仏道をならふというは、自己をならふなり 

 これは道元禅師の「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」の中の著名な「現成(げんじょう)公安(こうあん)」の言葉です。 

「仏道」とは、仏(釈尊(しゃくそん))の説いた教えであります。仏道は仏法とも言います。

仏道を習うということは、(ほか)のことを習う(学ぶ)のではなく、自己を習う・学ぶことだーと道元禅師は説いておられます。 

 道元禅師は、「仏道をならふというは、自己をならふなり」に続いて

 「自己をならふといふは、自己を忘るるなり、自己をわするるといふは、万法(まんぽう)に証せらるるなり」と、

ストレートに畳み掛けてこられます。

「自己を習う・自己を学ぶ」とは、「自己を忘れること」、忘れるとは、忘却でなく、

自己に(とら)われない・自己を超えること」だといいます。

「万法に証せらるるなり」の「万法」は、「一切の差別の現象」ですが、要するに森羅万象(一切の事象)のこと。                      従って、「万法に証せらるるなり」とは、

森羅万象―全てのものに支えられて生きさせて頂くので、自分一人の力ではない、という事であります。

すると自己を習うとは一切に生かされて生きる「真実を知るとの結論になるのであります。

このように、わかった自己を更に習うのが禅で、自己とか他者と言った仕切りが除けられ、自己への執着心がすっぽりと抜けます。

そこへも定住せずに、無心に他の為に尽くす自己を習い続けるのです。