シナの歴史観、再々考察
この相違は、
「記」の漢字の意味
文章を書き「しるす」という意味、日記,記録,記事といった熟語、出来事やあったことなどをそのまま書き残しているときに使う漢字。
「紀」の漢字の意味
すじみちを立てて示したものやルール。紀行,世紀,風紀と言った熟語からもわかるように,流れや規則を表す時に使われる漢字。
どうして古事記に「記」の漢字を使ったの?
古事記は伝説的な要素があるためではないか、事実ではない歴史を含んでいます。そういう意味では本来なら「記」はふさわしくありません。しかし天皇の神格化を目的に作られたということを考えれば,「こういう歴史的事実があったんだよ!」という意味を込めるために「記」を使ったと考えられます。
『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ、先代舊事本紀)は、日本の史書であり、神道における神典である。『 旧事紀』(くじき)、『旧事本紀』(くじほんぎ)ともいう。 全10巻からなり、天地開闢から推古天皇までの歴史が記述されている。
「続日本紀」、私の好きな元号・天平勝宝六年、754年、孝謙天皇の時代である。日本書紀に続くもので平安時代の勅撰史書です。
続日本紀にこんな話が掲載されている。巻19である。
その年の正月、遣唐副使である大伴宿祢古麻呂が唐から帰国して天皇に帰朝報告をした。
753年だから前年の正月、唐の玄宗皇帝、有名な皇帝です。百官諸蛮族から朝貢した時、日本の使いが、西側の「吐蕃」より下位に置かれた。
皆さん、読んだり聞いたことありますか。吐蕃、どこの国のことでしょうか?
吐蕃とはチベットのことです。
現在、シナの弾圧に遭遇し100万人監禁していると言われる。古代より仏教信仰の国、ろくな軍隊を持たぬが故に、中華人民共和国が成立した途端、人民解放軍に侵略されて、古代からの独自の文明も言葉も弾圧されていますね。
さて、玄宗皇帝の正月、
新羅—今の北朝鮮--の使いは東側の第一、
タージ―国、大食国―サラセンの上に置かれていた。唐ではタージ国と呼ぶ、イスラムの事である。
大伴の古麻呂はシナの皇帝に申したのです
「新羅は古来、日本に朝貢しているのに、この席の位置関係は許せない」と。
日本人は古来から違いますね・・・・
そして席の入れ替えを実現させた。即ち
新羅を西の吐蕃の下に、日本を東の大食国―サラセンの上に入れ替えさせ、吐蕃と向かい合って東の最上位に座った。祖先は頑張っています。
奈良の唐招提寺、行かれたことありませんか。律宗の本山です。6月6日の団扇のお祭りで有名。
鑑真和上の座像のあるお寺、鑑真はシナから日本の渡航を10年間で五回も試みて失敗し日本に到着した時は失明されていましたね。
その鑑真和上を日本に伴って帰国したのが、実はこの大伴宿祢古麻呂さんでした。
---和上と大師号のことを余話にする。
和製漢語=国字のこと
私が国字に関して日本海新聞に寄稿したら、櫻井よしこ先生から自宅に電話あり質問を受けました。感激しましたね、私が寄稿した頃はまで国字は人口に膾炙されていなかったのでした。
総合的見解を述べますとね。
「確かに日本は古代シナの漢字文化圏から出発しました。
しかし、日本はその後、「カナ」を発明して日本語を豊かにしました。結果、独自の文化を育み、日本語を洗練させてきたのです。
最終的には、シナを日本の文化圏に取り入れるに至ったと言えます。日本の中国歴史学者がそう断定しています。
シナは今だに、日本を自分たちの周辺部族のように見ているとしたら事実誤認も甚だしいのであります。強がりなのでせす、検証して見ましょう。
現代では。むしろ逆であります。それはお手元に配布しております和製漢語一覧を見て理解されるでしょう。一説では20万語ともいわれています。
18世紀ヨーロッパで起きた近代思想文明、近代科学を日本はいち早く取り入れ、それを漢語4字の文字中心に日本語に訳した。明治維新による近代化です。
後進性のシナと韓国は、日本発明の国字を使うことにより、産業革命の欧米先進文化の吸収を実現出来た、彼らの近代化の土台を築いているのですね。
日本のお陰で近代化しているのがシナであり韓国なのですね。紛れもない事実です。
なぜ、中国と韓国に「普遍性」が欠けているのか
――それはもこの両国は中世の経験なく、古代から一挙に近代国になったからです。
武士道と騎士道を経験した日本と欧州の素養なのです「普遍性」は、徳永の解釈であります。
人民という言葉も、共産主義も共和国も日本製漢語です。
ある中国学者は、和製漢語は、現代中国のボキャブラリーの大半を占めている、
和製漢語は現代中国で書かれた文章の七割だと嘆いています。
現代中国語や韓国語は、日本語の熟語だらけなのです。
だから、近代中国や韓国は日本文化圏であります。
少なくとも日本人は自信を以て明確に認識しなくてはなりません。
長征に関して
毛沢東の英雄譚のように語られるのが「長征」ですね。都合が悪くなるという彼らの辛抱のことです。
歴史学者の言によりますと、毛沢東にとり長征はライバルを蹴落とすための旅だった。わざわざ遠回りして内戦を続け内陸部に進むのです。
最後に延安に行き着いた時は、10万人の党員が数千人になったと言われるが実際は3万人が残ったのを大げさに仕立てあげたのです。当てのない逃避行です。
ハングル=韓国
ハングルをやめてしまえば、朝鮮、韓国語は、
日本語の語彙ばかりだそうです。
だから意地になって漢字を廃止したのですね。
真実の韓国の歴史は惨憺たるものです。
どうしようもない韓国の歴史、だから国民にウソをつかなくて国家が持たない。
いい事、何一つなかつた李王朝500年
朝鮮の身分制度は
両班、中人、常民、賤民、奴婢の五階層。
両班は支配階層で一割足らず。
中人は一般的には農民のこと。
それ以下は奴隷階層。
この李氏朝鮮を建国したのは、韓国人は絶対の認めようとしないが
実は、明に加担してモンゴルと高麗を裏切り、李氏朝鮮を建国したのは「李政桂」で満州族の女真族である。
中国の皇帝に国の名前をつけて貰い、首都京城ことソウルもそうである。
特産品がないので、明に朝貢するときは、女官と宦官を差し出す。李氏朝鮮は明代の宮廷にとっては女官と宦官の供給地であったのが史実。
何もいい事なかった五百年の歴史から史書の一行か二行取り出して、明るく美しく描いたのが韓流歴史ドラマであります。
「宮廷女官チャングムの誓い」と「ファン・ジニ」ですねる。
古代朝鮮は日本の勢力圏
最初に述べた玄宗皇帝の席順でお分かりでしょう。
現存する韓国の最古の歴史書は12世紀の「三国史記」、それによりますと、
高句麗は紀元前37年に建国。前漢を乗っ取り「新」を建てた王莽に攻撃され一時壊滅状態、再興し391年に即位した広開土王の時、領土を拡大して最盛期を迎える。都は広開土王碑のある現在中国吉林省の輯安であった。唐に滅ぼされた。
広開土王の石碑は有名ですね。
414年、生前の勲功を息子が称えて建てたものです。長い間忘れ去られていたのです、1400年間も忘れられていた、清国の1880年、清国の役人が石碑の拓本を取った。日本の砲兵大尉酒匂景信が拓本を日本の持ち帰り解読と研究が開始された。
高さ6メートルの石碑で四面に漢字が刻まれている。表面が削れて文字のない場所もあった。1802字と推定、全く判読できない文字を除外する1542文字も辛うじて読める程度、一流の学者が苦心して解読しました。
石碑の碑文で有名な箇所、
「倭以辛卯年来渡海破百残「 」羅以為臣民」
倭は辛卯391年をもつて来りて海を渡り、百済・新羅を破り、もって臣民となす」である。
百残とは百済のこと、誓いを裏切って高句麗に征討された国だから「済」のような好い字を使うことを避けて賊、悪、欠の意味のある「残」に置き換えたという説が有力です。
古代から裏切りの国・朝鮮半島なのですね。資質は変わらぬのですね。
戦後、
韓国や北朝鮮は、この拓本は日本軍が改竄したものだと言い出した話題を記憶しています。
この時、日本の進歩的文化人の中にも同調する人が現れました。
そればかりか碑文を曲解して高句麗が海を渡って倭を攻めたのだという韓国人学者もいるのです。
しかし、ラッキーなことに、
2005年となり、14年前です。
1884年の日本の調査隊以前に採られた拓本が中国で発見されました。
それが日本の拓本と完全に一致すると、中国社会科学院が発表したのです。
韓国人は、今度は、中国が改竄しているかの如く言い出して絶対に認めようとしていません。
実は広開土王碑には、他にも倭との戦争記録が刻まれているのです。
400年に倭軍が新羅を攻めた時には高句麗が救援を送っています。
404年にも、倭が帯方郡を攻め高句麗が倭軍を破っています。
古代朝鮮半島にて、我々の祖先の存在感は非常に大きかったのですね。
日本書紀に三韓征伐が記載されるだけでなく「三国史記」ですら度々倭が新羅を攻めてきたと言っているのですからね。
任那日本府という呼称、聞かれたことありますか。
現代の日本の教科書には影も形もないのですが、
倭人の本拠地は朝鮮半島南部にあったのは史実です。
478年、倭武王とありますから雄略天皇と思われますが、宋の皇帝かせ貰った称号があります。
「使持節・都督倭・新羅・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」なのですよ。
朝鮮半島は倭の勢力範囲であったのですね。
何の裏付けも無くシナの皇帝が称号をくれるわけはないのです。
古代からの朝鮮半島の情勢と半島人の欺瞞性を検証してみました、
令和元年8月2日
徳永日本学研究所 代表 徳永圀典