覚者の言葉
道元禅師
「仏道をならふといふは、自己をならふ也。」
「自己をならふといふは、自己をわするゝなり」
「身心脱落 脱落身心」 「只管打座」
「仏道をならふといふは、自己をならふ也。・・・」
と道元禅師は述べられているが、何を学ぶかというと、仏性を学び仏性に徹することだ。
仏道はどのようなものかなどと頭の中で考えあぐるのではなく、仏性に浸りきることだ。これが修行だ。
「自己をならふといふは、自己をわするゝなり」につながる。仏道修行のハタラキの中に真の自己が現れ、仏性が顕れる。
正法眼蔵九十五巻は、すべて仏性の道理をお説きになっている。この『仏性』巻は、仏性を真正面から述べておられる。しかし、仏性という特別なものがあって、それをお説きなったのではないことに注意が必要だ。
正法眼蔵九十五巻という名の森は実に深い。宇宙を包み込んでいると云ってもいいものだ。
多少なりとも仏教に関心を持っている者なら、仏性という言葉を知らぬ者はないだろう。しかし、ここに落し穴がある。
まず、経典に向い合うには、これまで身に就けてきた知見を離れなければならない。
小賢しい「我見」を捨て去ることが大切だ。口で言うことは容易だがなかなかできぬことだ。
四六時中、机に向かっていても至らぬ。
たった、今云ったばかりのことだ
「仏道をならふといふは、自己をならふ也。」
「自己をならふといふは、自己をわするゝなり」につながる。
仏道修行のハタラキの中に真の自己が顕れると云うこと。仏道修行のハタラキは様々だけれど、坐禅のハタラキが何よりも勝る。
しかし、坐禅のハタラキを自己の身の上に期待しようものなら、たちまちのうちに坐禅のハタラキは消えてしまう。
正法眼蔵九十五巻の中で、道元禅師はこれまでの伝統的な経典解釈とは異なる見解を随所に示されておる。
如是我聞
正法眼蔵の中でも『仏性』巻は、やっかいだけれども大切な巻のひとつだ。『弁道話』と『現成公案』とともによく参究する必要がある。
徳永日本学研究所 代表 徳永圀典