から唱導しておりまして、「現象としての人間」と言う名著もございますが、この人に言わせると、この宇宙の中から地球が造られ、最初は水と水蒸気の雲霧濛々たる時代であった。即ちatmosphere また hydrosphereであったが、それから段々無機物の世界(geosphere)となり、そこから有機物的世界(biosphere)が発展してきた。その有機的生命世界から、次第に高等生物、遂に人間というNoosphere、ノース(noos)と言うのはギリシャ語で、「心」という意味であります。ノースフィヤー、心の世界、つまり宇宙発展史上に人間を位置せしめておる。自然と人間とを一貫過程においておるわけであります。これは全く東洋流の考え方と一致しております。
26日

そして人間と言うのは、そういう進化過程に一番遅れて出てきたものである。非常に早く特殊化した「えび」とか「かに」とかいうものは、進化過程に早く分かれてしまつた「スペシャリスト」だが、これに反して大器晩成の最たるものが、まさに人間でありまして、長い生物の進化過程を、悠々と歩んで一番晩成したもの、こういうものを「ゼネラリスト」と申します。人間でも、余り早くスペシャリストになってはいかん、なるべく素朴に、純真に、大器晩成を考えていった方がいいと言うことは、こういう進化過程を見てもわかるのであります。

27日 ヨーガ() インド民族の思想は、絶対者すなわち、造化自体を、西洋のようにゴッドとしないで、(ぼん)・ブラーマンとした。心を調べるには絶対者たる梵と一緒になることである。そのために一切の情欲を(しりぞ)け、境遇に心を動揺させないようにして、いろいろの戒律を守る。殺生しない、嘘を言わない、泥棒をしない、と言うような十戒を守る。そして動揺する精神を統一する。これが坐禅であります。坐禅というのはただ坐って木や石のようになることではない。ヨーガ(yoga-)になれば、先ず第一に止観(しかん)をやる。
28日 三昧 静坐して息を整え、心の散乱を止めて、精神を統一し、集中して、外界のごたごたから動かされなくなった心を「()(そく)清浄(しょうじょう)(こころ)」という。()(そく)清浄(しょうじょう)(こころ)で梵になって、初めて凡下から救われ、本当の叡知が出て来る。その叡知で物を見ることを観と言う。この止観をだんだん深めて往って、そして如何なる窮地に臨んでも楽地に立っても一切心が本当に純一になって、深遠な叡知を磨き出す。その境地を三昧(さんまい)というのです。
29日 叡知の心 三昧というのは昔から殆ど慣用語になっている。従って三昧にもいろいろありまず。環境に応ずる三昧、自らの相に応ずる三昧など、例えば我々が慈愛そのものになりきって、そしてその純一な慈愛から智慧が出る・母は子供を愛するが故に赤ん坊のかたことが分かる。男には何を言っているやら分からぬ。母はよく聞き分ける。これは慈愛に徹するからである。これを慈三昧といいます。願い事ら一心になると願三昧です。     (東洋学発掘)
30日 古典と国家民族の生活 不幸にも今日の日本は、古典についての教養を持つ、そういうことが酷く荒んでおります。然もその欠陥が、国家・国政ばかりでなく、既に民族生活の核である家庭の中にまで入り込んで、今や日本の家庭生活は歴史的にかってなかったような危機に瀕しておると言えます。
31日 家庭生活と国家 家庭生活の破壊は民族の滅亡につながります。いくに経済政策がどうの、福祉生活がどうのと言うたところで、家庭生活が健全でなければ国は持ちません。従って、これを救うには、結局は国民に本当の意味に於ける教養、単なる知識とか技術というようなものではなくて、人間としての心得である教養を厚くすることより外にはありません。これは政治学から言うても、民族学から言うても、動かすことの出来ない真理であります。   (東洋思想十講)