日本、あれやこれや その40
            
平成19年8月度

 1日 列強の力をどう捉えたか 黒船の砲艦外交に屈服して開国した後の日本の元勲は、欧米の力の脅威をどう認識したであろうか。明治維新後の岩倉使節団の欧米歴訪は、突き詰めれば西洋列強からどのようにしたら「日本の独立」を確保する かが至上命題であった。
当時の元勲は、幕末の修羅場を越えた人物ばかりであり、欧米軍事力への切実な関心が最大のものであったろう。現代日本人のような平和ボケはいない。欧米の植民地に日本をしてはならぬ、というのが最大の命題でありその対策であった。
 2日 西洋の毒牙を見た日本 隣の中国は、当時アヘン戦争に敗北してイギリスに蚕食(さんしょく)されてしまつていた。他のアジア諸国とて同様に欧米の植民地となっていた。

日本が地理的に極東の一番の端にいたことが幸いして列強の毒牙にかからなくてすんだに過ぎない。その標的にされるという恐怖は常にあった。形を変えて現在は酷似している。

 3日 アメリカ黒船本来の意図

本来ペリーが日本に来航したのは、当時アメリカは大陸横断鉄道工事のための労働力を必要としており西海岸はアフリカから黒人の奴隷を連れてくるより中国人

クーリーを狙っていた。
中国人クーリーを運ぶには、日本で石炭や水の補給が必要で、それで日本に港を開かせる必要があったのだ。さらに貿易できれば尚良いということであったと思われる。
 

 4日 日本使節団歓迎の明るさ 1871―2年は、アメリカは南北戦争が終結後五年でありまた国内には未開拓の土地が沢山あり経済発展の余地も十分で日本へ食指を伸ばす必要は無かった。 日本使節団のあの大歓迎の様相は、天真爛漫のアメリカ的で、歴史のあるエキゾチックな日本への憧れが根にあった。当時の日米関係は、初々しくナイーブなもので利害衝突の要素はなかった。
 5日 イギリス 英国は日本に似て、ヨーロッパ大陸から海峡を隔てた島国で他国から干渉される度合も少なく、関心は専ら海外植民地確保にあった。 それも貿易の利が主であり、極東の日本にはアメリカから手が伸びており、その接点が日本であり露骨なことは日本に出来ない状況であった。
 6日 ヨーロッパの緊張 当時のヨーロッパ大陸は陸続きの国がひしめき、その間の争いが激しいものであった。明るいアメリカと対比してヨーロッパは裏側 の国関係の実態が見られたといえる。それがアジアで、その欧米列強の弱肉強食が具に目撃し得た日本の幸福であった。
 7日 久米邦(くめくに)(たけ)の見解 1 「欧米政府の努めは、ほとんど国威を張り、軍備を振るうを、主要とせるものの如し。いわんや欧陸の列国に至れば、全国の(てい)(そう)(壮年男子)を蒐集して兵となし、国中に屯営(とんえい)()()(あまねくゆきわたらせる)す。 これを聞く米国の紳士、欧陸に遊び、各国無用の(みん)(こう)を吸い、有為(うい)の民力を廃し、凶器を執り、(きゅう)(ぜん)()(りつ)せしむるを笑えりと、それ兵は凶器なり、戦いは危事(きじ)なり、殺伐(さつばつ)(たしな)み、生命を軽んずるは、野蛮の野蛮たるところにて、これをサヴェージといい、これをバルバリーといい、文明の君子深く憎む所なり」
 8日 久米邦武の見解2 野蛮の武を好むは、自国相闘うにあり。文明国の兵を講ずるは、外冦(がいこう)(外敵侵入)を防御するにあり」。野蛮の軍備について「自国相和協せず、民を凶器の下に威服するは、文明の点をさること遠し」と。 文明の軍備について「全国の財産を防護するにおいては、軍備の壮なるにあらざれば、外冦を(はら)い難し。列国相持、大小形を異にし、強弱互いに相制する日にあたり、国を防護するの兵は、常に廃すること能わず、これ文明国の常備兵ある所なり」と述べている。
9日 モルトケの議会演説と久米邦武 「法律、正義、自由の理は、国内を保護するに足れども、境外(国境の外)を保護するは、兵力にあらざれば不可なり。万国公法も、ただ国力の強弱に関す、局外中立して、公法のみこれ遵守するし小国のことなり。大国に至りては、国力(軍事力)を以て、その権理を達せざるべからず。」 久米は言う、「今、それ兵備の費を惜しみ、平和の事に充るは、誰か之を欲せざらん」。つまり、軍事費など削りたいのは誰でもだ。しかし「一旦戦が起これば、多年倹勤せる貯蓄は倏忽(しゅんこく)()蕩尽(とうじん)するにあらずや」
10日 久米邦武の見解3 「これ自国を衛る費を節約し、十倍を以て他国の兵備に資せるなり、方今国内、士気を培養鼓舞して、人心一和し、教化の美なるにより、堅牢なる基をなしたれど、ただ境外を顧れば、果 たしていかんぞや。
太平の兆を(ぼく)し、常備兵を解かんことは後世に希望するところにて、もとより当今に行なうべきにあらず。まず兵備を厳にし、武力を以て欧州の太平を護するを専要とす」
11日 欧州の小国に関して ベルギー、オランダ、デンマーク、スウェーデン、スイスなどの小国が大国の間にあり、しっかりと独立を維持していることは励み になったと思われる。
それは植民地になってしまったアジア弱小諸国との対比で特に鮮明な印象を使節団が持ったであろう。
12日 ロシア

問題はロシアであった。日本列島に直に隣接していた欧州の大国・ロシアですから、幕末から一番に関心が高いものであった。中でも長州と肥前は格段にその脅威を感じていた。

使節団は、首都・サンプト・ペテルブルグに行くと、ロシアは決して世界の最強国でないと知る。国力とは軍事力だけでなく、国民の民度や経済力に拠るものが大きいと知る。ロシアはその点から最も開化の遅れた国と認識した。皇帝や貴族のみの繁華奢侈で庶民は極貧の奴隷的生活と見抜いていた。
13日 明治の
国体思案
明治の為政者の頭は、この日本の「国のかたち」をどうするかであった。使節団の主要目的である。それは混沌としていたのだ。 幕末の勝海舟とか福沢諭吉はアメリカの共和制に感心し門閥が無くても人材登用のある米国社会を評価している。アメリカ初代大統領ワシントンの子孫を聞いても誰も知らぬことに驚いている。
14日 横井小南 思想家である。海舟は小南のことを「その高調子なことは梯子をかけても届かない」、坂本竜馬も西郷隆盛も大いに影響を受けた人である。

その小南がアメリカの民主主義は、ひょっとすると理想の政治体制ではないかと言っていた。古代中国の理想社会を「尭舜(ぎょうしゅん)()」と憧れてきたが、ワシントンは尭・舜みたいな人かもしれないとまで言った。 

15日 久米邦武の見解

元来、米国はヨーロッパの中でも、とりわけ自主独立精神に富んだ人々が集まりできた国である。王様も法王もいない、移民してきた人々がみんなで政府を作

るしかなかった。だから、合衆の制で民主国となった。先ず市民があり、村、郡、州、連邦政府とできた。つまり、下から積み重なりできた自主の民主主義であると。
16日 米国と欧州比較 ヨーロッパでは共和という思想が議論されるが、現実的には色々の過去のシガラミがあり実現は難しい。フランス革命はそれをやったわけだ。 だが、現実的には、揺り戻しがきて何回も体制が変わるくらい一筋縄では行かない。その点アメリカは無人の野に等しく、旧体制の束縛もなく純粋の自主民の集団、つまり共和国ができたのだ。
17日 共和制の欠点 久米は共和制の欠点もきちんと見ていた。例えば「議員を選挙で選び法律をみんなで議決する」のは大変公平のように見えるが、「上下院の選士みな、最上の才俊を見つけることは、到底に得るべからず、」と厳しい。 更に「卓越した見識、とか十年、二十年、百年先を見通すような遠識」はとても一般の人々の目には感ずるものは無いので、色々議論沸騰しても多数決で決めると大体に良策が通らない。目先の議論、自己の利益になるように決することが多い」と現今の日本の現実を予言している。
18日 明治の米国国民1 米国の民は、その新しい政治の中で100年を経て、小さい子供まで君主を戴くのを恥とし、それが習慣となり民主主義の弊害を知らない。

そのいい処ばかりを愛して、我が民主主義が最高なんだから、反論しても、少しも聞く耳を持たない。将に「純乎(じゅんこ)たる共和国の生霊(いきりょう)である」と云っている。 

19日 明治の米国国民2 更に、言う、米国は人を見るのも、皆平等だという思いがある。人に接するにもみなフランクで、親しみやすくて結構である。然し、弊害を言えば、官の権威、つまりリーダー、上に立つ人の権威が薄くなる。 そして人々は、自分の権利ばかり主張して、賄賂が横行し、例えば、ニューヨークなどビジネス都では特に富豪・財界の力が大きい、だから政権もその勢力に圧せられているとその弊害洞察しているのは今日的である。
20日 フランス共和制 思想的には共和制の元祖である。フランスは、血生臭い革命をやり遂げて共和制になったけど、その後、帝政と共和制の間を六回も往 来している。
明治初期は、たまたま共和制であったけれども、歴史のある国では、中々に共和制の定着には問題があると観察している。
21日 イギリスとドイツの君主制 イギリスには女王がいて貴族がいて議会もある。シティでは実業家や金融家が勢力を持ち差配している。ロンドンを離れて田舎では、貴族は広大な土地を持ち封建領土のような生活をして いる。夏の間だけ田舎であとはロンドンの館で政治をしている。
王政のようであり、貴族制のようでもあり議会制のようでもある。然も憲法がきちんとしいる訳でもなく、コモンローの慣習法の国である。法制の面でもわかり難い。
 
22日 ドイツ 同じ君主制でもドイツではかなり事情が異なる。皇帝の権力が強く、行政の権は皇帝と執政官であるビスマルクが把握している。皇帝は外交と軍の権利を持ち宰相を任命している。だから帝国議会があり、立法機関

の役目をしているが民意を反映させることが出来ても最終決定権はない。ドイツは、長い間、プロシャ、バイエルン、ザクセンなどの諸侯が競い分裂状態であったが、1871年に統一されたばかりであった。ビスマルクはプロイセンの首相でもあり、ドイツ全体の首相となっていた。 

23日 ドイツに日本との共通点 ベルリンには長州からの留学生・青木周蔵が政治学の勉強をしていた為、木戸・大久保らはこの水先案内人からドイツの政治制度の講義を受け、憲法に関してもイギリスより分かり易い形で制定されている事を知る。ドイツに歴史的にも日本との共通点を感じたのである。 岩倉・大久保・木戸らは天皇を戴いて維新をやり遂げて来たことであり。米仏の共和制にも違和感があり、英国は、もう一つ分かり難いのでドイツあたりが手本として手頃という処であったのではないか。天皇の権威で維新も成功したのでありドイツの君主制が都合よく考えたのである。
24日 国体に関する建言書 国体に就いて、帰国後に木戸と大久保が建言書を提出した。いずれも「君民共治の政治」を目指すものであった。

つまりは、立憲君主制で、憲法があり君主があるという形である。日本には長い歴史を持つ天皇の存在を改めて明治の元勲は認識したのである。 

25日 イギリスの富 明治使節団が常に関心を抱き大きな収穫を得た結論は「国を富ます基礎は、即ち産業と貿易」であることを発見したことであった。中でも国際貿易が交通・通信の飛躍的発展で革命的に増大し膨大な利益を生む事実を確認したことであった。久米は言う「米欧の民は貿易を以て最要の務めとす。 これ東洋の人の目にして商国というところなり。しかれども民の大半は農に従事し、少半は工に従事し、商は百人中に五、六人にすぎず。ただその農たり工たるものまで熱心に物産の融通に注意し、都会の地は共同で、商旅商船をその地に輻輳せしめんことを希うは、東洋農民の夢にも想像しえざるものなり」と、農業国と商業国の違いに感嘆し、日本と同じサイズの島国・英国の繁栄の秘密を見つけている。
26日 久米は言わないが 久米は言及していないが、イギリスの富は、その大航海時代の「略奪的貿易」も含まれているのは周知の事実である。もっと明白に言えば「海賊的行為」で富を蓄積してきたものである。 英国産業革命の源資もそこにあり、その上で蒸気機関を発明し、地下から鉄と石炭を掘り、紡織機械を作り、他国から綿、毛、麻を輸入して織物に加工して輸出し莫大な差益を生み出したものだ。次いで鉄鋼、蒸気船、機関車、諸兵器、諸機械を世界中に販売したのだ。
27日 久米の観察ー西洋人の気宇 日本人は西洋をまるで星の世界のように思っているが、西洋の商人は、世界を見ること、「一都市の如し」と指摘している。 そしてアジアを視野に入れ、世界の交易地図を描いている。「東西洋の航路はほとんど一万海里」として「横浜より神戸、長崎に小停して、上海に赴き、香港に達す、支那南部と物産を交易すべし、シンガポールにて南洋熱帯の物産を交易すべし」と。
28日 科学技術に目覚めた使節団

アメリカを旅した使節団の強く感じたことは、科学的実学と、普通教育の重要性であった。日本には「野に遺利あり、山に遺宝あり」で一般人民が貧弱なのは何故か、と自問し、

思うに、それは、「不教の民は使い難く、無能の民は用をなさず、不規則の事業は効をみず」で人口が多くても、目的がしっかり定まらず、教育も無いようでは、富の増加は難しいと理解した。
29日

久米の嘆き1

アメリカでは「みな熱心に宗教を信じ、盛んに小学を興し、高尚の学を後にして、普通の教育を務む」のだと知る。日本では、上等の人の学ぶものは、高尚の空 理ならざれば、浮華(ふか)の文芸のみ、民生切実の業は、些末(さまつ)(ろう)()として、絶えて心を用いず」、要するに指導者となるべき者が四書五経に親しみ、万葉古今に耽溺(たんでき)し、実際に必要な事業を賤しみ軽蔑して取り合わない、と嘆いている。
30日 久米の嘆き2 また、「中等の人は、守金奴とならざれば賭博流となり、絶えて財産を興し不抜(ふばつ)の業をたつる心なと」。中等の連中は、貯金に夢中になったり、賭博(とばく)に現を抜かして事業を興そう など考えない」と嘆く。「故に下流の賎民は、衣食僅かに足り、一日の命を(ぬす)み呼吸するのみ」だから下層の人民は飢えをしのいでやっと暮らせればそれで良しとしている」だから人間としての価値も無いし人口が多くても富強になれないと嘆いている。
31日 今日の成功と悲劇

「東洋の沃土も、その人力を用ひざれば、国利は自然に興らず、収穫も自然に値を生ぜず、夢中に二千年を経過したり」

「夢中に二千年を経過したり」と使節団の一行は欧米を見て痛感したのであろう。この思想が、欧米追いつけ追い越せの原動力となり、素晴らしい日本文化を捨てすぎた結果が今日の成功と悲劇の遠因である。