鳥取木鶏研究会 平成21年8月例会

こう(ぜいこう) 火上(かじょう)雷下(らいか) 画像:Ri_.png 画像:Shin.png 火雷噬?(からいぜいこう)

好事魔多し、と申しまして何事につけても順調にいくと、又邪魔者や、妨害が出でくる。そこでこれを粉砕しなければならないという卦がこれであります。

噬こう(ぜいこう)とは、()あわすという文字であります。つまり飲み込んではいけない。十分に咀嚼(そしゃく)する。物事を十分考えて処理しなければならないということであります。

() 山上(さんじょう)火下(かか)画像:Gon.png 画像:Ri_.png  山火賁(さんかひ)

難問題を処理して、()の卦に至ります。()あや(○○)かざる(○○○)という意味がありまして、先の臨と結びつけて、

賁臨(ひりん)という言葉がある。これは臨席のもう一つ上の、その人が臨席してくれることによって光る、輝く、一座に光彩を添えるという時に使います。だから、余程偉い人に使う言葉であります。御賁臨(ごひりん)を仰ぎますというように使いますが、自分が賁臨(ひりん)するなどと言ったら、これは大きな誤りであります。

()の字は、又やぶれる、失敗するという意味もありまして、?(りっしんべん)をつけますと(ふん)(いきどおる)という字です。物事を叩き壊すというような怒り方を憤と言います。ただから腹を立てて死ぬことを怒死と言わないで憤死(ふんし)という。文字をこのように見ますと立派な学問であります。その賁の一番至れるものを白賁(はくひ)と言いまして、あや(○○)かざり(○○○)の究極は白であります。素であります。自分自身で、とってくっつけたものは駄目であります。 

(はく) 山上(さんじょう)地下(ちか) 画像:Gon.png 画像:Kon.png 山地剥(さんちはく) 

()は至れるものですが、一度間違えるとやぶれます。そこで()の次にこの剥の卦を置いております。

この卦は、陰が上昇して僅かに上に一陽が残っておる転覆崩壊の危を示す卦であります。剥落(はくらく)と申しますと、御破算を意味し、もうこうなりますと出直しであります。次の覆であります。

.(ふく) 地上(ちじょう)雷下(らいか) 画像:Kon.png 画像:Shin.png 地雷(ちらい)(ふく)

(はく)一転すれば復であります。一陽来復(いちようらいふく)であります。易は極まるところがありません。万物自然を見ますと、秋から冬を迎えて、木の葉は皆剥落します。

いわゆる木落ち、水尽き、千崖枯(せんがいか)るという景色になりますが、春を迎えると、再び下から青草が萌え出し、木の芽が出る。()(はく)すれば復であります。これが復の卦であります。 

.无妄(むもう) 天上(てんじょう)雷下(らいか)画像:Ken.png 画像:Shin.png 天雷无妄(てんらいむもう)

(もう)みだり(○○○)うそ(○○)いつわり(○○○○)であります。これ等が無いということですから、本来に(かえ)って出直す時には、一切の嘘、偽りを無くして真実でなければならぬ、ということであります。

この卦は天の下に雷があるから、落雷の(しょう)であり、不慮の災難を意味します。幕末の大儒(たいじゅ)・佐藤一斉の詩に、「赴所不期天一定、動於无妄物皆然」、期せざる所に赴いて天一に定まる、无妄(むもう)に動く物皆然り、虫のいい人間の期待など一向に当てにならない、物事は寧ろ思いがけない所に行ってぴたりと定まる。何事によらず、天の无妄(むもう)・自然の真理によって動くのである、という有名な詩であります。 

.大蓄(たいちく) 天上(てんじょう)雷下(らいか) 画像:Gon.png 画像:Ken.png (さん)天大蓄(てんたいちく)

この卦は、風天小蓄(ふうてんしょうちく)(画像:Son.png 画像:Ken.png)と比較される卦であります。小蓄に比べて、蓄え方が強く且つ積極的であるという卦であります。

復して新たに活動するときには、出きるだけ大きな内容と、蓄積がなければなりません。内容、蓄積に欠けますと活動を新たにすることができませんから、大いに蓄えなければならないという卦であります。 

.() 山上(さんじょう)雷下(らいか) 画像:Gon.png 画像:Shin.png (さん)(らい)()

()あご(○○)である。この卦の上卦が上あご、下卦が下あご、また、中の四爻(しこう)が上下の歯と見ることが出来、養うという意味があります。

具体的に何を養うかと申しますと、禍の基となる言語を慎み、健康の基である飲食を節して、自らの徳と身体を養うことであると教えておるのであります。 

大過(たいか) 澤上(たくじょう)風下(ふうか) 画像:Da_.png 画像:Son.png 澤風(たくふう)大過(たいか) 

この卦は、(さん)(らい)()の裏返し((さく)())であります。初爻(しょこう)上爻(じょうこう)が陰で弱く、中の四爻(しこう)が総て陽で大()の過ぎる卦であります。つまり四爻(しこう)(むなぎ)であり、初爻と上爻がこれを支える柱でありますが、棟が強過ぎて支える柱が弱いため、家が倒壊する危険がある。

また人事関係で申しますと、責任が重過ぎるという卦でありますが、これを突破する為に大きな努力が必要であり、努力によって功を奏することができるという卦であります。このように我々の生命、人格、事業の変化、変遷というものを辿って参りまして最後に五行の水に至ります。 

.(かん) (すい)上水下(じょうすいか) 画像:Kan.png 画像:Kan.png (かん)()(すい)習坎(しゅうかん)

(かん)は水であります。水はくぼみに入り、これを埋めて流れますから坎(あな)であります。水の重なる卦でありますから、習坎(しゅうかん)と言います。

苦労は人間を磨き、新たな勇気や力を生じ、努力していけば、必ず他より敬重せられると教えております。 

.() 火上(かじょう)火下(かか) 画像:Ri_.png 画像:Ri_.png ()()()重明(じゅうめい)

(かん)()(すい)を裏返した(錯卦)であります。上卦、下卦とも火でありまして、火は何ものかについて初めて炎上し、火としての特性を発揮する。また離は、はなれる(○○○○)と共につく(○○)という意味があります。

この火の従うという特性は、人事で申しますと、人が何につき従うかということでありまして、慎重に正につき従うことを考えなければなりません。これによって吉慶を得ることができるのであります。 

終わりは新たな始め

乾坤(けんこん)から始まって、(かん)()に至る易の卦を辿ってみると、実によく思索し、把握し、推敲(すいこう)されて極めて自然であります。それが、下経になりますと、やや人為的、人間的でありまして、その最後は、「既済(きさい)未済(みさい)」です。ザッツオールというのが「既済(きさい)」、それと同時に「未済(みさい)」であります。終わりは新たな始めです。終わりは決して終わりでなく、やがて始まる。循環であります。上経三十卦、下経三十四卦、合計六十四卦をもって易は出来ておるのであります。

―そこで、この易を研究してまいりますと、円転滑脱(えんてんかつだつ)というか、無限、無窮、実によくできておりまして、さすがに何千年もかれて練り上げられたものであるということが、しみじみ分かると同時に、易を学びますと、軽薄にのぼせ上ったり、或いは意気地なく失望落胆することがなくなります。また変転極まりない人間学と、自然の観察に基づく人間の考察、解明でありますから、易を学ぶことによって始めて我々は、限りない自由を得ることが出来る。これが易経の妙味と言いますか、興味の深いところであります。 

(ぶん)(めい)文迷(ぶんめい)の時代こそ易を

此の頃、文明は、まさに文冥になりつつある。冥までは参りませんが、少なくとも迷うておることは事実です。文迷であります。何とかこの現代文明を文冥にしないように努力しませんと、大変なことになるので、最近ヨーロッパにローマ・クラブというのが出来ました。アメリカにも出来ておるようですが、多くの学者が集まって真剣に現代文明の研究、批判と修正を目的として努力しておるようであります。

どうも、まだ日本にはそういうものが、個人的には少しあるようですが、結束してやっておるというのがありません。やはり日本人は、西欧人のように自治的でなく指導力というものを必要としますから、安定した内閣をつくり、内閣が音頭をとって学者や識者を集めて、この近代文明の弊害を救い、新鮮な時局を打開することに努力しなければなりません。 

易は活学そのもの

アメリカ大統領は一回当選すれば任期が四年ありますから、日本の内閣も一度組閣すれば四年は保つというような、少なくとも地方長官ぐらいの任期を持つ内閣にする。そうすると二期やれば八年ですから、四年から八年やると相当やれます。

易学から申しましても、かなり見込みのあるというか、意義ある政治をやることが出来ます。優れた同人を集め、大きな力、大有にして、謙虚に、大いに能力を発揮していけば、どのような大きな事業でもやることが出来ます。従って易をやりますと政治経済、道徳、諸般のことに関して深い示唆を受けることが多く、易学は本当に、天地人生を通ずる原理の学問であるとともに、道徳、政治を通ずる活学であります。 

六十四卦を一通りやりますと、我々の精神、頭脳というものは非常に豊かになり、あきらかになります。実によい学問、貴い学問でありますが、それだけに難しいと言えば確かに難しい学問であります。然し、これは手ほどきが肝腎であります。初めを誤ると「初めあらざるなく、終わりあるは鮮し」とと言いまして、途中で皆が参ってしまいます。そこで始めに入門を正しく、懇切にやりますと、易学というものは、やればやる程味のある、深味のある生きた学問てであります。

私達の人生も、事業も、民族も国家も、これは大いなる易でありますから何にでも通ずるこの上ない学問であります。最初に申しましたように、人類の興亡の歴史を研究しておって、すっかり行き詰り、煩悶懊悩しておったトインビーが、図らずもこの東洋の易というものを発見して、易の六十四卦循環の理を知るに及んで、始めて活眼を開くことができたと、非常に感激をもって語っておりますが、我々も真剣に易学をやりますと、窮するということがない、本当に救われるというか、浮ばれるというか、意義深いと同時に非常に美しい学問であります。  (昭和五十三年七月十八日講)