徳永圀典の「日本歴史」そのQ  
平成19年8月度

幕末前夜

 1日 勝海舟と西郷隆盛 言うまでもなく勝海舟は幕府の陸軍総裁、西郷隆盛は既に官軍側の参謀である。慶応43141868年、江戸は高輪にある薩摩藩屋敷の一室で対峙していた。同年1月、鳥羽伏見の戦 いが始まり、3月初めには官軍(新政府軍)は江戸に到着し、この会談の翌日には江戸城総攻撃が予定されていた。二人は総攻撃を中止し江戸の町を戦火にさらすことなく官軍は江戸に入れる為の話し合いをしていたのである。
 2日 江戸城開城談判 勝海舟は西郷に官軍が徳川慶喜を助命し徳川家に対して寛大な処分を行うならば徳川方は抵抗せず江戸城を明け渡すと申し入れた。 勝の申し入れに対して、西郷は、暫くして「色々難しい議論もありましょうが、私が一身にかけてお引き受け致します」と答えた。これにより江戸の町が戦場になることが無かった。
 3日 勝海舟の近代性 勝と西郷は互いに認め合う仲であった。勝は黒船来航後、幕府の海軍建設のための幕臣であった。長崎でオランダ人教官から航海術を学び万延元年1860年 咸臨丸艦長として幕府の遣米使節団のアメリカ渡航に参加した。勝は開国後の政治情勢を見て幕府が思うままの政治を続けることは無理だと判断、幕府の「私」を取り去り、諸藩と協力する「公」の政治に進むべきだと考えた。
 4日 西郷隆盛の大胆識 勝は後に幕府海軍操練所の指導を任されたが、坂本竜馬など他藩の優秀な人材を迎え入れ、幕府の海軍でなく日本の海軍建設に務めた。そのために勝には幕府や藩の区別を超えた人々との交流が広がった。 西郷との出会いもそうした中でおきたのである。勝は西郷に幕府の内情を打ち明けて批判し、諸藩による議会政治が必要だと説いた。西郷は勝の見識に圧倒された。勝も西郷の大胆識(はらが大きく据わっていること)に強い印象を受けた。
 5日 西郷の生い立ち 西郷は薩摩藩の下級武士の家に生まれた。開明的な藩主、島津(なり)(あきら)に見出され京都に派遣された。そしてアメリカとの通商条約を巡る政治闘争で大活躍した。処が斉彬の急死で後ろ盾を失い幕府大老・井伊直弼による安政の大獄で追放 され鹿児島に帰った。
帰国したら奄美大島への島流しという運命が待っていた。この島流しが西郷の人格形成を大きく左右したといわれる。三年後に(ゆる)された西郷は、中央で薩摩藩の政治勢力の伸張を企図していた島津久光の指示で再び京都で活躍し、そこで勝海舟と出会ったのである。
 6日 日本という公の発見 西郷の働きもあり薩摩藩は倒幕の道を進み戊辰(ぼしん)戦争が始まった。幕府の勝海舟は、当時は幕府の中にフランスの援助で官軍に対抗しようという動きを抑えた。

フランスが、これに付け込み日本を植民地化する動きがあり勝はこれを危惧したのである。西郷は、イギリスの介入を危ぶんだ。そこで西郷は、慶喜を助命し、徳川家に対する寛大な処分を求める勝の申し出でを受け入れて朝廷を説得する約束をしたのである。

 7日 幕府や藩の「私」を超えた日本人 このようにして幕府や各藩の「私」の利益を離れて、日本という「公」の立場に立つ、歴史的な決断なのである。それは又、西欧諸国の進出から日本の独立を守る為になされた明治維新

という大変革を、そのまま象徴している素晴らしい日本人の大局観ある英知である。これを持たない、当時の朝鮮や中国と比較して雲泥の差が見られる。尊崇すべき祖先を持つ日本人である。 

 8日 幕府軍の滅亡 天皇のもとに作られた新政府の指導者に任命されたのは倒幕派の公家と武士達で将軍徳川慶喜は加えられなかった。新政府は幕府に 天領の提供を命じた。大阪に集結していた幕府軍は怒り、慶応四年、1868年1月、京都の鳥羽・伏見で政府軍に挑戦し破れた。鳥羽伏見の戦いである。
 9日 江戸城無血開城 西郷隆盛は、新政府軍を率いて幕府軍を追撃し、両軍の争いは全国的な内戦に発展した。 新政府軍は天皇の軍隊の権威を示す錦の御旗を先頭に立てて官軍(朝廷軍)としての権威を背景に有利に戦闘を進め江戸を無血で占領した。
10日 戊辰(ぼしん)戦争 内戦はその後、東北にも及び、会津藩では、16、17才の少年20人が自刃する白虎隊の悲劇を生んだ。 1869年5月、幕府側の最後の根拠地・函館の五稜郭が新政府の手に落ち幕府軍は滅亡した。この一年半の内戦を戊辰戦争と呼ぶ。
11日 明治維新 王政復古の大号令は、神武天皇の建国精神に立ち戻ることを(うた)った。その中で、旧来のものを改め、総てを新たに始めることを意味する「()(あら)たなり」という言葉が用いられたので、幕末から明 治初期一連の変革を明治維新と呼ぶのである。
これは、無血革命であり、世界史的にも素晴らしい変革として高く評価されるものである。それは新政府軍また幕府軍共に、日本国としての「公」に目覚めた意識が背景にあり欧米の植民地化を回避し得た日本人の偉大なる変革である。
12日 五箇条のご誓文

一、広ク会議ヲ(おこ)シ 万機(ばんき)公論(こうろん)ニ決ス()シ。
一、上下(しょうか)心ヲ(いつ)ニシテ (さかん)経綸(けいりん)ヲ行フ()シ。
一、(かん)()一途(いっと)庶民(しょみん)(いた)(まで) (おのおの)(その)(こころざし)()() 人心(じんしん)ヲシテ()マサラシメンコトヲ要ス。 

一、旧来(きゅうらい)()陋習(ろうしゅう)ヲ破リ 天地(あめつち)()公道(こうどう)(もとづ)()シ。一、智識(ちしき)ヲ世界ニ求メ (おおい)皇基(こうき)振起(しんき)()シ。

総ての政治は世論に従って決定せよ。(民主主義は明治からあった。)。為政者と国民は、心を一つにして国家統治の政策を実現せよ。(これが現代は決定的に欠けている。)。天地の公道とは国際法であろう。平和のシンボル天皇を基礎に日本の繁栄を求めよ。実に堂々としたもので現代に通用する。民主主義は敗戦によりアメリカから教えられてはいない。
 

13日 近代的立憲国家へ 1868年3月、明治天皇は、公家・大名の前で、新しい国造りの大方針を明らかにした五箇条のご誓文を発した。 議会を設置し、公論即ち公議輿論に基づいて政治を行うこと、言論活動の活発化がうたわれている。これにより日本が、世界文明を取り入れ、近代的な立憲国家として発展して行く方向が切り開かれたのである。
14日

抜本的変革

1868年9月明治と改元した。以後一天皇に一つの元号をあてる「一世(いっせ)一元(いちげん)の制」を定めた。 また、7月には、江戸を東京と改称した。明治天皇は、京都から長い行列を伴って東京に移られ東京は首都となり近代日本の政治の中心となった。 
15日 版籍奉還 新政府は内戦に勝利したものの基礎は不安定、各藩の意向を常に配慮が必要で、日本全体の立場で改革を行うには困難があった。国内が多数の藩に分かれたままでは、外国勢力に付け込まれる恐れもあり国内統一は急務であった。

そこで、新政府の中心である薩摩、長州、土佐、肥前の四藩は、明治2年、藩主が願い出て、その領土(版図)をと人民()を天皇に返還した。他藩も相次いでこの動きとなり、ここに版籍奉還が全国的に実現した。全国の土地と人民は公、即ち天皇のものとなったのである。だが軍事と徴税権限は各藩に残されていた。

16日 廃藩置県 明治7年、大久保利通に新政府指導者は、全国の藩を一挙に廃止する改革の相談を始めた。そして、薩摩、長州、土佐の各藩から集められた天皇直属の約一万の御親兵を背景に7月、東京に滞在していた藩主56人を江戸城に集め、天皇の 名に於いて廃藩置県の布告を一方的に言い渡した。
新政府は、藩の反乱恐れていたが、予想に反して大きな混乱は発生しなかった。新たに置かれた県は、新政府から派遣された知事が治めることとなり、政府の全国統治の基礎がここに確立されたのである。
17日 武士の失職 廃藩置県は、分権的な制度である「藩」を廃止して、中央集権制度下の地方組織である「県」を置くことであり藩に残されていた軍事と徴税権限も新政府のも のとなったのである。
これにより、農民から集められた年貢は藩でなく新政府の管理下に入ることとなった。武士は失職したが、武士の家禄はその後暫くは新政府が肩代わりして給付した。
18日 四民平等社会へ 廃藩置県で足場を固めた政府は、「四民平等」を掲げ、人々を平等な権利と義務を持つ「国民」に再編成した。それは、従来の身分制度の廃止である。藩主、上層公家を「華族(かぞく)」、藩士と旧幕臣を「士族(しぞく)」、百姓や町人を「平民(へいみん)」とした。
そして平民も名字をつけることを許し、すべての人の職業選択、結婚、居住、旅行の自由を保障した。明治4年、1871年には、「解放令」が出され、「えた」「ひにん」と呼ばれた人々も平民となり同等な地位を獲得した。
19日 武士の受け止め方 廃藩置県は武士の失職である。どう受け止めたか。福井藩にアメリカ人のグリフィスが藩校の教授をしていた。廃藩置県の知らせが届いた時、失業することになる武士達は憤慨して大騒ぎとなった。当然である革命だから。だがその渦中にあっても知識ある武士達は「これからの日本は、あな たの国やイギリスのような国々の仲間入りが出来る」と意気揚々と語ったとグリフィスは日記に書いている。
旧幕臣の福沢諭吉は、「一身にして二生を経るが如し」、まるで一生に二つの人生を生きるようだ、と述べている。廃藩置県の知らせを聞いて、感激して死んでもよいと友人に書き送った。先見の明ある武士たちは、変革の必要性をよく理解していたのである。
20日 三大改革 明治政府は、三つの強力な制度改革、即ち「学校制度」、「徴兵制度」、「租税制度」の改革を推し進めた。それは近代国家の基盤を確立するためであった。 これは国民サイドからは、「就学の義務」、「兵役の義務」そして「納税の義務」である。
21日 学制 明治五年、1872年、学制が交付された。教育は国家のためではなく、個人の為に必要であるという国民平等の「公教育の理念」 が説かれた。そこでは「必ス(むら)不学(ふがく)ノ人ナク 家ニ不学ノ人ナカラシメン事ヲ期ス」と宣言されたのである。
22日 学制2 具体的には、全国を八大学区、一大学区を32中学区、一中学区を210小学区に分け、学校制度の全体がピラミッド型の構造となる学区制度の実現を目指した。小学校は6歳入学と定め、上等、下等の各4年に分け、八年生とした。 僅か数年で2万6千ほどの小学校が設立されたが、国家に財力が無かった当時としては、大半は江戸時代までの寺子屋が転用されたものであった。こうして義務教育制度が準備されたが、働き手の子供を学校に行かせるのを嫌がる親もいた時代で、経費負担に苦しむ民衆の反発もあった。
23日 近代的平等の精神 この教育改革で注目すべき点は、ピラミッドの頂点を目指して、総ての児童が同じ場所から出発し、夫々の才能や能力に応じて、どこまでも高く登る事が可能とする「公平の確保」が明瞭に打ち出されたことで゜あろう。 これは何を意味かるのか、教育を通じて、国民にいち早く「平等の機会」を与え、より高い教育を受けた者が、より早く出世することを保証した「能力主義」の考え方である。これは江戸時代までの身分制度を破壊し近代的な平等の観念に基づく国造りをして行く上で決定的に重要な役割を果たしたと言える。 
24日 画期的な日本の教育制度 このような日本の義務教育制度は、当時の欧米でもまだ一般的とは言えない時代であった。日本のこの新制度は大枠はフランスを模したと言われるが、フランス初め西洋諸国は、未だに階級制度の名残りある小学校教育を行っていた。 上流階層、労働者階層、中間階層の区別に基づく三つに枝分かれした教育制度が西洋では現在でも続いている。然し、日本に於いては、アメリカをもいち早く参考にし、武士の子も、町人の子も、同じ教室で学ばせるという階層差を無くして一本化した制度が早くも確立されたのである。これは明治維新の指導者達の、時代の先を見抜く目の確かさを物語っており近代日本発展の核心であると言えよう。
25日 徴兵制度 明治6年、1873年に徴兵制度が布告された。20才に到達した男子は、士族・平民の区別無く、総て兵役に服することとなった。山県有朋が西洋の制度を取り入れて、四民平等の考えに基づく国民軍を造ったのである。 江戸時代まで、武器を帯びて戦うのは武士に限られ、これは武士の名誉であり、特権でもあった。従って、国民に平等に開かれた義務である兵役制は、士族からは特権を奪うものとして反発を買い、平民からは一家の労働力を提供する負担が苦痛であるとして不安をも生んだ。
26日 平民の時代 日清戦争、1894−1895、明治27−28年、平壌占領の一番乗りとされた原田重吉一等卒(いっとうそつ)は、平民出身で国民的英雄となった。 戦死したラッパ手の木口(きぐち)小平(こへい)も平民出身で、死んでもラッパを手から離さなかったとして当時有名になった。江戸時代までは武勲とは縁の無かった平民に新しい時代が訪れたのである。
27日 志願兵相次ぐ 日清戦争では、自ら兵役を志願する義勇兵も平民層から相次いだ。 徴兵制が敷かれて国民に受け入れられ、国難に対する意識が民衆レベルにまで広く行き渡ったことを物語るものであった。
28日 地租改正 農民が田畑でどのような作付けをしてもよいことと売買の自由をも認めた。更に1873年、地租改正に着手した。

全国の地価を定め、土地所有者を確定し、彼らに地券(土地の権利書)を交付した。地券には所有者、地価、面積、地租などが掲載されている。 

29日 全国一律課税 江戸時代の税は、収穫高に基づいて米を物納するものであり、税率も各藩でまちまちであった。 この地租改定により、地価の3lにあたる地租(税金)を貨幣で納める制度に改めた。この為、全国一律で課税することが可能となった。
30日 近代国家の財政基盤確立

地価の決定に当たり、役人が査定した評価に対する不満から、各地で地租改正反対一揆が発生した。政府はやむなく税率を2.5lに

引き下げた。地租改正は、農民の保有する土地に正式に私的所有権を認め、納税の義務を制度化したことにより、近代国家の財政基盤を固めるのに役立った。
31日 明治初期の外交と国境 「清国」1871年、日清修好条規、1874年、征台の役。「朝鮮」1873年、征韓論が起きる。1875年、江華島事件、1876年、日朝修好条規。 「ロシア」1875年、樺太・千島交換条規。「小笠原諸島」1876年、日本が領有宣言。「沖縄」1871年、鹿児島県へ編入。1872年、琉球藩設置。1879年、沖縄県設置。