神様の衣装函 徳永圀典
秋
日本の秋は最も愛する東北、十和田湖御倉半島、錦ヶ浦周辺の絢爛豪華の錦秋は神様の訪問着と言うしか表現を知らない。紅葉はこの世の極楽に思える、八甲田はブナの紅葉樹林帯の中で死ねたら私は本望、ここは神様の褥ではなかろうか。奥入瀬の樹林でもいい、幾度も歩いたが日本に生まれた喜びをいつも感じる。中禅寺湖周辺、小田代ヶ原、戦場ヶ原、湯の湖、全山紅葉も見事、これは神様の友禅衣装に違いない。黒部渓谷も神様模様だ、あれは仕事着か、荒々しい仕事で擦り切れているようだ。四阿山根子岳十ガ原は神様の奥座敷に違いない。京都は常寂光寺、黄一色の紅葉はさしずめ黄八丈か、神様の都会のお洒落着なのであろう。洛北にある後水尾上皇の修学院離宮の豪華さ、離宮正門真紅のモミジは神様の晴れ着であろう。永源寺の紅葉、銘仙をお洒落に着こなしているようだ。京の都、東の都の名庭の数々、惜しげもない衣裳の展示会だ。
神様の正装は文句なしに伊豆半島から見た富士山の麗姿であろう。ここは神様が裃の正装をしてお迎え下さる正面玄関、ここから奥座敷の箱根に案内なさる。渡り廊下の十国峠から相模湾、駿河湾を見渡して古代から数多く歌われている。山部赤人の神さびの歌、天女の羽衣にて東遊の舞曲などをものしたくなる。
「箱根路を越えさりゆかば伊豆の海や沖の小島に波の立つ見ゆ」、源実朝は歌人のほうが幸せであった。
岫雲斎も愚作をつくる。
片瀬なる岩場の海に黒潮が青く砕けて白く散るかも
春
春の新緑は言うを待たない。新緑は命の蘇生と循環を思わせ、生命賛歌を叫びたくなる。十和田湖畔の林にて早春のある日、妻のつぶやきを漏れ聞いた。
みちのくの春はゆたかにひろがりて
キクザキイチゲひそと咲きおり
薄紫の控えめな可憐さがいとおしい。
甲府は韮崎付近から見える春の鳳凰三山は神様の春の縮緬お召しか。頭には雪烏帽子、身丈は桃花模様、そして裾は萌黄の淡い緑色。「日本ってこんなに美しい!」と世界中に回覧板を回したくなる。雄々しき甲斐駒ケ岳などさしずめ武神の黒紋付だ。
長い冬を忍んで待ちに待った弥生、新緑を待ちかねて山々に出かけ、散々に歩き廻るも新緑はまだまだだと帰宅、一風呂浴びて庭の樹木をよくよく見れば、蕾は満を持して膨らんでいる、春は枝頭にあって既に充分、これが早春の風景。それからは束の間だ。遠く眺める森の梢が先ずぼんやりと薄茶色に霞む。それが次第に萌黄色となり、薄緑となり新芽がふいてくる。この頃の期待感は命の蘇りを待つ思いで私の最も好きな季節。
新緑前に桜前線が日本国中をあっと言う間に北上、吉野は全山俯瞰が一番。好むは楚々たる風情の山桜が針葉樹林の中に控えめに咲く保津峡、そそり立つ山々の斜面に垣間見る。伊豆の河津桜は2月の温泉情緒。御母衣ダムの樹齢400年の荘川桜。岐阜の薄墨桜はえも言われぬ老神の訪問着。角館の土手桜、弘前城の爛漫たる桜花の衣裳美、宇陀の又兵衛桜、真庭の落合桜、醍醐寺の桜などなど、日本人の魂の移入したような老樹は見事!! だが三春町の滝桜は神様にまみえた思い。京都円山公園の枝垂桜は夜の華麗な訪問着。奥琵琶湖海津大崎桜は湖上の船からは格別。大峯山奥駈道は太古の辻から見た全山アケボノツツジの大日岳。台高山脈中央部の池小屋山頂のシロヤシオの群生は感嘆と感動、正に乙女の神様の白無垢衣装だ。この花は五葉躑躅とも申す私の最も好きな花、愛子内親王の紋所となった。九州は九重山、坊がつる湿原の四面の山々のツツジは神様の野良着とでも言えようか。
初夏
とある昼さがり、クラシックを聞きながら屋敷の庭をいじる。驟雨に驚くが、ままよと濡れるにまかせるも冷えるので切り上げる。明るい浴室で暖かいシャワーは心地よい。衣を替えて爽快な気分で書斎に入る。机上には友よりの文あり。急ぎ封を開けば懐かしき数々が心を満たしてくれる。持つべきは心友なり、ふと窓をみれば夕立は去り、早や薄日がさしている。庭の樹木に眼をやれば驟雨は雨滴となり、一滴一滴が青葉、青葉を伝わり落ちて時折キラッと露光る。思わず硯にて受けとめたい衝動が湧く。五滴六滴で硯海は満潮、落ち着いた心で墨をする。友への筆をとる、陽はまだ高い。
微妙なるもの
人間の暮らしとか営みには微妙なるものがある。自然で素朴なのがよい。現代諸悪の根源は成長至上主義にある。人物育成も経済も追求が余りに急すぎた。組織の自己増殖の過程でそれらを失ったであろう殺伐たる現代人の悲哀が聞こえる。
微妙なる営みの中に人間らしい含蓄、風韻が生まれる。その為には発酵と熟成の時が要る。それには自然になることよ、虚を以て養うことよと神の声が囁く。