三論の禍

現代の知識階級は三論の禍を受けている。曰く、法学理論、曰く経済原論、曰く哲学概論、こういう概論、通論、汎論がすこぶる流行る。教育をやりましても、要するに教育概論、宗教をやりましても心理学を修めてもそういう本を読んでいる。 

概論好きの日本人

例えば倫理学概論式のものを何十冊読みましても、概論には何が書いてあるかと申しますと,人格とは何ぞや、行為とは何ぞや、良心とは何ぞや、目的とは何ぞや、というような人間の倫理現象を分析解剖して、これを系統的に解説したものに過ぎない。 

宗教概論にしても、宗教とは何ぞや、人生に置ける宗教現象の説明、宗教の種類、宗教の特質云々というようなこと、つまり水は酸素と水素で出来ている、その割合は一と二でH2Oになっているというような具合で、それも大事な研究ではあるが、喉の渇きは止まらぬ。人体の栄養にはならぬ。 

操縦可能な理論

そういう我々の実践の力にならぬ形式論理、概念の遊戯に等しい抽象的理論が非常に跋扈している。

口は調法で、この抽象的理論というものは誰がどうにでも操ることができる。場合に依って反対になることがある。 

日本精神を盛んにしようとして猫も杓子も日本精神を論じて、却って日本精神に反感を挑発したことも痛切な体験です。 

今日のように刺々しい利己的本能丸出しにして、虫の好い理屈と闘争ばかりに耽っていて一体どうなるか、こんなことがわからぬ程、病的心理になっているこの近代の理知主義、抽象的な、ことに理論万能の行き方は強く反省されねばなりません。 

安岡正篤先生の言葉