教育の本質は「実生活を見失わぬこと」                   

()(しゅう)ということ

「論語云。子曰。学而時習之。不亦説乎」。「論語に云う、子曰く、学んで之を時習(じしゅう)す、亦(よろこ)ばしからずや」

この言葉は、誰知らぬ者のない論語の名言でありますが、そのわりに本当にこれを解釈しておる人が少なくて、多くの人々は「学んで時に之を習う。亦説ばしからずや」と読んで、ときどき復習するという意味に解釈しております。

()(しゅう)とは

これは全くの誤りではありませんが、浅い解釈で、本当はもっと深い、生きた意味があります。即ちこの場合の「時」という字は、時々という意味ではなくて、そのときそのときという意味であります。我々が日常体験するその一つ一つを好い加減にしないで、そのときそのときを活かして勉強する、活用する、これが「時習」であります。

或は時という字はこれ(○○)とも読みますから、少し凝った学者の中には「学んでこれ之を習う」と読ませておる人もあります。それもよいのでありますが、強いてそのように訳読しなくとも、じしゅう(○○○○)で結構であります。よく注意しておりますと、昔の学校などにこの時習という名がついております。熊本にある時習館などもその一例であります。

活学

それから「習」という字。これも広く通用した文字でありますが、正しく解しておる人は案外少ないようです。習という字は、上の羽は()()、下の白はしろ(○○)ではなくて、鳥の胴体の象形文字であります。つまり習という字は、雛鳥が大きくなって巣離れする頃になると、親鳥の真似をして羽を広げて()ぶのをお手本にして雛鳥が翔ぶ稽古をするように、所謂体験をする、

実践をするという意味でありますから、「また(よろこ)ばしからずや」ということも活きて参ります。人間生活があらゆる面で便利になるにつれて、思想だの学問だのというものも普及すればする程通俗になります。然し、本当の学問は、自分の身体で厳しく体験し実践するものであります。この意味が本当に理解されて初めて活学になります。 

教育の本質は

幕末から明治の初めにかけて行われた塾式教育の時代には、行儀作法から始めて極めて具体的、個性的、実践的に学問教育が行われましたが、それが近代の学校制度になるに及んで、多数の生徒が一堂に集まり、教科書を使って勉強するようになりました。

それから師弟も人間と人間との関係、直接の関係が無くなって、ただ知識本位、理論本位に終始して、次第に人間としての具体的な存在や行動から遊離して参りました。

実生活を見失わぬこと

学問というものは体験を貴しとなし、その体験を練磨することでなければなりません。その意味で「学んで之を時習す。亦説ばしからずや」という語は非常に短いものでありますが、限りなく深い意味と効用があります。

学問・修養というものは、論理だの思想の遊戯だのというものでは駄目であって、我々は日常の実生活を見失わぬようにしなければならぬということであります。

従って、「時習」の語は儒教の大切な一つの眼目であります。

              安岡正篤先生の言葉