安岡先生の語られた「日本人物評価」

大谷吉継と石田三成――人使いと金銭哲学

大谷吉継 

1559-1600、豊臣秀吉の小姓、奉行として活躍。越前敦賀で五万石、秀吉死後、徳川家康に接近するが関が原の合戦では石田三成に協力し敗死した。

「百万人を動かす軍配をあずけてみたい」、これは秀吉から軍略の才能を評価された大谷吉継への言葉である。

秀吉死後、吉継は家康が天下人に相応しいとし会津の上杉景勝攻めに出陣。然し、良友の石田三成から家康討伐を打ち明けられると、無謀だと諌めた。だが、三成の意思が固いと知ると、三成への友情と秀吉への恩義から挙兵に参加する。

関が原の合戦では、体の不自由な吉継だが、家臣の担ぐ輿に乗り奮戦した。寝返った小早川秀秋には一丸となり攻撃し激戦を繰り返した。三成の軍勢が崩壊すると、敵に屍を晒すことを恥じて自刃し、首を地中に埋めさせた。